プロローグ+1章「それは、まるで魔法みたいな」

プロローグ


 怖いよ、と泣いていた子どもの声がずっと記憶に残っている。

昔、父が働く「恋蛍楽器修理工房」で見た光景だ。後から聞いた話だが、その子どもは壊れた楽器を直すことが怖かったようだ。


——恋蛍楽器修理工房、そこは金管楽器を専門とした楽器の修理修復を行う工房で、父はリペアマンという職人だった。とても優れた職人だったから、父の手にかかるとその楽器は、元よりも良すぎる音に変わってしまうのだと噂されていた。それが、楽器を心底愛しているものにとっては、とても恐ろしい行為だったのだろう。だけど、同時にそんな父を崇めるかのように尊敬する人もいた。

俺には、父の何がそんなにすごいのか理解できずにいた。……正確には、理解したくなかったのだけど。楽器のことばかりを考えていて、常に工房に籠っていた。家族団欒、そんな言葉は楠家にはなかった。寂しい家だった。

 幼き時は、構ってくれない父の気を無理やり引かせようとして、満点のテスト用紙を見せに行ったりしたっけ。効果はなかったけど。中学生の頃は、幼馴染の碧が工房でアルバイトをするようになったから、それを見ているフリをして父の背中を見ていたこともあった。俺は、父に興味を示そうとしていた。だけど、たまに会話をしたと思ったらリペアマンにならないか、もしくは楽器をやらないか、と誘われる始末で……。

父は、リペアマンであると同時に「トランペット」吹きでもあった。俺が物心ついた時には既に吹いていた。トランペットをとても愛していて、リペアの専門もトランペットだった。息子である俺よりもずっと、その楽器を愛しているのだろう。それが、とても寂しくて、嫌で、絶対に楽器なんてやらない! ここでも働かないから! と叫んで工房を出たのが、たぶん父とまともに会話をした最後だ。

それから、父は仕事のしすぎで身体を壊して、入退院を繰り返した。母はそんな父につき切りだった。真日那もお見舞いに来なさい、と言われたけれど絶対に行かなかった。幼馴染の碧や父に自身の楽器を直してもらったことがきっかけで、心酔していた同じ歳の博くんの方が行っていたな……。

 俺は、淡々と大学生活を過ごした。友達も恋人もいなかったけれど、勉強だけは出来たから、教員からの評判は良かった。それなりに充実した日々を送っていた。新しい変化などいらない。このまま何となく時が経って、就活して卒業して、給料と待遇の良い会社に就職出来れば、それで良いと思っていた。


 なのに、大学四年の茹だるように暑い夏の日に父が死んだ————


1章「それは、まるで魔法みたいな」


 はぁ、と深くため息をついた。ようやく就活の終わりが見えてきて、スーツを着る回数も減って、気が楽になっていたというのに葬式の為にスーツを着なくてはいけなくなってしまった。父の葬儀は家族と親戚、それから最後まで父と一緒に働いていた工房のスタッフたち合わせて二十人にも満たない小規模で行われた。母は、かわいそうなくらい泣いていたし、幼馴染の碧も泣いていた。父を尊敬していた博くんも、泣きそうな表情をしていた。きっとここにいる人たちは皆、悲しんでいる。だけど、俺だけは父に対して悲しい、という感情を持ち合わせていなかった。ただただ面倒で仕方なかった。長男ということもあって、挨拶周りなるものもしなくてはいけないし。今は、無心でやり遂げるしかない。面倒だという感情も捨てて、ひたすらやるべきことをこなした。

そうして、一通り終わって食事の時間になった。碧は俺の隣に座ったけれど、博くんは俺たちから一番離れた所に座っていた。俺たちは唯一の若者同士なのだから、こっちに来れば良いのに……と思うけど、まあどうでも良いかと最後のおかずを食べ終えてお茶を飲んだ。

「真日那くん」

 一息ついた頃、父の右腕のような存在で小さい頃は、よく俺とも遊んでくれた新庄さんが声をかけてきた。

「惜しい人をなくしてしまったね……」

「仕事の過労で死ねたなら本望なんじゃないですかね」

 そう発した言葉は、自分でも驚くほど皮肉めいていた。

「そう、かもしれないね。彼は、本当にこの仕事が好きだったから」

 もっと色んな楽器に触れて、この世界の壊れた楽器の全てを直したかっただろうな……と新庄さんは言った。父は、最期まで呆れるくらい仕事人間だった。俺は見舞いに行っていないから直接は聞いていないけど、どうやら碧が見舞いに行くといつも「今日の工房はどうだった?」と聞かれて事細かに近況を伝えていたらしい。俺や、母さんがどうしているかとは聞いてきたことはなかった、と。

