『悪役令嬢と過ごす10年あるいは7日間』小噺
ツユクサ
キャサリン·メリーの独白
キャサリン·メリーは、マリーゴールド·メル·シンプリーの侍女でありました。
彼女の乳母の子として生まれ、幼少の頃より彼女にお仕えしてきたことは、私の人生にとって唯一の誉でございます。
私のことを語るなら、まず奥様のことを語らねばなりません。
ひとり暗い牢の中、誰が聞くこともない昔語りでございます。
せっかくなら、奥様ではなく、久しぶりに……マリー様とお呼びしてもよいでしょうか。
マリー様は、孤独な人でした。
先代辺境伯は仕事を理由に屋敷に帰らず、先代の奥様も、恋人のところに入り浸っておりました。
現辺境伯である弟君も、幼いうちから跡取りとしての教育があったため、マリー様とは別のお部屋で、お過ごしになっておりました。
彼女は、いつもひとりでした。
マリー様があれるぎーで倒れた晩も、お屋敷にはマリー様と弟君と、我々使用人のみでした。 早馬による連絡を受けていたはずなのに、辺境伯が帰宅したのは夜明け頃でした。
さすがに奥様はすぐご帰宅されましたが、次の日にはもう屋敷にはいらっしゃらなかった。一命を取り留めたとはいえ、マリー様はベッドから起き上がることすら出来なかったのに。
実の父から『病なんぞにかかりおって』と罵られるマリー様の御姿を思い出すと、いまだ身体が震えます。
マリー様の病を治そうと躍起になっていたのだって、彼女がすでに公爵令息とご婚約していたからで、娘を愛していたからでは無いのです。
マリー様も、幼い頃は両親を想い泣くこともございましたが、次第に諦観を覚えられ、親には何も求めなくなりました。
そのぶん、夫婦というものに強く憧れを持つようになりました。婚約者である公爵令息とのご結婚にも、多くの期待を抱いていておりました。
しかし、公爵令息……、今の公爵閣下との関係も良好とは言い難いものでした。それも仕方の無いことです。
おふたりの考える『夫婦』は、あまりに離れすぎていたのです。
公爵閣下にとって、愛とは許容することでした。
彼の母、先代公爵夫人は、伯爵令嬢でありながら、優秀な薬師でありました。
結婚された後も、御子をご出産された後も、数多くの新薬を作り出し、国に、民に、貢献し続けたお方です。
公爵夫人ともあろうお方が働くなど、しかも薬師などという市井の仕事、本来ならありえないことです。しかし、先代公爵閣下は、その活動の一切を咎めることはありませんでした。
世の中には、妻が社交の場に出ることも嫌い、着るものや食べるものにすら口を出す夫もいるというのに、先代は妻の自由を許していました。
そして、公爵閣下も、父君と母君の関係を習い、マリー様にかなりの自由を許していたのでした。
きっと、マリー様が何かを起こそうとしたならば……、例えば、自らサロンを開きたいと望んだなら、公爵閣下はその許可を下さったでしょう。
活動資金を工面して下さったかもしれません。サロンを開くのに丁度良い屋敷を、一緒に探して下さったかもしれません。
公爵閣下にとっての夫婦は、互いに自立し並び立つものだったのでしょう。
しかし、マリー様にとって、愛とは寄り添うことで、夫婦とは同じ時間を一緒に過ごすものでした。
もちろん、マリー様は『仲の良い夫婦』など知りません。あの実のご両親は、もはや仮面夫婦とすら呼べない、ただの他人でしたから。
けれど。だからこそ、マリー様は仲睦まじい夫婦に憧れを抱いたのです。
常に共にいて、寄り添い、笑い合う。そんなおとぎ話のような結婚を求めておりました。
公爵閣下は、この国の二大公爵家の当主で現国王の側近であらせられます。
私のような一介の使用人風情では想像も出来ませんが、おそらくとても重要な仕事を、数多くこなさなければならないのでしょう。屋敷にお帰りにならないこともありました。
その度に、マリー様は癇癪を起こし、久しぶりにご帰宅された公爵閣下をひどく責めました。
マリー様も、閣下がご多忙であることはよく分かっていたはずです。仕方の無いことだと、理解はしていたはずです。
きっと、多忙な公爵閣下のお姿と、自分の父君とを重ねていたのでしょう。それが、幼少の頃の寂しさを思い出させ、より御心を乱していたのだと思います。
彼女は、親から与えられるはずの無償の愛を、夫の公爵閣下に求めていた。けれど、公爵閣下とマリー様は政略結婚、利益を求めて結ばれた契約です。無償の愛など、どうやって生まれるというのでしょう。
公爵閣下の自立した夫婦像も、マリー様の愛し合う夫婦像も、どちらも一般的な、貴族の夫婦像とはかけ離れています。そのことにお互い気づいていながら、お互いその理想を捨てられなかった。
上手くいくはずなど、なかったのです。
