グラス越しの貴方

@wbqb_125

wine


「へえ、意外だな。ワイン飲むの初めてなんだね」



ぐ、と眉間が固くなった。

その言葉を紡いだ目の前の彼は、整った口元をゆるりと持ち上げると、左の指を引っ掛けていたワイングラスを口元に傾けた。


室内の柔らかい照明が、少し目障りだった。


「……初めてとは、言ってないでしょう」


「顔を見ていたら分かるよ、不味そうな顔してた」


彼は平然とした声音を乗せると、グラスの底を静かにテーブルに触れさせる。彼の全ての動作は、無意識に私の目を奪った。

ゆるやかに揺れる睫毛も、力を抜いた指先も、

左手の薬指で淡く光る指輪でさえ。


それが嫌で、しかたなかった。



私たちの関係を表すその言葉が、お世辞にも上品とは言えないものへと姿を変えてしまったのは、いつからだったか。


お互いに人間の温かさを欲しがった、そう言えば聞こえはいいけれど、実のところ自分の欲求を満たすのに、お互いが偶然にも丁度いいところに居ただけ。


それだけだった、はずなのに。



その日も、ひたすらに罪悪感と噎せ返るほど甘ったるい温度に溺れるのだろうと思っていた。


照明を落とした室内で、彼の左手が私の肌にそっと触れて。チョコレートのような甘い熱に浮かされていると、不意に冷たい金属が私を掠めた。


その温度は、私を容赦なく底冷えさせた。


左手の、薬指。それを見れば、事実は自明だった。分かっていたのに、耳鳴りがするほど回らない頭は、私の意思に反して勝手に言葉を投げさせた。




それ、なに



あぁ、これ? 結婚した




鼓膜にこびり付いたその言葉が、いつまでも私の脳内を焼いた。感情と現実の摩擦が痛くてたまらなかった。ひたすらに熱かった。


それなのに。

性質がまるで違うはずだった熱は、いつからか混ざって、境界が分からなくなった。



苦味とも酸味とも言えない、形容し難いものが口に残る。喉から食道へ焼けるような温度が通って、それは普段と何も変わりないはずなのに、まるで何かに嘲笑されているようだった。


ふと目線を上げると、頬杖を付いてこちらを見つめる彼と目が合った。この人、いつから私のこと見てたのかしら。



「これからは、ワインを飲むのが楽しみだね」


彼の瞳が、ひどく甘ったるい色を帯びた。

その眼は、私の意思を全く無視して心臓を締め付けてくる。だから、苦手だった。


「何が楽しみなのよ、不味いだけでしょう」


口から零れたのは、ただの子供の言い訳のような言葉だった。自分の発言に、嫌気が差す。この人の前では、私はどうしたって都合のいい相手でしかない。その存在にしかなり得ない。


この人の中に私を残すことは、一生叶わない。



ささくれた心臓を悟られないように、ワイングラスを下唇に携えた。何度も口に含んだのに、未だ慣れる気配もない。


どうにか嚥下をした後に彼をちらりと窺うと、何故か愉快そうに口元を歪めていた。ゆるりと余裕そうな笑みを浮かべて、私を見つめる。


射抜くような目が、柔らかく細められた。




「ワインを飲む度に、僕のことを思い出すだろう?」



その声音は、酩酊しそうなほど甘ったるい毒薬だった。


この世でいちばん、ひどい人間。


私がこの人を侵すことは、一生できないのに。許してはくれないくせに。

それなのに、私は一生この人の手のひらで転がされる。

このワインを、いつか趣味のひとつにさせる。


目の前の人間は白々しいほど綺麗な顔で、優しい笑みを携えた。

私は、この人の笑った顔しか知らないし、関係が穢れるより前に見せた顔は、もう今ではくすんでしまって思い出せない。もしかしたら、ただの嘘だったのかもしれないとさえ思わせる。

あのとき私が抱いていた感情は、みっともない自惚れだったのだろう。



彼は、ゆったりと睫毛を伏せて、手元のワイングラスに指を引っ掛けた。命令されたみたいに目線がそれに動かされて、離せない。

緩慢な動作でそれを持ち上げて、口元に傾ける。グラスの中のアルコールが揺れて、喉仏が上下に動いた。


彼はグラスの底に小指を挟んで、丁寧にテーブルに触れさせた。

睫毛はゆるやかに仰向いて、声すら出せないように私を射抜く。



「やっぱり、いつ飲んでも美味しいね」



「…………あぁ、そう」



口に残るのは、未練か。


どうか、来世では幸せにならないでほしい。

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