「それで、工房はどうするんだい?」

 新庄さんが、そう静かに問いかけた。その言葉に、各々好きなことをしていたのに一気に視線が俺たちに集まった。

「畳むしかないのでは、と思っています」

 父がいたから成り立っていたような工房だ。もう残っているスタッフだって少ないし、工房を訪れる客も減ってきていると聞いていた。スタッフの中には、本当は別の大きな楽器店のリペアマンとして働きたいと思っている人もいるのではないだろうか。だけど、父への恩があって今まで抜け出せなかった。そんな人がいるはずだ。皆、優しいから口に出さないだけで。だから、いい機会なのではないか、と思った。こんな小さないつ壊れてもおかしくないような工房にいないで、それぞれの才能をもっと良い場所で発揮して欲しい。

「……その話、なんだけどね」

 今まで黙っていた母さんが、静かに口を開いた。

「真日那に継いで欲しいって遺言書に書いてあったの……」

 どくん、と心臓が変に高鳴った。

「……そんなの、知らない」

「私も、今朝遺言書を見つけたのよ。後でちゃんと見せるつもりだったの」

 別に、遺言書の存在を教えてくれなかったことに対して不満があるわけではなかった。何故、自分が継がないといけないのか。そんな風に考えていたなら、もっと事前に話して欲しかった。そんな時間はなかったのだろう。互いに歩み寄るのを拒んでいたのだから、知らなくて当然だ。

「ありえない……っ」

 そう最初に声をあげたのは、博くんだった。

「ただ、息子ってだけで何の知識もなく、工房に思い入れのない奴に継がせるんですか?」

 博くんの言う通りだ。俺は、工房に何の思い入れもない。父の仕事は少しだけ見たことがあるけれど、それだけで後は何の知識もなければ音楽や楽器が好きなわけでもなかった。

「俺は、継がないよ」

「真日那……っ!」

「継ぐ理由がないから。だから、博くんも安心していいよ」

 そう言って、博くんの方を見れば不機嫌そうな表情をしていた。


 その後、会話は無理やり閉じさせて葬儀は終了した。帰りは、新庄さんの車に乗せてもらった。しばらく無言が続いていたけれど、空気に耐え切れなくなった母さんがさっきの続きを話し始めた。

「継がない、なんてダメよ」

「ダメって言われても無理だから。博くんも言ってたでしょ? 知識も何もない奴が継ぐなんてありえないって。若い奴が良いならそれこそ博くんとか、碧に継いでもらえばいいんじゃないかな」

 俺なんかが継ぐよりも、ずっとその方が良い。二人は、工房を愛しているし、知識も豊富だ。博くんも碧もリペアマンになる為の学校を出ていて、二人とも立派なリペアマンなのだろう。文句無しだと思う。さっきは、博くんだけが反対意見を述べてきたけれど、きっと他にも俺が継ぐなんて……と思っている人はいるはずだ。

「こういうのは、知識や経験よりも血の繋がりが大事なのよ。お父さんの最期の願いを聞いてあげることも出来ないの?」

「父さんは、俺の願いなんて結局一度も叶えてくれなかったんだから、俺だけが叶えるのは不公平でしょ」

「息子なのだから、当然でしょう……!」

 母さんは、声を荒げてそう言った。あぁ、面倒だ。母さんとも最近は、まともに話せていなくて話したとしても今みたいに口論になってしまう。父さんが第一、という考えの人で、それは夫婦としての愛というよりも崇拝にも似ているように感じている。それが、俺にとっては恐ろしく思った。こうなってしまった母さんには、何を言っても無駄だから、俺は黙った。

「……真日那くんに継いで欲しいという気持ちは、彼の本心だと思う。だから、そんな頑なに嫌だと言わずに、遺言書を読むくらいはしてあげても良いのではないかな」

 新庄さんは、優しい声色でそう言った。そんな風に言われてしまっては、強く出られない。俺は、新庄さんに弱いのだ。それをきっと本人も分かっていて、俺と母さんが険悪ムードになると、よくこうして間を取り持ってくれる。

「まぁ、読むくらいなら良いですけど……」

「ありがとう」

「新庄さん、すみません」

「気にしないでください。僕も、彼……匠さんを尊敬しているうちの一人です。匠さんの願いは叶えてあげたい、と思います。だけどね、夏子さん。押し付けるのは良くないですよ」

