導火線を断ち切って

月花

導火線を断ち切って


 ひとけのない廊下を走っていると髪の先がなびいて、甘ったるい制汗剤のかおりがただよった。今年買ったばかりの石鹸のかおり。


 部活終わりの十八時二十分、まだ夕日が照りつけている階段の踊り場をくるりと回って、一階まで駆け下りた。


 静かな正面玄関。靴箱からスニーカーを取り出して、床にほうり投げる。急いで履き替えた。トントンと靴先をたたいて、かかとを無理やりねじこんでいく。

 そのまま走り出そうとして、ふと制服のリボンがいびつになっていることに気が付く。急いで着替えすぎたみたいだ。少しくらい整えておこう。

 そういうところがガサツだ、陽菜を見習え、と言われるのが癪だったし。


「アカリ!」


 校門の向こうから大声で呼ばれる。門のすぐそばに二人並んで私を待っていた。

 自転車を片手で支えている大輝は「遅い。今日は早めに終わるって言ってただろ」と文句を言った。私は顔の前で両手を合わせる。


「ごめんって。監督の話がめちゃ長かったの。朝から奥さんと喧嘩したらしくて、超機嫌悪かったんだから。それより陽菜、暑くなかった? 校舎の中で待っててくれればよかったのに」

「ううん、ここ日陰だから大丈夫。アカリちゃんこそ部活終わりに走って暑くない?」

「バスケ部副キャプテンはこれくらいでバテたりしません」


 陽菜はそうだよね、と優しく頷いた。私としては陽菜の真っ白な肌が日焼けしてしまわないか、熱中症で倒れたりしないか心配でたまらない。

 大輝は「っていうか」と白い目で私を見た。


「俺への気遣いは? 俺も普通に暑かったんですけど?」

「大輝は平気でしょ。むしろ日向で肌焼いてくればいいじゃん。天然の日サロだよ?」

「通ってねえよ、日サロ。まずこんな田舎にねえよ、日サロ」


 くだらない話ばかりしていたらいつまでも下校できない。陽菜が「そろそろ帰らなきゃ」と言ったので、私たちは横並びで歩き出した。


 大輝と陽菜は私の幼馴染で、中学三年生になった今でも、時間さえ合えば一緒に下校する仲だ。

 大輝とは生まれたころ、それこそ産院からの付き合いで、陽菜は幼稚園が一緒だった。お互いのことなら知らないことはない。

 私たちが三人集まっているときはたいてい私と大輝が軽口をたたきあって、陽菜はくすくす笑うか、困ったように仲裁する。そういう感じ。


「それにしても夏だねえ」


 私は手でぱたぱたと仰ぎながら呟いた。ちっとも涼しくない。太陽はもう沈みかけているのに蒸し暑さは全然変わらなかった。


 校門前の坂を下りきったら海がすぐ目の前に広がって、そうすると潮風が吹いて気持ちいいけれど、歩いているだけでもじんわり汗がにじんでくる。


「毎日毎日、これだけ暑いとさすがにげんなりするわ。今年は猛暑って聞いてたけどここまでとは……」

「教室のクーラーついててもどうせ二十八度設定だしな。どうやっても家の涼しさには勝てねえよ。あれってどうにかならねーのかな」

「でももうすぐ夏休みだよね。そうしたら家でいられる時間が長くなるよ?」

「私と大輝は毎日みっちり部活。私たちは最後の県予選があるし」

「あ、そうだよね。運動部は大変……」

「陽菜のとこは?」

「登校日だけ集まろうってことになってるかな。お茶の先生も来てくれるって」

「茶道部ってわざわざ夏休みにやることねえもんな」


 確かに、と私はうなずいた。汗がしたたるなか、抹茶をたてる意義は見出せそうになかった。

 というか陽菜は部活よりも受験勉強の方が大変そうだ。たぶん私たちが学校に行くぶん、塾の夏期講習に行くのだろう。


 しばらく歩いたところで、陽菜は「それじゃあまた明日」と立ち止まった。ぴかぴかに磨かれたローファーがかつんと音をたてる。

 陽菜の家は私たちの家からはかなり離れていて、山側だから途中で別れることになる。坂道の上の方に見える、あの大きな日本家屋が陽菜の家だ。


「ばいばい」

「帰ったらちゃんと水飲めよ」


 陽菜は小さく手を振って、横道に入っていった。


 さて、と私たちはふたたび歩き出す。自転車を押している大輝は「そういや」と思い出したように言った。


「アカリの自転車、結局どうなったわけ?」

「パンクはすぐに直してもらえたけど、別のとこの部品がないんだって。今取り寄せてもらってるからあと三日はかかりそう」

「うちの町、大きい自転車とかないもんな」

「あーあ、田舎って本当不便。高校は都会がよかったなあ」


 私は通学バッグを振り回しながら嘆いた。せめて隣町なら電車もバスもたくさん通っているのに。


「おまえ、自分のテストの点数見て物言えよ。節穴か?」

「期末まだ返ってきてないし! いい? 実際にやってくるまで未来って無限大なんだから。秘儀・えんぴつ転がしが火を噴いて奇跡を起こしてるかもしれないじゃん」

「夢を見るのって自由だよな」

「海を眺めながら言うのやめてよ」


 大輝だって私と同じくらい部活をしているのに、どうしてか私よりもよっぽど成績がいい。理屈がさっぱりわからない。神様はあんまりだ。


「受験勉強、そろそろ始めねえとな」

「もうすぐ七月も終わるもんね」


 自転車のタイヤがくるくると回る。

 ゆるやかな下り坂。私たちは並んで歩く。


 私はちらりと彼に目をやった。自転車が転がっていかないように支えながら、私の歩く速さに合わせようとしている大輝は、坂道のずっと向こうを見ていた。私の視線なんかには気づかずに。


 静かに息を吐いて、少し暗くなりそうな空を見上げた。


 こんな日々がもう長くはないことを私は知っていた。だってもう七月の終わり——終わりなのだ。


 これからそれぞれ最後の大会があって、受験勉強が本格的に始まって、冬が来て春になって、そしてあっという間に卒業式だ。きっと私たちはみんな別々の高校に進学する。こんなに長いこと一緒にいたのに。


 想像してみる。二人のいない高校生活。

 たぶんそれはそれで楽しいのだろう。新しい通学路を通って、新しい友達ができて、新しい部活を初めて――きっと私はすぐに慣れてしまうのだ。こんな感傷も忘れて。


 そこまで思って、やめた。心臓がぎゅっと縮まるような気がしたから。今の今まで考えたことがなかったのだ、この先のことなんて。


 大輝はどう思っているんだろう。こんなこと考えて勝手に傷ついているのは私だけかな、と目を伏せる。だとしたらあまりにも馬鹿馬鹿しい。そこらじゅうに響く蝉の鳴き声だけがやかましかった。


