第1話

今思えばなんてつまらない人生なんだろう。俺は天井を見つめながらそう思った。

 何かをやりたいわけじゃないが、何もやらないのも面白くない。でも自分の人生を大きく変えたいとか、大冒険がしてみたいとかそんな気持ちは全くない。

 あるのは汚い部屋の布団の中でうずくまっている貧乏な汚い気持ちだけだ。


「なーんもしたくない」


 呟く。誰かに聞かせたい訳じゃなく、自分に言い聞かせたい訳でもなく、無意味に呟く。


「腹減ったな……なんかあったっけ?」


 部屋の中を見渡して食べ物を探す。


「そういや、何も無いのか」


 仕方なく外出の準備をする。

 家を出るのは3日ぶりで鏡を見ずとも今の自分が薄汚い不審者じみた見た目をしているのは想像に難くない。

 時刻は夕方を過ぎていた。多くの人が仕事を終えて家に帰る時間である。

 家を出て近くのスーパーまで買い物に行く。

 スーパーに着いて財布を覗く。

 とりあえず3日分の食料を確保しよう。1846円ならギリギリ買えるかもしれない。いや、少し余裕もできるだろう。そう思って買い物を始める。



「あー、失敗した……」


 ビニール袋1つに買った物をぎゅうぎゅうに詰め込んで立ち尽くす。

 財布の中をすっからかんにしてしまったのは、思わず酒を手に取ってしまったからだ。

 明日は良い、明後日はどうしようか。どうする事もできないまま今日は終わる。終わってしまう。

 いつもそうだ。いつもそうやって自分の人生を蔑ろにしてきた。我慢も努力もできないから、生きているのか死んでいるかもわからない状態になっている。それはあまりうれしくない。


「ーーーーー!!」


 突然どこかから女性の悲鳴が聞こえた。その声がおそらく恐怖から出ているという事はなんとなくわかった。それで自分は、自分は何故か、本当にどうしてかわからなかったが、声の方向へ走り出していた。



 声の聞こえた方向を頼りに俺は走った。そしてスーパーから200m程離れた所で俺は見た。

 見たくない物を目に入れてしまった。

 月も星も無い夜に街灯だけで照らされたアスファルトの上に、黒くて赤い物が広がっていた。そしてその更に上に女性の姿が半分だけ見えた。


 半分。人間の下半分だけがそこに横たわっていた。街灯で体の全てが照らされるはずなのに、そこに上半分は全く無かった。


 だがそれ以上に目を引いたのは、その横で佇む一人の男と咀嚼をしている巨大な顔の存在。

 直感的にこいつらはヤバいと思った。もし勘付かれたら俺もその女性の様に喰われてしまう。そう思って俺はすぐさま走り去る事にした。物音を立てずにゆっくり進めば気づかれないはずと信じて静かに足を動かした。

 だが人生はいつも思い通りに行くわけじゃない。月も星も無い夜空は暗い雲に覆われていて天気が悪い。遠くで雨が降っている事は外に出た時からわかっていた。そして雨が降っている方向から僅かな瞬間に閃光が走った。


 雷鳴が轟く。

 稲光は俺の姿を一瞬で照らしてしまった。

 男は俺を見ていた。多分俺より若い。高校生くらいかと思う。妙な服装をしていたが、それ以外は至って普通だ。そいつが巨大な顔と共に俺の顔を見ていた。男の目は多分、恐怖している目だと思う。手脚が震えて息も苦しい。今の自分と同じ様な状態だった。


「……見たの?」


 男が呟く。


「お前見たのか⁉︎」


 俺は買った荷物を投げ出して走り出した。

 殺される。目撃者は許さない、そんな顔をして俺を見ていた。何がなんでも逃げてやる。こんな所で死にたくないと必死に走った。なんて日だ。今日は人生で一番最悪な日だ、と自分のやった事を後悔しながらひたすら走り続けた。



 走り続けて体力も限界になっていた俺は住宅街の狭い路地で座って休んだ。きっと撒けたはずだと安心して息を吐いた。

 そして息を吸おうとしたその時、路地の隙間から巨大な顔がチラッと見える。


「ド、、、コ、、ダ、、?」


 目はバランスボール程大きく、瞳は眩しくギラついている。口は3m程開き鋭い牙が何本も生えている。簡単に俺を一口で喰らうことができるとわかる巨大な口だ。

 奴らは俺の近くにまで来ていた。

 もしバレたら今度こそ確実に殺される。体中で生命の危機を感じ取っていた。


「やばいやばいやばいやばい」

「ヤバいヤバいヤバいヤバい」


 俺も俺を探している男も焦りが出ていた。

 どうすれば助かるのかだけを考えて、でも方法は何一つ思いつかなかった。


「お取り込み中失礼」


 小さな声が路地の奥の方から聞こえた。声はくぐもっていてよくわからないが、恐らく中年の男だとは判別できる。


「君は変わりたいとは思わないかい?今の状況に満足していないんだろう?私の方に近づいてくれたら、この危機を乗り越える力を授けてあげよう」


 明らかに怪しいが他に頼れる物はなかった。俺は指示に従い、静かに奥の方まで進んだ。


 路地の奥に人の気配は無かったが人影はあった。そこに佇んでいたのは頭に深い編笠を被ったスーツ姿の何か。その何かが俺を呼んでいたのだ。


「ご機嫌よう」


「あんたは……?」


「それは私も知らない事だ。だが私は君の事は知っている。21歳の元フリーターで現在無職。大学受験に失敗してそのまま何もせずにフラフラ生きてきた。あるのは少しの貯金と親からの仕送りだけ。退屈でどうしようもない人生を送っている」