 母さんは、新庄さんに優しく諭されて小さく頷いた。新庄さんの車から降りて、家に戻り、遺言書を渡されるまでずっと母さんは黙ったままだった。

「これが、遺言書よ。真日那個人宛のもあるのよ。それは、私は読んでいない。読んだ後、それからどうするかは任せます」

 部屋に戻るわね、と言って母さんは去っていった。俺も自室に戻り、ひとまず楽な格好に着替えて、ベッドに横になった。早くこの一日を終わらせたくて、すぐに俺は遺言書の封を開けた。まずは、俺と母さん宛のものを。



夏子と真日那へ


これを読んでいると言うことは私は、死んでしまったんだね。私は、リペアマンという仕事と楽器と音楽以外については、とても考えるのが苦手だ。だから、遺言書と言うものを書くのも最初は悩んだんだ。だけど、どうしても伝えたいことがあった。本当は直接伝えられる機会があったら良かったけど、その機会は訪れそうにない。だから、ここに書くのを許してくれ。

君たちも知っての通り、工房は衰退していっている。工房自体も古くなっているのは、認める。だけど、どうか畳まないで欲しい。こんな時代でも、工房に来てくれる人はいる。ここでしか安心を得られない人もいる。二人にとっては、さほど思い入れもない所かもしれない。それでも、どうかお願いだ。私が死んでも、恋蛍楽器修理工房を守って欲しい。そして、真日那に後継者になって欲しい。最期まで父親らしいことを何一つしてこなかったのに、勝手だとは分かってはいる。それでも、真日那に継いで欲しいんだ。きっと、ここは、真日那にとって良い場所になると思っている。どうか、お願いだ。そして、夏子には、私の部屋にある全ての物を好きに扱って良い権利を与える。きっとこの先色んな場面で役立つと思う。私が愛した工房を、愛する夏子と真日那にも好きになってもらいたい。

                                   楠匠


 遺言書を読み終わっても、さほど感情は変わらなかった。それどころか、怒りは増すばかり。あまりに勝手すぎる。思い入れのない場所を、どうして守ろうと思えるのだろうか。死んでから愛していると言われても、嬉しいなんて思えない。生きている時に言って欲しかった。

「はぁ……」

 深くため息をつきながら、もう一枚の封筒を見つめた。遺言書と言うのは、開けなかったらどうなるのだろうか。何か良くないことでも起きるのだろうか。そんな風に考えたら少し怖くなった。罰が当たっても、呪われても困るから見るだけ見てあげよう。


真日那へ


どうしようもない仕事人間だった父さんの遺言書を読んでくれてありがとう。ここに書かれている内容は、母さんには内緒でお願いします。工房の倉庫の一番奥に、トランペットがしまってあります。父さんが死んだ日の夜に、そのトランペットに触れてみて欲しい。ドキドキする出来事が真日那を待っています。その後、どうするかは真日那に任せます。死んだ日の夜、日付が変わるまでにどうか工房へ行ってください。もちろん、一人でね。

                                   楠匠


 俺の心臓は、どくんと高鳴った。変に弾んでいる。今日一日何にも心が動かなかったのに、今初めて気持ちが変わった。スマホを開けば、時間はまだ二十時半。工房は家から十五分ほどで着く。時間はまだ余裕だった。俺は、部屋着のままで部屋を出て、玄関へ向かった。

「こんな時間にどこへ行くの……?」

 物音に気付いた母さんがリビングから出て来た。

「ちょっと、散歩。すぐ戻るから」

 靴を履きながらそう言って、その後の母さんの言葉は聞かずに外へ出た。


 夜の外は、だいぶ暑さはマシだけれど十分暑くて少し歩いただけで汗が出てきた。

工房へ行くのも久しぶりだ。全く用はないというのに、何故か鍵だけは家の鍵と一緒に常に持ち歩いているから今も手元にあるのだ。単に、キーホルダーから外すのが面倒だっただけで、特に意味はない。

俺が住んでいるマンションは、高台にあって工房は長い階段を降りて、狭い小さな川沿いの道を少し歩いた所にある。立派な家が立ち並ぶ通りを少し外れた坂道を登ったその奥に、ぽつんと小さな工房が立っている。まるで、そこだけ人が住まう場所から切り離されたかのような別空間になっていて、不思議な場所だ。当然明かりはついていなくて、少し不気味だった。

「手紙にあった倉庫はこっちかな……」

 メインの入り口から外れた場所に、小さな倉庫がある。そこは、父だけが入ることを許されていた場所で、俺も今日初めて中に入る。父以外の人はメインの建物内で作業をしていたけれど、父だけはここで一人、集中して仕事をしていたものだから『魔法の部屋』なんて言われていたような気がする。どくん、と高鳴る心臓に気づかないフリをしながら、そっと鍵を差し込んだ。ガラガラ、とドアを開け電気をつけた。もわっとした空気と工房の独特な匂いが襲ってきた。