 大輝が立ち止まった。私もつられて足を止めて、「どうしたの」とたずねる。彼はいたずらっぽく目を細めた。


「後ろ、乗る?」


 私は何度か瞬きをした。大輝は小さく首をかしげて、私の返事を急かした。数秒遅れて気が付く。彼の言いたいことに。


「……なに、急に?」

「自転車押して歩くの、だるい」

「交通違反、チクってやろうかな」

「別にいいだろ。俺とおまえだけなんだから」


 俺とおまえだけなんだから。大輝の言葉を心の中で繰り返す。


 私は何も言わずにカバンを肩にかけなおして、自転車の荷台にまたがった。「どこ持つ?」と短く聞けば「どこでもいい」と返ってくる。


「じゃあ鷲掴みにしようかな、頭とか」

「常識的な範囲ってもんを知らんのか」


 とりあえず荷台を掴んで身体を安定させる。私がいいよ、と一声かけると間延びした返事があった。

 大輝はペダルを一気に踏みこんで、自転車を走らせる。


「風、きもちー」

「……待てよ、これ漕いでる俺だけが暑くね?」

「いやあごめんなさいね、私だけ涼んじゃって。極楽、極楽」

「なんで乗せてやってる俺が損した感じになってるんだ⁉」

「他人を犠牲にした幸せってあるじゃん?」

「搾取だ」


 もはや他人事でしかない私は口先だけの応援をして、視線は海に向ける。


 夕日が沈み始めて、海面は眩しいくらいにキラキラ光り輝いていた。反射光が両目に刺さって少し痛かった。


 生ぬるい風がびゅうびゅうと吹いていた。大輝の首筋には汗が伝っている。


 こんな日はあと何日残っているのか指折り数えようとして、けれど面倒だったのでやめた。荷台を握っていた右手を持ち上げる。大輝の肩にのせて、軽く力をこめた。湿っぽい体温を制服のシャツ越しに感じた。


「……自転車壊れるのも悪くないね」


 そりゃあ人に漕がせてたら楽だろ、と抗議の声が上がる。私は大きく笑って、ゆっくり目を閉じた。

 やっぱり得した気分だ。少しだけ。







「それで、アカリちゃんはどうするの?」


 小さなお弁当箱のふたを開けた彼女は、思い出したように言った。


 昼休憩、中庭のベンチに並んでいる私たちは両手を合わせる。私と陽菜はクラスが違うから、いつも中庭に集合してお気に入りのベンチを占領しているのだ。

 少し暑いけれど、木陰だし風が吹き抜けるから思っているより過ごしやすい。


 私は購買で買ってきたサンドウィッチの封をくるりと切り取りながら、訊き返した。


「どうって、何が」

「ほら……」


 ちょっと言いづらそうな陽菜に、「ああ」と声が出る。


「受験勉強? 人間ってときには現実を受け入れることも必要だと思うんだよね。そうやって成長して世に出ていくんだから」

「そんな大人になっちゃ駄目だよ」


 進路指導でもないのに説教された。お母さんですらうっすらと諦め始めているのに。


 陽菜はちょいちょいと手招きをする。私が耳を近づけると、彼女は囁くような声で言った。


「……大輝くんのこと……」


 税抜き350円のカツサンドを落っことすかと思った。スローモーションみたいに宙を舞う私のお昼ごはん。地面につく寸前でキャッチして、二人で大きく息を吐く。


「びっくりさせないでよ!」

「わ、私もびっくりした」

「なんで⁉」


 もう分かりきったことではあるけれど、陽菜は少し天然だ。とっくに慣れたはずの今でも目を丸くしてしまうときがある。


 改めてお昼ご飯を食べはじめる。色鮮やかなキャロットラペを口に運んでいる陽菜は、不思議そうな顔をしていた。


「アカリちゃんがこんなに長いこと引っ張るって思わなかったんだ、私。もっと早くに決着するのかなって。だから何も言わなかったんだけど、そうしたらもう三年生だし、夏も終わりそうだし」

「その話、まだ続けるんだ?」

「続けるけど……」


 ちなみにこれは別の話題に切り替えようとする私と、意外と強情な陽菜のバトルである。


「なんか勘違いしてない? 別に陽菜が思ってるようなことはなにもないよ。そりゃ、二人と高校が別れるのは寂しいけどさあ。でも今だって私だけ一組だし、それの延長ってだけだよ」


