第50話善良なる狂人


「聞いているのかな?」


 イアの声が、王を正気に戻す。


 むっとしている勇者の顔は、実年齢よりも幼く見えた。果たして、彼こそが最強の勇者なのだろうか。今更になって、そんなことを王は思った。


「あのね、他人の人生を操ったら駄目って言っているの。それって、すごく無力感を感じるんだ。自分が今まで育ってきた環境も、出会った人々も、愛した人たちも……自分の全てが無意味に感じてしまう」 


 悲しいのだよ、とイアは言った。


「僕は、ある目的のためだけに産まれ落とされたと知ってしまった。それだけのためだけに、僕の人生はあった。なんて、馬鹿らしい……」


 イアの目には、恐怖で怯える王の姿など映っていない。王を通して手の届かない女を見て、自らの虚しさをぶつけようとしている。


 イアは、片手を高く上げた。


 その手は、拳を握っている。


 暴力の色濃い気配を感じて、王は悲鳴をあげた。ただの拳ではなくて、先祖返りの拳である。その威力は計り知れず、今のイアが手加減が出来るかどうかも分からない。


「誰か……。誰かいないのか!」


 王は叫んだが、返事はなかった。最初から分かってはいたことだ。王宮に入ってくるには、イアの格好は簡素すぎる。


 庶民の平服姿のイアは、王宮に入ろうとしたら間違いなく衛兵たちが止めるような姿である。王宮に客として訪れることが出来るのは貴族と出入りの商人ぐらいであり、彼らは豪勢な正装で身を包んでいた。使用人たちだって、それぞれの制服に身を包んでいる。


 イアが王宮に相応しくない格好であるのに王の目の前にいるということは、彼を止めようとした人々は死んでいるのかもしれない。


 王の表情から彼の考えを察したイアは、大いに慌てる。その表情は、見た目通りの年齢の未熟さが伺えた。


「言っておくけど、殺してなんてないよ!悪いことした人しか殺さないって、僕は誓ったんだよ。そうやって、勇者になったんだから」


 勇者としての訓練を受ける者は、イアの言うような宣誓をおこなう。私欲に走らないという誓いだが、全ての勇者は大小に関わらず宣誓を破っていることが多い。


「僕は、それだけは守りたいんだよ。それを失ったら、僕は本当に僕ではなくなる……。人でなしなるのは、まっぴらごめんだ。僕は、妹や甥の誇りになるような人間でいたいんだよ」


 しょげた犬のような表情を作る青年だったが、彼は自分を邪魔するものを全て無力化していた。


 王は、知らなかった。


 王宮のなかでは、数多くの人々が倒れていたのだ。兵士や役人、使用人たちに王に謁見するために偶然居合わせた貴族。そして、王の家族である王族。


 王宮に居合わせた全ての人々は、たった一人の人間に気絶させられていたのであった。


 それでも命を奪われた者はおらず、王宮を守ろうとして戦った兵士たちだけが外傷を負っている。だが、その怪我でさえ気遣われたものである。致命傷や兵士として再起不能になるような傷は一つもない。


 圧倒的な強者によって優しい蹂躙がおこなわれた光景は、倒れていた人の数に反して血は一滴も流れてはいない。まるで、毒物でもまかれたかの光景だった。


「あのね……えっと。そうだった。フレジエって言う子を解放して。あの子の自由な人生を認めて、身内を使って脅すような事をしないで。お願いします。ねぇ、お願い」


 イアは、微笑んでいた。


 けれど、その目には感情がない。フレジエを哀れんでいるのではなくて、自分の欲望のためにイアは善行を強制していた。


 ――善良なる狂人。


 そんな言葉が、王の脳裏に浮かんだ。


 今のイアには、弱い人々を助けるための善意はなかった。自分を救うための善意であり、その為には他者に暴力を振るうことも厭わなかった。彼は自分を見失っており、かつて行っていた善行にすがって暴走していたのだ。


「出来るよね。だって、王様だから。あの女の人みたい圧倒的な力を持っているならば……」


 イアは拳をそっと下げて、代わりに王の髪を優しくなでた。幼子にするような手つきは、ぞっとするほどに優しい。


 優しいままでいて欲しかったら、自分の欲望を叶えろとイアは無言の圧力をかけていた。


「解放してくれるよね……。解放して欲しい。僕みたいな人を作らないで。ねぇ……お願い。あの子を助けてあげて……」


 願うような口調であった。


 自分こそが助けて欲しいのに、それを誰にも言えないようだ。一言でいえば、孤独の人間による泣き言だった。



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