「あっつー」

 この先へ進むのが嫌になったが、トランペットはこの倉庫の奥にあると書いてあった。

「あ……」

 一番奥の部屋のテーブルの上にトランペットのケースが置いてあった。俺は、埃の被ったケースをゆっくりと開けた。数十年ぶりに見た父のトランペット。それは、俺が子どもの頃に見た時よりも少し汚れてしまっていた。だけど、その汚れは時が経つと共についた自然のものであって傷などは一切なさそうだった。最後まで大事に吹いていたのだろう。一体このトランペットに触れたら、何が起きるというのか————

俺は、そっとトランペットに手を触れた。その瞬間、目の前に不思議な光景が見えた。キラキラと煌めく色とりどりの光、その空間には俺とトランペットだけがある。

『来てくれてありがとう、真日那』

 ふとそんな声が聞こえていた。

「えっ⁉」

 この部屋には俺しかいなかったはずだ。この声は、一体どこから……。

『こっちだよ。これは、ボクの声だよ』

 そう言葉を発していたのは、父のトランペットだった。ボクの声だよ、なんて言われてそうですか、とすぐに認められるはずもなくしばらく茫然としてしまった。

『真日那……信じられないかもしれないけど聞いて欲しい。これは、真日那にだけ与えられた特別なモノ、なんだよ』

 信じられないけれど、目の前にある光景を信じるしかなさそうで俺は、ひとまずトランペットの言葉に耳を傾けた。


トランペットが言うには、俺には【楽器に触れるとその楽器の声が聞こえる】力が宿ったらしい。全く持って意味が分からないが、現に今トランペットと会話をしてしまっている。この現象が全てを表していた。そして、この力は楠家に代々伝わるものらしかった。だけど、父にだけこの力は現れなかったそうだ。

『だからね、ボクは匠と言葉を交わしたことはないんだ。だけど、匠はこの力を知っていたからボクに真日那への伝言を頼んだんだよ』

 父にはなくて、俺だけにある力。それは何だかとても誇らしい気持ちになった。

『匠は、真日那にこの力をどうか有効的に使って欲しい、と望んでいるよ。後、この力はね一つの楽器に対して一度きりしか使えないんだ』

「じゃあ、君と会話が出来るのはこれきり?」

『そうだよ。だから、何か聞きたいことがあれば今の内に聞いてね』

「君は、父さんのトランペットとして過ごしてきて幸せだった……?」

自然と口からそんな言葉が出ていた。俺が物心ついた頃から、父さんの傍にあったトランペット。父さんがずっと、大事にしてきた物。

『幸せだったよ。もっと匠に吹いてもらいたかった。だけど、それはもう叶わない』

 トランペットの声は、寂しそうだった。楽器が言葉を発すること自体おかしいのに、どうやら感情まであるらしい。

『真日那は、匠が仕事ばかりでボクやこの工房に嫉妬していたかもしれないけど、匠はちゃんと真日那と夏子のことも想っていたよ』

 トランペットがそう言うと、目の前にモノクロ映画のようなモノが流れ、今は亡き仕事中の父が映し出された。

『はぁーいい加減、家族孝行しないといよいよ夏子にまで見放されてしまうかもしれねぇなぁ。真日那は、大学上手くやれてるのだろうか……あいつ、無愛想だから心配だなぁ。ちゃんと時間作って話し聞いてやんないとなぁー』

 もう随分と聞いていない父の声を、とても懐かしいと感じた。父は、こんなこと考えずに毎日、毎日、仕事に没頭してたまに仕事がないと思えばトランペットを吹きに行っていて、俺たち家族の存在なんて頭にちらつきもしなかったのではないか、と思っていた。だけど、違っていたのか。父は、俺たちのことも想ってくれていた。それを少しだけでも、知られたのは嬉しいと思う反面、複雑だった。

「生きている間に知りたかったな……」

 そう思ったって、どうしようもないけれど……。

『ねぇ、真日那。ここまで知ったらさすがに、工房継いでくれるよね?』

 少しだけ、しんみりした気持ちになったけど、やはり腹が立つ。俺は、まんまと父さんにはめられてしまったのだ。俺が、なんだかんだ無視できない性格であること、こういった不思議な現象に興味を持ってしまうこと……それらを見込んで俺宛の手紙にだけ、この力のことを書いたのだろう。

「意地汚いな。けど……」

 少し、ほんの少しだけ嬉しかったのだ。最初に母さんから聞いた時から、感じてはいた。でも、こんな気持ちを認めたくなくて……。気づかないフリをしていたけれど、もう無理そうだった。父さんが、俺に工房を継いで欲しいと遺言書に書いてくれたのが嬉しかった。父さんが大事にしていたものを、譲ってくれるというのは、俺を大事に想ってくれていた証だから。