 陽菜はむっとしたように私へ向き直る。


「私、そんなに鈍くないもん」

「はいはい。でも陽菜、今まで誰とも付き合ったことないじゃん。恋愛経験ゼロ」


 言葉に詰まった陽菜は、苦しまぎれに「うちはうち、よそはよそ」と流した。

 陽菜ほどになると一周回って付き合えないというのは本当なんだなあと実感する。なにせ誰も告白してこないのだから。競争率が高いというのも考えものだ。


「少女漫画しか読んでない子に言われてもなあ」


 笑いながら付け足す。からかってるでしょ、と言う陽菜の顔は少し赤い。


「アカリちゃんと大輝くんのこと、一番近くで見てきたのは私だよ」


 陽菜の声が思わぬ真剣さを帯びていたから、うっかり手が止まる。それから短くうなり声をあげた。


 そうだった、陽菜と真正面から戦ったら負けるのはいつも私だ。言葉も声色も穏やかなのに、ストレートで嘘がないから、逃げられなくなってしまう。

 つまるところ抵抗するだけ割に合わないのだ。


 親指の先についたソースをぬぐって、サンドウィッチにかぶりつく。たっぷり時間をかけて飲みこんでから、「じゃあ訊くけど」と返した。


「こじれちゃったらどうするわけ? 一番困るのは陽菜でしょ」

「私、かなあ。……そうかも」

「じゃあ余計なこと言っちゃ駄目じゃん。陽菜にとってはこれがいい形なんだから。わざわざ後押しすることないよ」

「でもアカリちゃんが後悔しちゃう方がもっと嫌だから」

「それ、事が起きたあとにもう一回言えるわけ?」

「起きたあとならいいんじゃないかな。どっちにしても取り返しがつかないわけだし」

「暴論だあ」


 それは開き直りがすぎるのではなかろうか。

 お節介かな、と陽菜は苦笑いしたので、そうだよ、と深く頷く。


「どっちにも転んでも地獄だよ、たぶん」


 私は肩をすくめた。

 3人ってすごく難しい。2人がくっついても離れても自動的に壊れてしまうんだから。お互いが付かず離れずの距離でやっていくなんて、できるものだろうか。


 先に食べ終わった私はパッケージをくしゃくしゃに丸めて、五メートル先のごみ箱へ放り投げた。吸い込まれるように入っていく。


「……ま、夏の思い出くらいあってもバチは当たらないと思うけど」


 何気なく思ったことをそのまま呟いてしまう。陽菜が首をかしげて訊きかえしてくるから、私は「違うの、ひとりごと」と慌てて手を振った。

 危ない、危ない。少しぼうっとしていたみたいだ。余計なことは言わないに限る。


 陽菜はもう少しあとで食べ終わって、お弁当箱を風呂敷で包んだ。結び目をきゅっと引っ張って、固く縛った。


「私はどっちでもいいと思うよ」

「だから、どっちでも最悪の未来しか待ってないんだって」

「そうじゃなくて」


 陽菜は足をぶらりと伸ばす。そして私と視線を合わせた。目の奥を覗きこまれてるみたいで、私はつい身を引いてしまいそうになる。


「言っても、言わなくても。全部アカリちゃんが決めればいいことなんだから」


 木漏れ日が眩しい。今日はよく晴れた夏の日だった。


「でもアカリちゃんが決めなきゃいけないんだよ」







 体育館での終業式が終わってしまえば、待ちに待った夏休みだ。ほとんど毎日部活とはいっても、やっぱり夏休みは楽しみだった。

 もうすぐ花火大会だし、授業はないし、テストも終わったし。結果は散々だったけれど。三者面談は緊張感走るものだった。


 今日は私と大輝の家族でバーベキューだ。夕方から肉を焼き始めて、暗くなってきたら手持ち花火で遊ぶ。

 うちは小学生の弟が二人がいるから、朝からそれはもう大盛り上がりだった。


「クーラーボックス持ってきたぞー」


 大輝は庭の低い塀をまたいでうちの敷地に入ってくる。大体いつもこうだ。門から入るということを知らないのである。


「そこ置いておいて」

「了解。バケツいるかって聞いてたけど、どうする?」

「それはもうあるよ」

「重いもんあったら俺が運んでおくけど」

「じゃあ炭の入ってる段ボール、お願いしていい? 納屋の奥に入ってるから」

「了解。あとさっきから電話鳴ってね? アカリんちから聞こえるぞ」

「……ずっと聞こえるとは思ってたけど。大輝の方じゃないの?」

「うちは鳴ってねえけど?」

「マジで?」


 私は縁側にサンダルを放りなげて家に入った。廊下を駆け抜けて受話器を取る。大輝の言うとおり、うちの電話が鳴り続けていたみたいだ。

 表示されているのは『安積さん』という文字で、これは陽菜の苗字だった。今日は遊ぶ予定なんてなかったはずだけど、と思いながらもとりあえず名乗る。


「もしもし、浜口です」

「アカリさん? おはようございます。ごめんなさいね、お昼時に」


 聞こえたのは少し年を取った女の人の声。陽菜のお母さんかと思ったけれど、たぶん週二で通っている家政婦さんだ。カレンダーを見て、今日が土曜日だということを確かめる。

 いつでも髪を一つにまとめている、優しそうな人である。家に遊びに行くと、お茶とお菓子を持ってきてくれる。あの豪華なお弁当を作っているのもこの人だと聞いたことがある。


「うちはお昼まだなので。どうしたんですか? お母さんは買い物に行っちゃって、今いないんですけど」

「いえいえ、アカリさんか大輝くんにご用があって。二時間くらい時間があったらお願いしたいことがあるの」

「大丈夫ですよ」


 大輝はどうか知らないけれど、どうせ暇だろう。勝手に決めつけて返事をする。


「陽菜さん、夏期講習で隣町へ出かけているんだけれど、テキストを忘れちゃったそうなのよ。授業の合間に届けてほしいって電話がきたんだけれど、私は夕方までここを離れられなくて――そうしたらアカリさんか大輝くんに頼んでほしいって」


 隣町か、と私は呟く。電車で三十分くらいあれば大きい駅まで出られるけれど、そこからバスに乗り換えがいるから、少し複雑だ。

 昔から一人で行くのは苦手だった。

 私が少し黙っていると、小さい声で続けられる。


「どうかしら。駄目なら構わないって陽菜さんも言っていたけれど……」

「大丈夫です! 私行きます」

「本当? ごめんなさいね、あとでお礼にケーキ出しますから。ちょうどモンブランが二つ残っているのよ」

「やった! 陽菜には二人で行きますって連絡しておいてください。今からおうちにテキスト取りに行きますね」

「わかりました」


 受話器を置いて、さっそく準備をする。ベランダに出ると、大輝が炭の入った段ボールを運び出しているところだった。私は仁王立ちで宣言する。


「今から隣町まで行きます!」

「なんて?」


 大輝はさっぱりわからん、という怪訝な顔で返してきた。







 ぴかぴかになって戻ってきた自転車に乗って、海沿いを走る。私の真横で自転車をこぐ大輝に経緯を説明すると、「それなら全然いいけど」と二つ返事があった。


「朝から夜まで塾って、大変だよな」

「本当にね」

「駅前の店にでも寄って差し入れ買っていこうぜ。勉強してるなら甘いものか? チョコとか」

「溶けるんじゃない? 大福とかの方がよくない?」


 陽菜の家に立ち寄ってテキストを受け取ってから、そのまま駅へ向かう。5分くらい和菓子コーナーをうろついてから、「ヤバイ、電車くる! これ逃したら次30分後!」と叫びながら電車に飛び乗った。