彼女は、ずっと愛を求めていました。
彼女に愛を与えてくれた人間はただひとり。彼女の乳母……そう。私の母だけでした。母は、マリー様の境遇を哀れみ、彼女のことを心から案じておりました。
そのために、母は娘である私に、『マリー様の御心に寄り添いなさい』と、ことある毎に言い含めました。同時に、侍女として必要な、あらゆることを私に教えました。
マリー様が11歳のとき、母は患い、屋敷を去りました。母が乳母を辞してからも、私はマリー様付きの侍女としてお傍におりました。
……確かに、初めは『マリー様のおそばにいてあげてほしい』という、母の願いを叶えるためでありました。心からお仕えしていたわけではありません。
人とは変わるものです。どのような人生でも、今後の全てを決めてしまう、決定的な出来事というのがあるでしょう。
私は、そう、あの時。私の婚約が破談となった、あの時です。
15歳のとき、私にも縁談がやって来ました。
私の父の知己の男爵の子息。物静かで、堅実な性格のお方です。古いしきたりなどを大切にしておりました。少々神経質なとこがおありでしたが、マリー様と比べれば気にもならない程度です。
お相手との会話は穏やかで、心地よいものでした。彼も同じように思ってくださったのでしょうか。話はトントン拍子に進みました。
だからこそ、『婚約を白紙にして欲しい』と告げられたときの衝撃は、今なお忘れられないほどです。
彼も、彼の父も、誠実な方です。温厚で真面目な私の父の友人なのですから。温厚な父も、そのときばかりは怒りに任せ、お相手のお家へ押し入り、厳しく追及しました。
理由は……。えぇ、マリー様です。彼女が、お相手のお家に圧力をかけて……。
改めて……、あちらから謝罪を受けていたとき、婚約をご報告をした際のマリー様の様子を、思い出しました。
彼女は一言『そう』と仰った。その晩は、食後必ず召し上がるはずの果物を、一口も召し上がらなかった。
婚約が白紙になったことをご報告すると、やはり彼女は『そう』と仰った。私がお剥きした桃をかじり、『残念だったわね』と。
その言葉を聞いて、私はお相手の話は本当だったのだと確信しました。
彼女は何も仰らなかったけれど、彼女がそうしたのだと。
そのとき、私は……、マリー様が私の婚約を阻害したことに気づいたとき……、私は嬉しかった。
自分のものを手離したくないと、ただをこねる子どものような、あまりに未熟な独占欲が、たまらなく愛おしかった。苛烈な性格の裏に隠れた、繊細な御心をお守りしたかった。
心から、彼女にお仕えしようと思った。
その時に初めて、私は、マリー様の侍女になったのです。
それから、ずっと私は彼女のそばにいました。
2つ下の妹が他国に嫁ぎ、肺の病で母が亡くなり、後を追うように父も逝ってしまいました。
爵位はお返しし、かつて住んでいた家も売り、帰るべき場所も待つ人も無くなってしまったけれど、かまわなかった。
家族を得ようとは思いませんでした。夫を得ようとは思いませんでした。子を得ようとは思いませんでした。
彼女が望まないなら、結婚も子どもいらなかった。
いらなかったのです。
……半年前、料理長から相談を受けました。奥様の喜ぶ料理は何か、と。
マリー様が公爵家に嫁いで10年にもなるのに、そんなことも分からないのか、と言いたい気持ちはありました。
けれど、過去の恐ろしく辛い経験から、彼女は、食事にはとてもとても敏感でしたから、料理長の苦悩も分かります。
ふと、思い出したのです。初めて、クレプスファルの花を見たときのマリー様の笑顔を。
蝶のように鮮やかで、どこか儚さを滲ませる朱色の花を、彼女はとても気に入っておりました。
クレプスファルの花のことを、料理長にお話しました。他意はありません。本当に……、あの花はとても珍しい花でしたから、きっとお喜びになるだろうと思った。それだけです。
……変わったのは、ほんの一週間前。よく覚えています。最近のことですし、10年後も50年後も、覚えていたはずですよ。きっとね。
アンダーソン伯爵夫人から、お茶会の招待状が届いた日でした。マリー様は、早速お返事の手紙を書かれました。そのお傍で、私は封蝋の用意をしていました。何気なく、ただの世話話としてマリー様は、仰った。
『貴女、結婚する気はない?』と。
彼女が贔屓にしている宝石商が、後妻を探しているそうです。
結婚してすぐ子が出来たけれど、出産と引き換えに妻を亡くしてしまった。ご子息はまだ5歳。母が恋しい年頃だろうと、後妻を娶ることにした。宝石商の年は、私と同じくらい。前妻との子がいるので、跡取りを産む義務はないとのことでした。
『……年齢や見た目は問わないから、賢明で慎ましい女性が良いそうよ。家柄も問わないところが、商人らしいわね』