「明日、母さんや碧に伝えるよ。俺が、工房を継ぐって」

『ありがとう、真日那。ボクとはもう話せなくなるけど、ボクのことは好きにして良いからね。……真日那が大事にしてくれたら嬉しいけど』

「……俺が大事に出来るかは分からないけど、どうするかが決まるまでは、ここに大事にしまっておくよ」

 きっと、素直な良い人間ならばここで俺が大事にするよ、とはっきりと伝えるのだろう。だけど、俺にはそれが出来ない。それに、もっとこのトランペットを手にするにふさわしい人が現れるかもしれない。俺は、今更楽器を始める気にはなれないから、ちゃんとトランペットを吹くのが好きな人に渡って欲しいと思う。ずっと、吹かれずに仕舞われたままは寂しいだろうから。

 

 それからはもう、トランペットの声は聞こえてこなかった。触れてみても何も感じない。本当に一度きりなのか……。便利なようでいて、便利ではない力。だけど、この力を使えば、父さんよりもすごい仕事が出来るかもしれないと思った。そう思ったら少しだけ、これからにワクワクした。はじめは、とんでもないことを押し付けてきて……と思ったけれど。だけどまあ、別にやりたいこともないし。何にも知らない環境へ就職するよりかは、断然良いかもしれない、なんてこの時は楽観視していた————


次の日、朝食を食べながら工房を継ぐよ、と告げた。

「え……⁉ 昨日はあんなに嫌がっていたのに、いったい何があったの……?」

「別に。あんな遺言書読んだらさすがに、放っておくなんて出来ないでしょ」

 半分本当で、半分は嘘だ。だけど、もう半分の本当のことは伝えられない。

「良かった。きっと、父さんも大喜びよ」

 心底ほっとしたような顔で、母さんはそう言った。その後は、無言のままご飯を食べ終えてから、すぐに碧に連絡をした。碧にも伝えておかないといけない。碧は、俺の幼馴染であり親友だから。

 近くにあるあまり人が来ない公園で待ち合わせをした。俺も碧も今日は休みだった。恋蛍楽器修理工房は、後三日は閉めておくみたいでそこで働く碧は、必然的に休みとなっていた。世間体的に、社長が死んでしまったのに次の日からもう通常通り動いているのは良くないだろう、という理由かららしい。こんな辺鄙な地の寂れた工房が、どんな行動をしていようが誰も感心はないだろうに。そんなことを思いながらベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていた。

「真日那、お待たせ~!」

 明るい碧の声が公園に響いた。

「おはよ。急に呼びだして、ごめん」

「別に~何となく察しはついてるしー?」

「そっか。なら、話しが早いや」

 でも、きっとさすがの碧もこれから俺が本当に話したい内容には、びっくりして腰を抜かしてしまうかもしれない。

「俺、工房を継ぐことにしたよ」

「昨日の今日でめっちゃ心境変わるじゃん?」

 碧は驚いた顔をしていたけれど、すぐにまぁこうなるかもなとは思っていたけど、と言った。

「でも、昨日はほんとに継ぐ気なかったよ?」

「そうだろうけどさー真日那って、何だかんだ困っている人を放っておけないだろ?」

「まぁ。でも、父さん死んでるし今回のは、それに当てはまらないでしょ」

 困っている人を放っておけない性格なのは、自覚している。何故だか俺は、頻繁にそういう人に出くわすのだ。登校中、何度危なっかしいお年寄りを助けたことか……。

「そうかな~まあ、何でも良いけど。話したかったのそれだけ?」

「いや、もう一個ある」

「だよな~これだけならどこでも良いもんな」

「うん」

 工房を継ぐことだけなら、別にメッセージだけでも良かった。だけど、そうしなかったのは、この力については直接話したかったから……。碧は、どんな顔をするだろうか。気持ち悪いと思うだろうか。そもそも、話してしまって良いのだろうか。直前になって急に、不安が込み上げてきた。

「真日那?」

「ご、ごめん。ちょっと、待って」

「ゆっくりでいいぞ~」

 碧のその言葉に甘えて、少し深呼吸をした。俺が、これから取ろうとしている行動は正しいのか、正しくないのかはわからない。分かる術はない。それなら、自分の想いに正直になってしまおう。友人というものがいない俺にとって、碧は特別な存在。特別な人には、秘密を教えたって良いだろう。そう結論づけて、じっと碧を見つめた。