 電車なんてほとんど乗ったことがない。ましてや家族以外となんて。


 案の定バス乗り場で右往左往する私と、私を引きずってずんずんと進んでいく大輝。

 半年前に買ってもらったというスマホで地図を見ながら、あっという間に陽菜の通う塾までたどり着いた。


 やっぱり私もスマホを買い与えられてもいいんじゃないかと思った。

 突然大輝の気が狂って「なんか一人で帰りたいかもしれない!」とダッシュで逃げ出されたら、私はこの町で新しい生活を送ることになるだろう。


「アカリちゃん、大輝くん! こっち!」


 広々とした塾のロビーで手を振っている女の子。花柄のワンピースを着ている陽菜は、入口まで小走りでやってきた。


「あんま走んなって。この前も喘息出たんだろ」


 大輝が困ったように言いながらテキストとビニール袋に入ったおやつを手渡した。陽菜は「苺大福、大好き。わざわざありがとう」とにこにこ受け取る。


「このくらいなら大丈夫だよ。最近は体育の授業もちゃんと出てるんだから。クロールで泳いでるよ」

「女子側見るたびにひやひやするんだよ、俺は。なんかあったら溺れるだろ」

「大輝くんって意外と過保護なところあるよね……」


 私は深々と頷く。彼女は付け足すように「アカリちゃんもだけど」と言った。

 いやいや、何をおっしゃる。私の心配は正常の範囲内であって、大輝みたいなモンスターペアレント(親ではないけど)のつもりはない。


「あ、もうすぐ休憩終わるから私は戻るね。本当にありがとう。気を付けて帰って」

「がんばってねー」


 私たちは自動ドアへ、陽菜はロビーの奥へ、お互い背を向けて歩き出す。ドアが開いて熱風が顔に吹き付けたとき、私はくるりと振り返った。


「あ――」

「アカリ?」

「ごめん、3分だけ待ってて」


 忘れ物か、と訊いてきた大輝に適当な返事をしてロビーへ戻る。エレベーターの前で立っている陽菜の手を掴んで、振り向かせた。


「えっ?」


 ほどいたままのロングヘアがなびいた。清潔なシャンプーの香り。驚いたように私を見る陽菜に、「わざとでしょ」とだけ言う。


 2秒の沈黙。

 エレベーターのランプが点滅して、扉が開く。陽菜は固まっていた表情を和らげる。


「……ばれちゃた?」

「陽菜は私と違って、前の日に持ち物チェックするタイプだもんね?」


 眉を下げた陽菜は「ごめんね。怒ってる?」と両手を背に隠した。そんなの、私の顔を見ればわかることなのに。陽菜はどうしてか、ときどき察しが悪い。


「二人でゆっくり話せる時間があった方がいいかなって。今は夏休みだから、そういう時間が取れないだろうから」

「残念、行きの電車じゃずっと陽菜の話をしてたよ」

「な、なんで私……?」


 目論見が外れたらしい陽菜は、とても困惑していた。


「あと、しりとりしてた」

「しりとりは楽しいもんね……」

「る攻めしてた」

「基本戦略に忠実だね……」


 私たちは彼女が思っているほど大人じゃなかった、という話である。







 帰りの電車はとても空いていた。


 2両編成、向かい合わせに並ぶ紺色の長椅子。ゆらゆら揺れるつり革。冷房の風が吹きつけてキンキンに冷えた車両内。窓から見えるのは田んぼと用水路と山だけ。

 もうしばらくしたら長いトンネルがあって、その先は海岸線が続くはずだ。私たちはどっかりと座って涼む。


 最寄り駅に着くまであと25分だ。

 私は路線図を眺めながら、やっぱり隣町までは遠いなあと思っていた。


 陽菜はきっと隣町の一番いい高校に進学するだろう。大輝はまだ分からないけれど、模試の点数が良かったらやっぱり隣町に行くはずだ。

 いつだったか「陽菜が一人で電車通学するの心配だよな」ってぼやいていたから。


 ぼんやりと閉じかけていた目を開く。


 そうしたら私だけ海辺の田舎に取り残されるのか。

 なんにもないあの町に――。


「ねえ」


 ふと呟いただけの声がよく響く。

 なんだよ、と生返事。私は背もたれから身体を起こした。


「今度の花火大会、一緒に行こうよ」


 ガタンと電車が揺れた。


 振動で全身が跳ねる。

 何でもないことのように言ったつもりなのに、声は変に上ずった。お腹の奥がぎゅっと強く縮まっていた。


 電車は同じスピードで走り続ける。

 大輝はようやく私の方を見た。瞬きをして、じっと見つめてくる。そして「急になんだよ」と不思議そうに言った。


「毎年行ってるだろ。うちとアカリんちのみんなで」

「うん」

「今年も行くだろ? いつもの場所、4時に行って取るって言ってたじゃん」

「そうじゃない」

「なにが」

「私と二人で、行こうよ」


 はっきりと。誤解も勘違いもないように。私は言い切ったあとで、自分の心臓がバクバクと激しい音を立てていることに気が付いた。


 ああ、言っちゃった。

 言っちゃったよ。


 どうしよう、今のなかったことにできないかな。いや、そんなの無理だよね。もう言っちゃったんだから。


 頭の中で無茶苦茶に飛ぶ思考。堂々巡りでろくな答えなんてでてこない。ただ、大輝の目を見れなくて、サンダルからのぞく短い爪先ばかりを見つめていた。


 でも、もし。

 もし――。


 ふと車窓の外が真っ暗になった。私はふと顔をあげる。窓には私たちの姿が反射している。耳の奥がツンと痛んで、トンネルに入ったのだとわかった。


 そのままゆっくり視線を動かして、大輝を見る。

 彼は少し驚いたように目を見開いて、珍しく言葉を探しているみたいだった。


 必死に握りしめた手からふっと力が抜けた。

 なんというか、勝手に期待した私が悪いのだと重々わかっているけれど、かといって傷つくなと言われるのも難しい話だ。


 なに、その顔。どう返事しようか本気で迷っているみたいなその顔。今まで見たことないんだけど。


 瞬間、全身がカッと熱くなった。

 唇が動く。衝動的に。


「ごめん、変なこと言ったかも」


 私は笑った。大きい声で笑い飛ばそうとした。

 けれどなぜか顔が引きつってしまって上手く笑えなかった。


「ごめん……」


 電車はガタゴト揺れるのに、私の小さな声はやけにはっきりと響く。それが余計に惨めで仕方がなかった。


 あ、やばい。なんか泣きそうかも。だって私だけめちゃくちゃ間抜けじゃん。


 でもここで泣いた方がよっぽど惨めに違いない。それだけは絶対嫌だった。泣くならせめて一人のときにしてよ。


 電車はトンネルを抜けた。車窓から一気に光が差しこんできて、目が眩みそうになった。海が広がっている。鮮やかな青色が水平線まで。


 大輝は「そうだなあ」と呟いた。

 ひとり言というよりは、私に聞かせるみたいに。


「行くか」


 大輝はわざとらしく天井を見上げた。


「え?」

「二人で。……なんだよ、おまえが言い出したんだろ」


 軽く睨まれたから慌てて頷く。そうそう、言い出したのは私だった。なんで私がびっくりしたみたいな顔してるんだろう。


「毎年大人数で行くから、花火も落ち着いて見れないもんな。今年くらいゆっくり見物してもいいかもな。受験前最後の夏だし」

「大輝は、それでいいの?」

「もう一回言うけど、言い出したのおまえだったよな?」

「それはごもっともなんだけど」

「俺がいいって言ったんだから、いいだろ」


 でもでも、と私が続けようとしたところでアナウンスが割りこんできた。

 この電車はまもなく――。

 私たちははっと顔をあげる。そしてお互い何事もなかったみたいにそさくさ荷物をしまって降りる準備を始めた。


 今、たぶん顔が赤い。だって耳まで熱いもん。


 そのくせさっきまで何もありませんでした、的な顔をしているのがおかしすぎる。とはいっても他にどんな顔をしろというのだ。駅に着くまでの数分が絶妙に気まずい。


「あ、待って。私の切符ない」

「は⁉」

 