『貴女、計算も早いし、帝国語も分かるでしょう。子どもの扱いも慣れているし、ちょうど良いと思うのよ』
垂らした蝋の上に封蝋印を押しながら、彼女は言ったのです。
残酷な言葉でした。その一言は、私とっては耐え難い、侮辱であり、裏切りでした。
何を今更、と思ったわけではありません。
あのとき、彼女は辺境伯令嬢という権力を使い、私の婚約を破談させてまで、私を手放すまいとした。
嬉しかったのです。本当に、嬉しかった。誇らしかった。
なのに何故。思わずにはいられなかった。
私は彼女にとって、手放しがたい存在ではなかったのでしょうか。それらは全て私の思い上がりで、ただの思いつきで、私の結婚の邪魔をしたというのでしょうか。それとも、もう私は必要ないということでしょうか。
……誰に何を言われても、縁談を勧められようと、行き遅れと笑われようと、かまわない。
でも。
『結婚はしないの?』
彼女にだけは、言われたくなかった。
許せなかった。
彼女の言葉は、私にとっては、この世のなによりも許し難い、残酷な裏切りだった。
……きっと、彼女は気にしていたのでしょう。衝動のまま、私の婚約を破談させたことを。
そのような素振りはなかったけれど、内心、後悔をしていたのかもしれません。自身も結婚し、子どもを生むことで、何か思うことがあったのでしょうか。
嗚呼、そうなのでしょう。
あのとき婚約を破談させたのは、私を手放しがたかったわけではなくて、ただの気まぐれで、ただなんとなく気に食わなかっただけで、後になってから『なんで、あんなことをしたのかしら?』と首を傾げて、幼い頃の過ちだったと簡単に後悔して片付けてしまえるような、その程度のことだった。
彼女にとっては、さして重要でもなかったのだと。
全て、私の思い上がりだと。
私は、気づいてしまったのです。
私は、ずっとマリー様のおそばにいました。
ずっとずっとそばにいました。だから、私はなんでも知っています。
彼女が赤色が好きなことも。キノコ料理が好きなことも。カモミールティーが好きなことも。実は甘い物が苦手なことも。でも、果物は好きなことも。特に、桃には目がないことも。ダンスが苦手で、舞踏会の日は、いつも不機嫌なことも。大振りな宝石のついたネックレスより、小さなパールを連ねたものの方が好きなことも。背中の腰の辺りにホクロがふたつあることも。それを気にして、誰にも言っちゃダメよと私に告げた恥ずかしそうな顔も。ひとりが嫌いなことも。
なんでも知っています。
彼女を殺す方法も。
私だけが知っている、私だけの殺し方。
きっと彼女も死の瀬戸際で、気づいたでしょう。
だって、公爵家の中で、彼女の秘密を知っているのは、私だけなのだから。
気づいたはずです。私の裏切りに気づいていたはずなのです。
なのに。
死ぬ間際、彼女は私に手を伸ばした。
縋るように、助けを求めるように。
あの頃と同じ。シンプリーのお屋敷で倒れた、幼いあの頃と。
気づいていたはずなのに。分かっているはずなのに。
それでも、彼女は手を伸ばした。
手を、離したのは、彼女だった。はずなのに。
最期、彼女が呼んだのは。
レイリアスお嬢様は、私に後悔してほしいと仰った。
あぁ、おかしなこと。だって、後悔なら、ずっとしてるの。
ずっとずっとずっと。
後悔してる。
きっと、彼女を殺そうと、決めた日から。
マリーゴールド様は、気難しくて、繊細で、癇癪持ちで、努力家で、気高くて、寂しがり屋で、泣き虫で、強がりで、怖がりで、可哀想で、可愛い人。
私のただひとりの主様。
誰がなんと言おうとも
どれだけ悪女と呼ぼうとも
たとえ、私がこの手で殺したとしても
私にとっては、素晴らしい主だった。
この世のどこを探しても、従者に愛称を許すような主は、彼女だけだったでしょうね。
『ーーこれから、私のことはマリーと呼びなさい。私も、貴女をキャシーと呼ぶわ。可愛いでしょ』
『良いじゃない。貴女は、私の妹のようなものだもの。……あら、私が姉に決まってるじゃないの! なに言ってるの!』
『ねぇ、キャシー。貴女は、ずっと傍にいるのよ。約束ね』
はい、マリー様。
某日、トーズラント公爵夫人マリーゴールド·メル·トーズラントの殺害容疑にて、キャサリン·メリーの身柄を確保。同日、ユグルス王国王城地下牢にて、キャサリン·メリーの死亡が確認された。
死刑執行人による検死の結果、クレプスファルの花による毒死と判明。おそらく、身柄確保の直前に、クレプスファルの花を口にした模様。
これから予想される過酷な拷問を恐れたか、あるいは、最初から自死も含めた計画だったのか。
知る者はいない。
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