「今から話すこと、本当で……冗談とかじゃないから真面目に聞いて欲しい」

「もちろん、真面目に聞くよ」

「ありがとう。えっと、昨日母さんが遺言書の話しをしていたでしょ……」

 ぽつ、ぽつ、と昨日の出来事を事細かく伝えていった。自分で話していても信じられない内容だ。あまりにも濃すぎる。これが、たった半日の間に起きたことなのだから驚きだ。当の本人でもそう思うのに、他人が信じてくれるのだろうか。

「……これが、全部」

 碧の反応を見るのが怖かった。拒絶されたらどうしよう。たぶん、耐え切れない。どくん、どくん、と心臓が煩く鳴り響いている。

「真日那、すごいな……っ!」

「えっ……」

「そんな力あったら、不安な想いをしている人を安心させられるかもしれないじゃん!」

「気持ち悪いって思わないの?」

「思わないね! あーでも、オレは純粋にすごいなって思えたけど、あんまり表には出さない方が良いかもしれないよなぁー」

「やっぱそうだよね……」

 この力を使えば父さんよりもすごいことが出来るかもしれない、なんて淡い期待を抱いたけれど……。それはやはりいけないだろうか。

「でも、まあ力のことは秘密にすれば後は何とでもなるんじゃないかなっ! 困った時はオレも協力するしさ!」

「碧が俺のアシストになってくれるの?」

「当たりまえだろ! すごい力があるっていっても真日那は真日那だからな~」

 そう言って、碧は笑った。碧は、大学を卒業してから工房の職人として働いている。仕事ぶりを見たことはないけれど、新庄さんは若いけどこれからが楽しみな職人だ、と言っていた。そんな碧が傍についてくれるのは、とても安心だ。

「真日那と働くの、めっちゃ楽しみっ!」

「人に教えるのって面倒じゃない?」

「全然っ! 真日那は物覚え良いしさ~あっという間に抜かされちゃうかも」

 俺が、碧の立場だったら絶対に嫌だけど碧は、まるで遠足前の子どもみたいにワクワクしている。だけど、碧のその大らかさに救われてきた。父さんが死んだ時、俺の変わらない平凡な日常を壊されたことにイラついた。だけど、今は少しだけ変わる未来にドキドキしている自分がいる。

「俺の話し、真剣に聞いてくれてありがと」

「どういたしまして! んじゃあ、早速今日からバイトしに来る⁉」

「いや、そもそも工房しばらく休みでしょ……」

「あ~そうだった。匠さんにしてみれば、俺が死んだからって休むなよって思いそうだけどな~」

 そう言って、碧は笑った。

「週明け、ひとまず工房に顔出してみる。新庄さんには早めに言っときたいし」

「月曜日は、オレ休みなんだよなぁ。大丈夫か?」

「大丈夫だよ。話しに行くだけだし、初めて行く所でもないし」

「あ~~心配だから臨時でシフト入りてぇーー」

「ダメなんでしょ? 週一日は絶対に工房に来ない日を作れるように、シフトを組んでるって聞いた」

「そーなんだよなー」

 父さんが仕事のし過ぎで倒れてから工房は、労働環境を見直したらしい。

職人というのは、誰かが休めと言わないとなかなか休まないそうだ。工房が好き、楽器をいじっているのが好き、それがもう生活の一部になってしまっていて休むという概念がない、みたいな話しを聞いた。だけど、それではいけないと新庄さんが思い直しシフト制にして休みの日は、絶対に工房に来ないようにと数少ない職人たちに約束をさせたそうだ。

「真日那、火曜日にしとかねー?」

「火曜は授業あるから無理かな」

「えぇ~~もう単位も余裕なんだろ? 就職先も決まったんだし、大学なんて休んじゃえって~」

「割と大学楽しいから最後までちゃんと行くよ」

 趣味らしい趣味というものが俺にはないのだけど、大学の授業は楽しいと感じるのだ。わざわざ地元から少し離れた大学へ行っているのだから、サボる訳にもいかない。碧はまだ不満そうにしている。

「あいつには気をつけろよ?」

「博くんでしょ? そんな危険物みたいに言わなくても……」

「危険物だろ~葬式の日の突っかかりを忘れたのか?」

「忘れてないし、あれは事実を言われただけだし」

 むしろあの時は、俺も継ぐつもりがなかったから、もっと言ってくれとまで思った。母さんと博くんは、全く反対の考えを持っているから。

「適当にやり過ごすから大丈夫だよ」

「まあ、何か嫌味言われたら言えよ?」

「うん」

 そう返事をして、その日は解散した。

家までの道中、碧は本当に優しいなと噛み締めていた。俺が四歳で、碧が六歳の頃初めて出会って、そこからずっと本当の兄のように俺と遊んでくれていた。俺は昔から、つまらない子どもだったから、よくからかわれたりもしたのだけど、その度に碧が助けてくれていた。だけど、俺ももう子どもではないから、そんなに心配しなくても良いのにな……と思う。きっと、碧にとったら俺はまだまだ子どもなのだろう。