 大輝が勢いよく振り向いた。

 カバンの中をひっくり返してよくよく探すけれど、切符はどこからも出てこなかった。


「おかしいな、絶対買ったはずなのに」

「そりゃ買わなかったら改札通れねえだろ」

「改札――通ったときに切符取った記憶ないかも」


 さーっと体温が下がっていく。私は今度こそ笑い飛ばした。大輝はとても大きなため息をつくと、私の頭をスパンとはたいた。







 その日の夜、バーベキューは終わって、うちのベランダで手持ち花火をしていた。

 弟二人は花火を振り回してそこら中で走り回っているし、ばあちゃんも外に出てきて、「綺麗だねえ」と上機嫌だ。


 私は少し離れた縁側に座って、大輝から借りているスマホで電話をかける。


「もしもし」


 聞き慣れた声。「もしもし、陽菜」と私は返す。


「時間大丈夫だった? 塾から帰ってきたばかりだったりする?」

「さっき夕飯を食べたところだよ。アカリちゃんちはバーベキューだったよね」

「大輝の家族も一緒にね」


 私はカメラのボタンを押す。すると私の顔がドアップで映された。違う、違う。私の汗だくの顔をお届けしたいわけじゃない。


 スマホを外側にひっくり返して、浜口・加藤家合同の花火大会の様子を見せた。

 男児特有の奇声をあげている弟たちがポイントだ。


「風流でしょ」

「弟さんたち、火傷しない⁉」

「不思議としないんだなあ、これが。大いなる力によって守られてるんだよ」

「大いなる力……⁉」


 優雅な花火も見せてあげようと、別の方角にスマホを向けた。

 うちのお母さんと大輝のお母さんが線香花火でタイムで勝負をしているらしかった。たぶん食後のアイスを賭けているのだと思う。


「本当に綺麗だね――」


 陽菜はうっとりと呟いた。どこか寂しさのこもる理由を私は知っている。


「喉の調子、どうなの」

「やっぱり花火は無理かなあ」


 陽菜は生まれつき喘息持ちで、花火の煙が発作のきっかけになりかねない。だからご両親から禁止されていて、今まで一度も花火をしたことがないのだ。

 都会の花火をビルの中から見たい、とでも言えば陽菜のご両親はきっと叶えてくれるだろうけど、陽菜はそういうわがままを言える性分ではなかった。両親はいつも忙しくて、祖父母に育てられたようなものだと笑っていたくらいだし。


「打上花火くらいなら大丈夫なんだけれどね。煙も海風で流れちゃうし。でもお父さんがすごく心配するから、今年も駄目かな……。また写真送ってね」

「うん。いっぱい撮る」


 陽菜は楽しみにしてる、と笑った。

 これが毎年の流れだ。おかげで私は花火の写真を撮るのがとても上手になった。陽菜に少しでも綺麗な花火を見てほしかったから。


 陽菜は「そういえば」と言った。


「大輝くんは? 一緒だよね」

「私のじいちゃんといるよ」


 居間でお茶を飲みながら大きな声で話している。窓も障子も全開にしているから、話が丸聞こえだ。


 じいちゃんは「わしの小さいころはなあ、隣町で買ってきたもん背負って、あの山を越えたんや! そのとき花火があがって、途中で荷物を下ろして休憩したもんだ!」と力説していた。

 じいちゃんはちょっとボケ始めていて、けれど昔話をするときはいつも楽しそうだった。


「じいちゃん、声デカいって!」

「わしゃ一番の働きもんでな、野菜も薪も人の二倍は背負って――」


 じいちゃんの話は一度始まるとなかなか終わらない。大輝もわかっているから適当なところで話題をすげ替える。


「っていうか山ってあの山? 遠すぎて花火見えないだろ」

「小さーくな、見えるんだ。そりゃわしも浜辺で見たかったが、あのときは忙しくてなあ――」


 残念ながら昔話ループに突入したようだ。大輝は回避に失敗したらしい。あれはしばらく終わらないだろう。

 私は苦笑いしながら「ああいう感じ」と締めくくった。「大輝くんは人づきあいいいもんね」と陽菜も苦笑する。


 カメラを切って音声通話だけにして、そういえば、と口にする。

 陽菜にはちゃんと言っておかなければいけないことがあったから。

 誰も近くにいないことだけ確かめて、スマホを耳もとに持って行く。


「花火大会、大輝と行くことになった」


 私は両足をサンダルから抜いて、縁側に乗せた。三角座りでベランダを眺める。

 竹棒からシューっと吹きだす煙であたりは曇る。何色にも輝いている閃光。叫ぶような笑い声。私は「ありがとうね」と付け加えた。


「陽菜が時間作ってくれたから」

「そっか……そっか、よかった」

「うん」

「やっぱり迷惑だったかもって、考えてたの。私が勝手にしたことだから。アカリちゃんに相談もなしに」


 声はどんどん小さくなっていく。やっぱり陽菜はときどき察しが悪くなるのだ、不思議なことに。


「一生懸命考えてくれたんでしょ、私のこと。陽菜がしてくれることを迷惑だって思ったことは一度もないよ」

「……優しいね」

「それは私の台詞なんですけど」

「ううん、アカリちゃんはいつでも優しいよ。大輝くんも。ずっと私のことを心配してくれて、一緒にいてくれて。私がいなかったらどこにだって行けるのに、私に合わせてくれて――」

「陽菜」


 遮る。


「合わせてるんじゃないよ。私たちがそうしたいって思うだけ」

「――そうだね」


 陽菜は「嬉しい」とこぼした。素直にそう言ってくれる彼女だから、なんだってしてあげたいと思ってしまうのだ。きっと大輝も。


「花火大会、楽しい日になるといいね」

「……うん」

「私、アカリちゃんが大好き。だからアカリちゃんが笑ってくれていたらいいな」


 まったく、素直すぎるのもどうかと思う。言われた私は思わぬダメージをくらって顔が真っ赤になってしまった。今が夜だからよかったものの。


 少し話してから通話を切る。

 それから近くに置いてあった不人気の線香花火をとって、ライターをカチカチ鳴らした。こんなに余ってしまったら線香花火だって浮かばれないというものだろう。


 パチパチ散っていく棘のような火を見つめながら、私は小さくため息をついた。

 ついてから、どうして私はため息なんて、と自分で驚いてしまった。私はもっと浮かれていたっていいはずなのに――。


「アカリ、早く来ないとアイス全部なくなるぞ!」


 居間から顔だけ出している大輝が、抹茶のカップアイス片手に大声で呼んでいた。「マカデミアナッツは私のだから!」と叫びかえす。大輝のお父さんに取られたらたまったものじゃない。