 失礼だが事実だ。文句は言えなかった。


「どうしてそれを」


「そんな事はどうでも良い。私は君に渡さなくてはならない物がある。君は望んでいるはずだ。今を変えたいと。自分を変えたいと。私はその手助けをしたい」


 俺は息を飲んだ。そして首を縦に振った。


「この契約書にサインしたまえ。そうすれば、君も力が手に入る。それだけでいい。それだけで君の人生は変わる」


 目の前に浮かんでいる契約書の文字は見た事のない物だった。目の前の何かは俺にペンを渡して指を指す。


「ここに君の名前を書くんだ」


 俺はペンを━━━。


 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「どこだ⁉︎あの男どこに行った?」


 失敗した失敗した失敗した。

 見られた。現場を見られた。僕の殺人を見られた。僕の顔を見られた。見た奴は……消さなきゃ!!!


 僕が殺したのは僕の憧れだった人だ。

 同じ高校の先輩で弓道部の部長。

 彼氏はいなかったらしい。だから僕は昨日告白した。そしてフラれた。

 今日再アタックしたら逃げられた。

 だから殺した。食わせた。顔は嫌いになったから最初に砕いた。体は下だけあれば良かった。

 誰も僕の事を好きになってくれないんだ。だから喰わせた。

 誰も僕の事を理解してくれないんだ。だから噛み砕いた。

 誰も僕の幸せを願ってないんだ。だから飲み込ませた。

 わからずやの父さんも、口うるさい母さんも、鬱陶しい先生も、意地悪な先輩も、無視をする同級生も、口だけのバイトの店長も街を歩く気に入らない誰かもみんなみんな一口で消した。30人は食べた。


 食べてくれ。僕の事を好きにならない奴は、みんな食べてくれ。『ワンバイト』。



 もう一度雷鳴が響く。

 気配を察して振り向くとあの男が立っていた。逃げる素振りすら見せず、恐怖で引きつった顔を見せていた。

 今度こそ逃がさない。逃がすものか。

 さっきみたいなヘマはしない。今度こそ誰にもバレずにやってやる。


隠蔽魔術(天)サイレントノイズ


「『ワンバイト』あいつを食べて」


 周囲から明かりが消える。何もかもが闇に包まれる。『ワンバイト』は音も無く近づいていく。そして断末魔をかき消す雷鳴を鳴り響かせる。

 轟音が響き、閃光が走る。

 きっと一口で食べられたはずだと確信する。

 しかし、稲光で暗闇が照らされた瞬間、僕は目を疑った。


 『ワンバイト』の頭が横に倒れ、その先にさっきの男と女の子が立っていた。

 そして殺し損ねて焦る事すら忘れて、その女の子に釘付けになっていた。


 145cmくらいの小柄で細い体。端正で整った顔には青と赤の宝石の様な瞳と白い八重歯が光る。滑らかな金髪は腰まで伸びて靡いている。こんな綺麗な人を僕は見た事が無かった。


「名前、名前を教えて下さい!どこに住んでいるんですか?付き合ってる人はいるんですか?」


 僕は一目惚れした。それくらい彼女の姿が素晴らしかった。


「良かったら僕と……」


 そう言いかけた時、彼女は聞いた事ない大声で叫んだ。


「アンタがワタシのダーリンを追いかけ回してたのね!!!!迷惑だから消えてくんない?!!!!!」


 再び僕の恋は一瞬で崩れ去った。


 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 契約書に名前を書く。

 学生時代は『都民』ってあだ名で呼ばれていたのを思い出した。


 あずま 京人けいと


 都会で輝くような立派な人になってほしい。今の自分とかけ離れた意味を持たされた名前だった。


「確認致しました。後は貴方様次第です。グッドラック」


 正体不明の何かはそう言うと俺の前から消え去った。

 契約書は微かな光を放ち地面へと落ちた。

 だがそれだけで何か特別な事は起こらなかった。騙されたと思った。仕方なく後ろを振り向いて逃げるタイミングを伺っていた。


 ドンッ!