「ただいま」

 家に戻ると、ちょうど母さんがたくさんの本を抱えて父さんの書斎から出て来た。

「おかえり。ちょうど良いところに戻ってきてくれたわねぇー父さんの部屋の掃除をしているのだけど、これらの本これから役に立つと思うから真日那にあげる」

 はい、と数冊の本を手渡された。それらは、ずしりと重く埃ぽい。

「こんなにいらないよ」

「良いから一通り見てみなさい。いらなかったら自分で捨ててね」

 仕方ないなぁ、と思いながら自室に入り机の上に置いた。主にハードカバーの本が多かったけれど、一つだけ本ではなくノートが挟まっていた。表側には、何も書かれていなくて中を開いてみた。

「これって……」

 ペラペラと捲っていくと、そのノートは、工房に訪れた人たちとその楽器との思い出を綴ったものみたいだ。すごい人だ、と言われていた父さんだけどこんな地道なこともしていたのか、と驚いた。壊れた楽器を修理して、直ればそれで満足なのだと思っていた。その楽器と持ち主との思い出なんてものには興味がない、と。

「こんなに来てたんだ……」

 今では、全くお客さんが来ない日もあるって言っていた。こうやって、昔の記録を見てしまうとより一層衰退しているのだなぁ、というのを実感する。パタン、とノートを閉じて他の本もみて見た。本の内容は、どれも音楽に関するものだった。楽器の仕組みについての基礎的なもの、楽器の歴史の本、演奏方法の本など似たようなタイトルが数種類あった。基礎的な本に関しては、もしかしたら俺の為に購入していたものなのかもしれない。いつか、興味を持った時の為にと用意していたのだろう。

「生きている時に、興味持てなくてごめん」

 だけど、これから少しずつ興味を持っていけるように頑張ってみようと思う。まあ、工房の皆が認めてくれたら、の話しになるかもしれないけれど……。



 忌引きが明けて、工房の活動が再開した。あらかじめ新庄さんには連絡を入れておいた。

「こんにちは、真日那くん。待っていたよ」

「こんにちは……」

 この前、工房を訪れた時は誰もいない時だったし、メインの方には入らなかったから、妙に緊張してしまう。

「じゃあ、まずは話しを聞くところから、かな。皆にも聞いてもらう感じで良いんだよね? 今日、碧くんは休みだけど」

「はい。碧には、先週直接話したので大丈夫です」

「そっか。それじゃあ、皆~こっち注目!」

 新庄さんが声をかけると、一人二人とほぼ全員が俺と新庄さんがいる方へ視線を移してくれた。唯一、こちら側に視線を移してくれないのは、博くんだ。

「博くん~とりあえず話しを聞いてあげようか」

「時間の無駄」

「そんなこと言わずにね。まあ、いいや。耳だけでもこっち向けといてね」

 新庄さんは、ごめんねと苦笑した。

「いえ、分かっていたことなので」

工房に入った時から、鋭い視線を背に感じていた。博くんだって、すぐに分かった。だけど、ここで怯むわけにはいかない。幸いにも、博くん以外の工房の人たちは話しを聞いてくれそうな雰囲気がある。

「じゃあ、お願いね」

「はい。えっと、こんにちは。先日は、父の葬儀に出席してくださりありがとうございました」

 ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡いでいった。

「母が言っていた通り、遺言書には僕に継いで欲しいと書かれていました。それでも、始めはそんな勝手なことを言われても困ると思いました。ですが、父の遺品を見ていたりしていたら、少し気持ちが変わってきまして……。生前は、父の願いを叶えられなかったので、少しでも親孝行出来たらと思ったんです」

 さすがに、力については言えないのでそこは秘密にしておきながらも、今の心境をしっかりと伝えた。

「小さかった、真日那くんが立派に育ったわねぇ……。私は、大賛成よ」

 そう優しく微笑んで言ってくれたのは、経理も兼任している五十嵐さん。五十嵐さんのことは、何となく覚えている。よく母に怒られていた俺を慰めてくれた人だ。

「良いと思うっ! 私は、羽月千夏よ。よろしくね!」

 そう元気にあいさつをしてくれたのは、知らない人だった。たぶん、俺が来なくなってから入ってきた人だろう。明るくて、とても良い人そうだ。

「ついに、僕にも後輩が出来るんですね。とても、ワクワクします。僕は、椿です。どうぞよろしく」

 真面目そうな青年は、そう言って握手を求めてきた。あまりこういうのに慣れていない俺は、あたふたしながらその手を握った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「後は、博くんだけだな。碧くんはもう認めているんだもんね?」