 まだ火の残っている線香花火をバケツの水に突っこんだ。

 ジュッと音を立てて消えたそれからは、焦げたにおいだけがしていた。







 あたりが薄暗くなり始めたころ、玄関のチャイムが鳴った。

 はーい、と返事をしてカバンを肩からかける。階段を駆け下りていたら、チャイムが二度、三度連打された。とてつもなく迷惑だった。


「聞こえてるってば!」

「三秒以内に出てこいよ」

「靴履いてるだけでも三秒たつわ!」


 大輝はいつもの部活バッグではなく、お出かけ用のショルダーバッグをかけていた。靴も通学用のものとは違うスニーカーだ。そんなの持ってたんだ、と私は心の中だけで思った。

 なんて考えている私も、普段はあまり履かないサンダルを引っ張りだしてきたわけだけど。


「ちょっと出るの遅かったかな?」

「場所取りしないんだろ。だったらいつ行っても一緒だ」

「砂浜の端っこの方で見ればいいしね」


 海沿いの道には人の流れができていた。みんな花火を間近で見られる浜辺を知っていて、そこへ向かっているのだ。

 車は規制で通れないから、道の真ん中まで大きく膨らんでいた。


 ゆっくりと歩きながらくだらない話をする。

 持ち歩き用の扇風機で涼みながら、宿題がどれくらい終わったかとか、部活の大会の日程とか。

 お互いの大会には応援に行く予定で、陽菜も夏期講習がなかったら来てくれると言っていた。


 薄くなった影が遠くまで伸びていた。私たちは並んで歩く。


 昔は私の方がずっと背が高かったのに、気付いたら目線が同じになっていて、今では大輝の影の方が長くなっていた。

 ふと顔をあげる。つられて私の方を見た大輝の顔には、昔ほどの幼さは残っていない。


 だからこそ今だって歩幅を合わせようとしてくれるところとか、待ち合わせ時間はちゃんと守るところとか、ああ、変わらないんだな、と思うことが日に日に増えていくのだ。

 そういうところが、私は。


 夕陽は沈んでしまって、空と海の境界がだんだんと濃くなっていく。


 二人きりでいられることなんて、最近は滅多にない。だからこそあの子がくれた時間を私は精一杯に過ごそうと思っていた。

 最後の夏くらい、私は私のために全力でありたい。


 だというのに私はさっきからうわべの気持ちで話すばかりだ。


 頭の中で別のことばかり考えているような気がして仕方がない。いつもならどうでもいい話で頬が痛くなるまで笑えるのに、声と顔だけで笑っているような。


 ――なんでだろう、今の私、あんまり楽しくない気がする。


 ふと気が付いた。

 気が付いてしまったら、もう駄目だった。その気持ちをなかったことにはできなかった。


「――アカリ?」

「え?」

「いや、呼んでるのに返事しねえから」


 ごめん、と短く返した。ちょっと余計なことばかり考えすぎていたみたいだ。「寝不足か?」と大輝が眉をひそめたから、かぶりを振る。


「なんでもないよ」


 たぶん気のせい。気のせいだ。

 そうじゃないとおかしいじゃん。


 笑って片手をぶんぶんと振った。けれど後から、今の笑い方は下手だったかもしれないと気が付いた。

 ごまかすみたいに歩く速度をあげた。大きく手を振って早足で進む。けれど大輝はそのまま立ち止まってしまった。


 そんな深刻そうな顔しないでよ。全然似合わないな。

 私はもう一度「なんでもないから」と言った。今度はちゃんと笑って。


「行こうよ。花火、始まっちゃうよ」

「まだ一時間もあるだろ」


 はっきりと言われた。それはそうだ。


「早くいきたいじゃん。楽しみじゃないの?」

「そんな顔で言ってるアカリこそ、楽しみなのかよ」

「楽しみだよ」


 言ってから、違和感がした。声には抑揚がなくて妙に平坦な感じだ。

 気持ちがひとつもともなっていない言葉は、空気に溶けずにいつまでもそこにとどまってるみたいだった。


 大輝はしばらく黙っていて、そしてなにか困ったものを見るような目で、私をじっと見ていた。


「嘘くさ」


 冷ややかに吐き捨てられる。


 私はとっさに口を開いて、何か言い返そうとした。ほとんど反射だった。

 でも視線がかちあって、私は声が出る前にひっこめた。


 彼は真顔だったが少しも怒っていなくて――むしろ雰囲気に堪えきれなかったのか、ちょっとだけ笑ってしまっていたのだ。

 私を非難するその言葉には、敵意も悪意もなかった。


 昔からそういう奴だったな、そういえば。湿っぽい空気が苦手で、重い雰囲気になるとふざけてみせるのだ。そういうところ、私とよく似てる。


 私は大きく息を吸って、吐いた。

 自分の考えていることが自分の気持ちとぴったり合っているのか、頭の中で重ね合わせてみる。

 正解かな、間違いかな。まあ今さら間違ってていても構いやしないか――どうせ私の期末テストは平均38点なのだから。


「……今から戻っていい? 花火、間に合わなくなるかもしれないけど」 

「忘れ物か?」


 私は頷く。


「そ、忘れ物」


 腕をめいいっぱいに伸ばして指さした。人差し指の先は私の家ではなかったけれど。 







「どうもお、お迎えにあがりました、お嬢様」

「元気ー⁉」


 自転車で山の坂道を全力疾走。明日は筋肉痛確定という疲労感のなか、ぜえぜえ息切れしながら半分やけくそで叫んでいた。

 広い庭で育てている野菜に水やりをしていた陽菜は、呆気に取られた顔で私たちを見た。


「な、何が起こってるんだろう……? 私もしかして熱中症で幻覚とか見てる?」

「マジ? 大丈夫⁉」

「いや俺ら幻覚じゃねえだろ。なんでおまえが驚いてるんだよ」


 とてつもなく冷静なつっこみだった。

 陽菜は両手をわたわたと動かしながら、珍しく狼狽していた。


「あれ、あの、二人って行ったんじゃなかった? 花火大会。今日19時からの。今、30分前。ここ、山」

「陽菜って自分の家のこと山って呼んでるのか?」

「初耳だね」

「そこが一番気になるんだ⁉」


