第10話
日を改めて彼らは市場に来ていた。
一旦は大麦で実験することに決定はしていたのだが、いくつか問題があったからだ。
理論的には麹菌と大麦、塩だけで醤油も味噌も造れる。理論的には全く問題が無い。問題が無いが、しかし……日本に大麦だけで造る味噌の種類が存在しなかったのだ。
少なくともイサムの『全知』では判明しなかった。『全知』は便利な様でいて……存在しないものの知識を得ることが出来ないなど、制限は多い。
大豆と大麦の半々で造る麦味噌なんていう種類が実在するのだ。誰かが大麦だけで造ろうと考えないわけが無い。思いつかない方がおかしいレベルの発想だ。それなのに種類として成立していない……雲行きはあやしかった。
味が極端に悪い、使い物にならない、なにか別の理由で成功しないなどの理由が想像可能だった。昔の日本人が代用品や間に合わせとしてでも造らなかったのだ。重大な問題を抱えている可能性が高い。
そして――
「色々やってから『市場に行ったら大豆があった!』とかなったら……オレ様たち馬鹿みたいじゃないか?」
というリーンの当たり前すぎる提案が駄目押しになった。
この世界の……中世の市場は毎日開催されているわけではない。地域の活力に応じて五日おきだとか、十日おきだとかに開催されている。都市の――王都であっても――購買力が貧弱すぎるのだ。
また、市場の半分以上は現代で言うリサイクル商の出店だ。つまり、中古品の売買をしている。
これはありとあらゆる商品が高いのが原因だ。
この世界ではどんな商品でも何かしらの職人が制作する。食器、調理器具、衣服、家具類……とにかくありとあらゆるものが手作りだ。
仮に職人一人あたり年に五十個しか作れない商品を想定するとしよう。
その商品は職人の年収を五十分の一にした金額では絶対に買えない。その値段では職人が食べていくことすら不可能だ。材料費や工房の維持費、必要なら助手の賃金、現代とは比べ物にならない燃料代などの色々な必要経費を代金に上乗せしなければならない。
少なく見積もっても粗利で年収の倍、商品に拠っては数倍でなければ仕事を継続することすら困難になる。税率や必要経費が高ければ値段は果てしなく高くなっていく。
この例だと少なく見積もって商品の代金は職人の年収の4パーセント、月収に直したら約五割だ。
もちろん、月収の全てを商品の購入に充てることはできない。最低限の生活費が必要だ。なにか品物を購入しようとすれば数ヶ月の……場合に拠っては年単位の貯蓄が必要となる。
とは言え、それは新品の話だ。
基本的に一般庶民は自作できるものは可能な限り自作するし、直せるものは可能な限り直そうとする。そもそも、我慢できるものは限界まで我慢する。それでも自作不能な商品であったり、どうしても必要となれば中古品を買い求める。
中古であっても使用に耐えうるなら十分な価値がある。難があってもそれしか買えないのならボロボロでも買うしかない。
商品は使用不能になるまで使い倒され……中古市場を何度もぐるぐる回ることなる。服、靴、家具、食器、鍋釜、武器、防具などなど……ありとあらゆるものがだ。
そんな事情でも流石に食料品は新品だ。
食料は野菜、果物、穀物、ハーブ、家畜などが見受けられた。
王都は海に近くないので水産物はほとんど売られていない。売られていても近くの川で取れた魚がほとんどだし、たまに海のものがあっても干魚くらいだ。
四人は気がつかなかったが、市場は盛況と言ってよかった。
長らく人々の心を暗くしていた魔王軍との戦争がようやく終結したからだ。戦争の痛手から回復するのはまだまだ先のことであろうが……人々の心は明るく、浮き立っていた。四人の手柄と言ってよかったが……リーン以外の三人は以前と比較できなかったし、リーンはあまり細かいことに気がつくタイプではない。
「いつ来ても……市場は圧倒されますね」
顔を引き攣らせながらイサムが感想を述べた。
これはイサムが軟弱という訳ではなかった。控えめに言って、現代の日本人にとって市場の光景は圧倒的で……混沌的とも言える。
まず人々の体臭ですぐに鼻がだめになる。
入浴や沐浴の習慣が無いとは言えないが、気温や燃料の問題で毎日の入浴はとてもできない。それどころか全く入浴の習慣が無い者すらいる。
そして基本的に人々全てがそうなのだが、毎日着替えたりはしない。一般的な衣服ですら高価なものであるから、毎日着替えられるだけの替えの服がないのだ。洗濯している間に着る予備の服があるのはまともな方で……洗濯物が乾くまで裸でいるしかない者も少なくない。
そんな人々がたまの市場だというのでわっと集まっているのだ、イサムが顔を引き攣らせるのも解からなくもないことだった。
「俺は……これを早急に何とかするべきだと……」
クローは地面に視線を落としながら意見を述べた。
クローの視線の先……というより、いたるところに糞が落ちていた。馬糞程度は標準装備でそこらじゅうに人糞が転がっている。中世ヨーロッパの人々は糞尿の処理に関して無頓着すぎるといえた。剛の者になると二階の窓から桶に貯めた糞尿を棄てるというのであるから……何も考えていないとしか言えないし、中世ヨーロッパの人々が世界平均でアレと呼ばれても仕方が無いかもしれない。
「そのうち糞尿の買い取りでもしますか。肥料にする云々より……公衆衛生の問題として。これじゃ病気が心配になります。お金を出せば集めて持ってくるようになるでしょう。予算は肥料生産でペイすることにして」
イサムの言葉は杞憂でもなんでもない。この環境で手掴み回し飲みが基本だ。病気になる準備はできているとしか言いようが無い。
「ふふん、素人どもめ。オレ様は二度目の十歳になる前に、深く考えない技術を習得したのだ」
偉そうにリーンが無責任なことを言うが……ある意味、正解の結論かもしれなかった。
ありとあらゆる方面に、とにかく何とかしなきゃいけないことが多すぎる。それが中世という時代なのだし……その時代に生きる人を責めるのは酷というものであろう。
「まあ、その辺はおいおいな……郷に入っては郷に従えともいうだろ?」
諦め顔でコウは言った。
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