 雷の音が響くと同時に急に何者かが俺の背中を押した。

 俺はそのまま路地を飛び出してしまった。そしてあの男と巨大な顔に見つかってしまった。

 俺は死を覚悟した。両親や昔の友人の事を思い出してこれが走馬灯なのかと感心していた。

 急に視界が真っ暗になる。周りにあった筈の光が一切見えなくなる。俺は死ぬんだな、そう思って目を瞑った。一回だけでいいから女性と付き合ってみたかったな、と俗っぽい望みを願っていた。




 チュッ。


 暗闇の中で唇に柔らかい物が当たる感覚があった。人生で経験した事は無かったが、多分キスというものだろう。そうか、自分は最後の最後で変な幻覚を感じたのか。そう思ってずっと目を瞑っていた。

 雷鳴が再び響く。周囲が明るくなったのを瞼越しに感じた。でも何も起きなかった。絶対絶命のピンチに何も起きなかった。

 不思議に思って目を開ける。

 巨大な顔は地面に倒れていた。

 そして俺の目の前に誰かが立っていた。


 一人の少女が俺の前に立っていた。

 まるでアニメの中からそのまま出てきたような可愛い女の子だった。

 ヒラヒラでキラキラなアイドルの様な衣装。

 ゴージャスで煌びやかなお姫様の様な王冠。

 金ピカで派手な魔法少女の様な髪。

 そしてちょっとツンデレっぽい可憐でキュートな顔。

 二次元も三次元も超えた俺が見た中で一番美しい姿だった。

 思わず見惚れてしまい、男の方が何かを言っていたのを全く気にも留めなかった。だが直後に凄まじい衝撃が耳を貫いた。


「アンタがワタシのダーリンを追いかけ回してたのね!!!!迷惑だから消えてくんない?!!!!!」


 聞いた事ない大声だった。頭に反響する程大きな声が鼓膜に突き刺さった。


「お前もか!お前も僕を否定するのか!!」


 男の叫ぶ声も聞こえたが、本当に小さな音だった。だが倒れていた巨大な顔が起き上がり、彼女を喰おうと迫って来ていた。


「迷惑だって言ってんでしょ!!!!!」


 彼女は怯む事なく飛び込んで巨大な顔の眉間に拳をお見舞いした。顔は宙に浮き地面に落ちた。すると男は直接彼女に襲いかかった。


「ふざけんなあああああ!!」


 だが、男の攻撃は当たらない。彼女は一瞬で20m程の高さまで跳躍していた。そして20m離れた所からでもうるさく聞こえる声を響かせる。


「低級フェアリット風情が、ワタシとダーリンに勝てると思ってんの?!!!!」


「『ワンバイト』!あの女を食らい尽くせ!」


 男は巨大な顔を空中にいる彼女に向かわせる。巨大な口で今度こそ丸呑みにするつもりだろう。

 だが彼女は余裕の笑みを見せた。

 そして拳を握る。すると拳が眩い光を放つ。

 空中で姿勢を変えて拳を前に構える。

 そしてそのまま凄まじいスピードで巨大な顔目掛けて飛び込んだ。


「パモンパーンチ!!!!!!」


 彼女は光の槍となって巨大な口を貫き、そのまま男に拳を叩き込む。その威力は地面に小さなクレーターが出来るほど強力だった。


 男は気を失う。巨大な顔は消えてなくなる。すると男の服が学制服に変わった。近くに学生証が落ちていてこの地域にある『陽日ようひ高校』の校章と“鬼頭きとうハジメ”という名前が書いてあった。


 彼女は俺の方に近づいて来た。


「ダーリン!!!!!大丈夫だった?!!!」


 彼女の声が再び頭に響く。


「声、声が大きいよ!耳がおかしくなる」


「あ、ごめん!!」


 少女は僅かに声を抑えたがそれでも大きい。

 俺は困惑と疑問を抑えきれず質問した。


「それよりも君は一体何者なんだ?あの力は一体?」


 すると彼女は微笑みながら答える。


「何者って、さっきダーリンが契約したじゃん!!ワタシはダーリンのフェアリットなんだよ!!」


「契約?フェアリット?それって一体……?」


 俺が彼女に尋ねようとした時、背後から足音が聞こえる。


「二人ともそこを動くな」


 足音の主は少しずつ近づいて来る。

 20代後半、背が高く目つきの鋭い男。

 スーツを着ているが雰囲気からサラリーマンでは無い事がわかる。


「魔術による戦闘行為を無断で行った罪で貴様らを逮捕する」


 男は手錠を持ってこちらの様子を伺っている。どうやら俺を捕まえるつもりらしい。だが、変に反抗してややこしくなるのは避けた方がいいだろう。ここは素直に従おうそう思った矢先。


「何ようっさいわね!!!!!!ダーリンは悪くないんだから!!!!」


 パモンと名乗った彼女は大声で叫んだ。


「邪魔するんなら容赦しないんだけど!!!!!!!」


 パモンは更に大きな声で悪態をついた。


「ならば……実力行使するまでだ」


 男はより険しい顔でこちらを睨みつける。

 パモンも男を睨でいる。

 俺では二人を止める事が出来ないというのは瞬時に理解できた。それでも何とか説得しようと言葉を考えた。だが……


「そりゃあああああ!!!!」


 考えつく猶予も与えずにパモンは殴りかかりに行った。

 終わった。戦いは避けられなかった。そう思った。俺の人生最悪の日はもっと最悪な展開を迎えようとしていた。

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