 私たちは顔を見合わせてうんうんと頷く。陽菜をからかうのはちょっと楽しい。


 でも彼女の言ったとおり時間がないのは本当だ。

 あまり茶番を続けているわけにもいかないから、私はすぐに本題へ入る。


「陽菜、一緒に花火見に行こうよ」


 ね、と小さく首を傾げる。

 陽菜はぽかんとした顔で、私と大輝を交互に見た。


「だって――」


 だって今日は。


 その言葉の続きを私はわかっている。

 だから上書きするのだ。私がもっと望んでいる今日へ。


「だって今日は中学生最後の花火大会だよ。3人で行ったら絶対楽しいよ!」


 私は自転車を止めて、陽菜のもとまで走っていく。そして宙ぶらりんの手を取った。私よりもずっと小さくて白い手のひらは、戸惑うようにゆるく握られたままだった。


 大輝も自転車を下りてその場に止めようとしていたけれど、私は片手を伸ばして制する。小さく首を振れば、大輝から頷きだけが返ってきた。


 距離は30メートルくらい離れている。これで私たちの話すことは私たちにしか聞こえない。

 陽菜もそれに気づいているから身を乗り出して、私の耳元で囁くように呼んだ。


「アカリちゃん」


 私も同じように声を潜める。


「なに?」

「どうして急に、こんなこと。せっかく2人で」


 蝉のけたたましい鳴き声はだんだんと止んできて、彼女の声がよく聞こえる。

 責めるのではなく確かめるような、どこまでいっても優しい子だった。


「私のなかで何か違うような気がしてて」

「……違う?」

「そう、違うの。嬉しいはずなのに、ずっと何かが引っかかってるみたいだった」


 その答えをずっと探していた。ううん、もしかしたら気づかないフリをしていたかっただけかもしれない。今の私ではもうどっちかわからないけれど。


 大輝がおーい、と大声で私たちを呼んだ。同時に振り返る。「本当に時間ヤバい!」と言うから陽菜は腕時計に目をやった。私も一緒に覗きこむ。打ち上げ開始まであと20分だ。


もうごちゃごちゃと話して説得している余裕はない。だからちょっと強引に。


「ね、行こう」


 私は繋いだ手を強く引いた。

 いつのまにか体温がうつって、同じくらいの温かさになっていた。

 陽菜はつられて足を1歩前に出した。


「いいのかな」


 陽菜ぽつりと呟く。


「私が2人の間にいても、いいのかな──」


 そんなの、と私は前を向いたままで答える。


「陽菜がいてくれると嬉しい」


 私たち、ずっと3人で歩いてきたんだから。

 今さらあなたのいない夏は寂しいよ。







 陽菜は花火大会に行ったことがない。


 花火の煙は陽菜の喉によくないから、こういう日は家の庭に出て音だけを聞いている、と言っていた。

 陽菜の家は山の中腹にあるけれど、海側にもう1つ大きな山があるから、花火そのものはまったく見えないのだ。


「ど、どうするの? 私は浜辺には──」

「行かないよ。別の場所で見る」

「でも離れすぎたら建物で見えなくなっちゃう」

「うちのじいちゃんがさ、昔は山で見たって言ってたんだよね」


 バーベキューの夜、じいちゃんが昔話をしているときに言っていたことだ。けれど居間で直接聞いていた大輝は「おまえのじいちゃん、細かいことなーんにも言ってなかったけど」と肩をすくめた。


「あれ、私には何回もしてる話だからね。もう10回は聞いてる」

「エンドレス再生だったのか……」

「最近、思わぬところで再生スイッチが入るんだよね……」


 それはともかく、じいちゃんの話によると隣町との境にある大きな山なら、高さがあって方角もいいとのことだった。今だとふもとから新道を進んで、途中で旧道に入ればいいらしい。

 旧道はギリギリ車が入れない細い道で、歩いて山越えをしていたころの名残りだと聞いている。


 陽菜も自転車を出してきてまたがった。ついでにスニーカーに履き替えてきたのか、やる気は充分だ。ちなみに私も自転車を取りに帰ったときにスニーカーにしてきたから、全員おそろいだった。


 私を先頭にして1列で出発する。ここまで登るのはあんなにしんどかったのに、下り坂はペダルから足を離していてもぐんぐん進む。


「涼しー」

「そういや陽菜、スマホはどうしたんたよ。連絡入れてたのにまったく返事なかったから」

「部屋で充電してたの。だから今も持ってなくて」

「と、取りに帰る? お父さんとお母さんに連絡とか、写真とか」

「靴をはきかえるときに言ってきたよ。2人がいるなら行ってらっしゃいって。写真は──いらない。毎年写真なんだもん、もう見飽きちゃったよ」


 陽菜は笑ってペダルを踏みこんだ。

 坂道を下りきれば、山までの平坦な道がずっと続いている。だいたい2キロくらいのはずだ。そこからはゆるやかな山道になる。


 私と大輝は慣れているけれど、陽菜は──。


「息、大丈夫か? 体調は?」

「まだ大丈夫。でも私遅いから、このままじゃ間に合わないよ」


 というより私と大輝だけで全力で漕いだとしても間に合わない気がする。


 ちらりと大輝をみる。彼も同じことを思っているのか、何か考えるように黙りこんでしまっていた。

 なんの予定もなく、その場の思いつきだけで決行する計画性のなさを陽菜に叱られてしまうかもしれない。


「とりあえず行くしかないでしょ」


 気合いだけで進もうとするのは私の悪い癖だ。

 大輝は私の服を鷲掴みにして無理やり止めた。私の首がややキツめにしまって、うめき声が漏れた。


「ちょっと、服伸びたらどうしてくれんの!?」

「陽菜、今何時?」

「18時45分だけど……」

「うわっ、なんも聞いてない。クレームを受け付けない悪徳商店だ」


 だったらここで待ってた方がたぶん早い、と大輝は近くにあった無人販売所のそばに自転車を止めてしまった。


 いやいや、なんでこんなところで、と私はつっこむ。

 きゅうりとピーマンなら売ってるけど、それ今買うタイミングか?