「はい」

「博くん、無視は良くないよ」

「……勝手にすれば良い。だけど、認めた訳ではない」

「全く……。すまないね、真日那くん」

「いえ、追い出されないだけ良かったです」

 博くんはもちろん、他の人たちにも拒絶される覚悟は出来ていたから。ここにいる人たちは皆、楽器が好きで、音楽が好きで、この仕事に誇りを持っている人たちなのだから……知識も経験もなく血筋だけで、皆の大切な工房を継ぐというのは反感を買うのも無理はないと思っていた。

「今、働いているのはこれで全員だよ。だから、真日那くんは晴れて春からこの工房に努めてもらう事になる。それまでは、バイトをしながら慣れていって欲しいな」

「はい。皆さん今後ともよろしくお願いします」

 深々と頭を下げてお礼を言った。


その後は新庄さんについて、工房の中を案内してもらった。工房の中を歩きながら、新庄さんはリペアマンという仕事や、この工房について教えてくれた。

「僕たちリペアマンの仕事はね、簡単に言ってしまえば調子の悪い楽器を、元に戻してあげる仕事なんだ。楽器というのはとても脆くてね、ちょっと置き方の向きを間違えてしまっただけで、大切な部分がずれてしまって、専門の人に直してもらわないといけなくなっちゃうんだ」

 楽器はとても繊細なんだぞ、と工房にまだ通っていた幼き頃父さんが良く言っていた気がする。子どもというのは、珍しい物を見るとすぐに触りたくなってしまう生き物で、俺は何度も触ろうとして怒られていた。

「楽器が脆いのと同じで、人の心もまた弱い……。真日那くんは、この工房の名前の由来を知っているかな?」

「いえ……、不思議な名前だなとは思っていましたが聞いたことなかったです」

「恋蛍、というのはね蛍の光を恋焦がれる思いにたとえた言葉なんだ。昔から蛍の放つ光の様子が、胸の中で燃える想いを連想させて、恋愛と重ねて使われていた言葉だっていうのは知っている?」

 その問いにはい、と頷いた。大学の日本文学の授業で習った記憶があったのだ。

「この工房においての恋は、楽器に恋をしているという意味なんだよ」

「楽器に恋、ですか?」

 こっちについては、理解があまり出来ない。それは、俺が楽器を好きではないからだろう。

「そう。匠さんもトランペットをすごく愛していた。この工房には、匠さんみたいな人がたくさん訪れていたんだよ。皆楽器を恋人のように、家族のように、友人のように想っていたし、僕たちもそう想っている」

「父さんみたいな人がたくさん……」

 中にはきっと俺みたいに、寂しい想いをしていた人たちもいるのだろう。

「そんな由来から、工房の名前は恋蛍になったんだ。真日那くんの、おじいさんがつけたそうだよ」

「そう、なんですね」

 あのトランペットが言うには、祖父は俺と同じ力が使えていたそうだ。だから勝手に、親近感が湧いていた。祖父は、俺が小さい頃に亡くなってしまったようだから全く覚えていないのだけれど。たぶん、父さんよりかは話しが通じる人だったのだろうな、と思っている。

「今日は、このくらいにしとこうか? 次は、碧くんもシフト入っている時にきて実際に碧くんのお仕事を傍で見させてもらおう」

「はい、今日はありがとうございました」

「こちらこそ。これから、よろしくね」

「よろしくお願いします」

 頭を下げて、皆にも挨拶をして工房を出た。

 博くんの傍も途中通ったのだけど、全く目を合わせてくれなかったな。同い歳だし、俺としては仲良くできたら……なんて少しだけ思ってはいたけど。

「無理かもな」

 そうぼそっと呟いた時、おい! と鋭い声に呼び止められた。

「な、何でしょう⁉」

 振り返るとそこには、怖い顔をした博くんが立っていた。

「念の為もう一度言っておく。俺はお前のことを認めていない。皆がいる手前ああ言うしかなかったけど……。ここで働くのは勝手にしたら良い。だけど、必要以上に俺の視界に入るな。最低限の言葉しか交わさない。何か困ったことがあれば、葛城か他の皆に聞け。他の人たちはお前が可愛いらしいからな」

 それだけ伝えたかった、と一息に言い放って工房の中に戻っていった。

「びっくりした。あんなにしゃべる人だったんだな……」

 俺は、博くんの言葉の内容よりも、寡黙な人だと思っていた博くんがあそこまで、しゃべってくれたのに驚いて、しばらく茫然としていた。


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