「確かに陽菜の休憩はいるとして、こんなところじゃなくても」

「だからそうじゃなくて──」


 大輝が言いかけたとき、道の向こうから1台の軽トラが走ってきた。ぼんやりと薄暗いなか、浮かぶオレンジのヘッドライトが近づいてくる。


 やっぱり来た、と叫んだ大輝は道の真ん中に走り出て、両手を大きく振ってみせた。「なにしてんのよ、危ない!」と私も陽菜も手を伸ばして止めようとするが、間に合うわけがなかった。


 とはいえ当然、軽トラはブレーキをかける。このままではみんなびっくりの事故現場になるからである。

 すぐそばに止まった軽トラの運転席に回りこんだ大輝は、「よっ」と片手をあげた。


「おっちゃん、今から隣町?」

「危ねえことするガキだなと思ったらおまえか、大輝。こんな日にニュースになったら親御さんが浮かばれないだろ」

「ちゃんと俺に気づいてるって分かってたし。それで、隣町行くの?」

「ああ、機材戻しにな」


 見たことのある顔だけれど名前は知らない人だ。軽トラにちらりと目をやると、側面には建設会社の名前があった。そういえば通学路にこんな会社があった気がする。


「にしては、なんかめちゃくちゃフランクに話してるんだけど……」

「大輝くん、人付き合いいいもんね……」


 つい最近聞いたばかりの台詞だった。


 少し離れたとこで陽菜とこそこそ話していたら、どういうわけか話が終わっていて、私たちは軽トラの荷台に乗せられていた。三角座りで、丸太と機械に囲まれて。


 いや本当にどういうわけかわからない。まさかドナドナか?  ドナドナされちゃうのか?


「旧道前まででいいからー!」


 身を乗り出した大輝が運転席に向かって声を張り上げる。窓からグッドサインが返ってきた。


「毎週日曜の夕方、機材運びに隣町に行くって聞いてたんだよな」

「あ、これヒッチハイクだったんだ?」


 大輝が話をつけてくれたおかげで大幅ショートカットに成功した私たちだが、ボロボロのコンクリートで激しい振動が走り、腰への負担が計り知れないものになっていた。

 あと無人販売所に放置している自転車が盗まれるリスクも抱えていた。こっちは本気で洒落にならないのである。







 旧道は舗装こそされているけれど、山の上までうねりながら細長く伸びていて、見上げるだけでため息をついてしまいそうだった。


 途中からは神社の参道になっていて、ぽつぽつ明かりが浮かんでいた。私たちは懐中電灯で足元を照らしながら進んだ。

 穴場とは言え知っている人は知っているのか、ずっと上の方で人影が揺れていた。みんなもう高いところまで行ってしまったらしい。時間が時間だ、当たり前だった。


 空はすっかり暗くなっていて、肌が焼けるような日差しはなく、風が吹くたびに熱のこもる身体がゆっくりと冷まされていた。


 みんな歩くことばかりに気持ちが持っていかれて、何も喋ろうとはしなかった。私も足元だけ見ている。道にぼんやりと浮かぶ懐中電灯の光は、ぬかるんだ落ち葉やセミの死骸を照らし出していた。


 自分の呼吸音がよく聞こえる。

 なんとなく懐かしさがあった。


 小学生のころ、探検だといって山を登っていたのだ。何度も何度も、飽きもせず同じ道を辿って。虫取り網を持ってカゴと重い水筒を首から下げていた。


 大輝はクワガタを捕まえるのがクラスで一番上手くて、夏になるたび鷲掴みにしたそれを教室で見せびらかしていた。

 陽菜はああ見えて意外と虫が得意で、カブトムシとかカマキリを育てていた。たぶん家庭菜園をするから、虫くらい素手で触れるのだと思う。


 私は——まあ、セミの抜け殻を集めるのが好きだったな。お母さんには捨ててきなさいってめちゃくちゃ怒られていたけれど。勉強机の引き出しに山ほど隠していた。

 うっかり見つけてしまったお母さんが発狂したのを今でも忘れない。


 たった5年前のことがもう思い出になっていた。

 だったら5年後、私は今日のことを思い出すのだろうか。


「あ——」


 誰が最初に声をあげたのかはわからなった。私だったような、そうじゃなかったような。でも確かに3人で同じものを見ていた。


 最初に光があった。

 うんと小さく、けれどはっきりと輝いた。

 何秒も遅れて、破裂するような音がした。雷みたいな音だった。


「花火」

「うん——」


 息をのむ。私と大輝はほとんど同時に振り返って、陽菜を見ていた。


 彼女は両手を胸の前でぎゅっと握っている。その場から動けなくなったみたいに固まって、海の方を食い入るように見つめていた。


 小さい子どもみたいだった。

 目に色とりどりの光が反射して、なんだか泣いているようにも見えた。


「陽菜」

「……見えるよ」

「そうだな、ちゃんと見えてる」

「3人で、見てる」


 呆然と呟いた陽菜は目を逸らせずにいた。


 浜辺の特等席で見上げる花火はもっと大きくて、鮮やかで、火薬のにおいが濃くて、燃えかすが宙を舞っていた。こんな場所で見るのとは比べ物にならないくらい綺麗だ。


 だって5号玉があんなに小さい。音だって何秒も遅れている。

 それでもこれが3人で見た最初の打上花火なのだ。


「間に合わなかったなあ」

「いいじゃん、ゆっくり行けば」


 遠くで上がる花火を眺めながら坂道を登っていく。陽菜の呼吸が速くなり始めたらその場で止まって、落ち着いたらまた歩き出して——そのたびに空を見上げていた。


 途中に小さな鳥居があって石段がずっと上まで続いていた。20人くらいが高いところを陣取っていたから、私たちは半分くらい登って腰かける。

 石の冷たさが服越しに伝わってきた。私たちは3人並んで海の方を向いていた。


「町、よく見えるじゃん。ほら、あれ学校だよ」

「どこだよ。全然見えねえ」

「あ、私わかったかも……」

「っていうか花火見ろよ」

「見てるよ」


 私は大人になっても、おばあちゃんになっても、この夏の日を覚えていようと思った。

 3人で見た豆粒みたいに小さい花火を、綺麗だって何度も言いあったことを、忘れずに生きていきたかった。


 陽菜は言った。どうして、と。

 私は3人がよかったのだ。


 大輝に向けているこの気持ちが特別なものだということはわかっていた。替えなんて見つからない。でもそれと同じように、陽菜に向けるこの気持ちだって私の特別だ。


 私は2人になるより、3人でいたかった。

 これまでみたいに、この先もずっと。


 ふと陽菜の言葉を思い出す。

 ——アカリちゃんが決めなきゃいけないんだよ。


 私は唇に笑みを浮かべた。そうだね、全部陽菜の言うとおりだ。逃げられるわけがなかったんだよね。先延ばしにしても消えてくれなくて、ずっと残り火みたいに燻ぶって燃えていて——。


 だから私、選んだよ。

 ちゃんと自分で選んだ。


 私はこの気持ちを抱えたまま、誰にも見せなくていい。知られなくていい。自分の中で大事にする。静かに守っていく。さらけだすことがすべてじゃないと思うから。


 夜風に吹かれて髪がたなびいた。花火はキラキラ光りながら、ほの明るい空に消えていく。きっともうすぐ終わりだ。私はもう何も言わないでゆっくりと目を閉じた。

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