第7話 沈む頬

 四日目の朝を迎えた。珠記は朝目覚めると、朝食のいい香りに誘われて居間へと向かった。台所にはエプロン姿の常生が立っている。


「おはようございます。珠記さん」


 彼女は笑顔で挨拶をした。珠記はそーっと彼女の背後へ回ると、その柔らかい頬を両手で優しく鷲掴みにした。


「キャッ!もう……珠記さん!朝からダメですよ」

「ちょっとだけ……う~ん。柔らかい」


 珠記は甘えるように抱きつく。すると、常生は少し照れたような表情を浮かべながらも受け入れる。


 コンコン!


「お邪魔しま……」


 突然、玄関の扉が開き、八面が入ってくる。彼女は硬直してしまっていた。


「朝からお熱いことで……」


 八面は目だけ笑わぬ笑顔を向けていた。


「あっ!八面さん!これは……」


 珠記もそれに気付いて慌てて常生の頬から手を離すと、二人して愛想笑いを浮かべるのだった。


「コホン……珠記さん。ちょっといいかしら?」


 珠記は八面に呼び出されていた。彼女は少し険しい表情を見せている。


「なんでしょうか?」

「いえ。その後、大丈夫だったか確認しに来たのだけど……さっきのはどういうつもり?」


 どうやら珠記が常生に抱き着いていたことが気になっていたようだ。八面は鋭い視線で珠記を見つめる。その瞳には怒りとも悲しみとも取れるような複雑な感情が浮かんでいた。


「いやいや!スキンシップですよ!スキンシップぅ!」


 珠記は両手を顔の前で振りながら言い訳をしようとするが、上手く言葉が出てこない。


「はぁ……まぁいいですけど」


 八面は呆れたように溜息をつく。珠記もとりあえず一安心する。しかし、再び真剣な表情でこちらを見つめてきたので、思わず背筋が伸びる。


「ちょっと嫉妬しちゃうな~」


 八面は意味深に言い残し去って行った。珠記は一瞬きょとんとしたものの、言葉の意味を理解して顔を赤らめるのだった。


 **********


「お話、何だったんですか」


 常生は不思議そうに問いかける。


「いやぁ……集会に遅れるなってね」


 珠記は適当に誤魔化すことにした。彼女は納得できない様子ではあったものの、それ以上追及してくることはなかったようだ。


「では、朝ごはんにしましょう」


 常生はそう言ってテーブルへ向かうと、箸を用意する。そして、そのまま二人で手を合わせた。


「そういえば、散華は?」


 珠記はふとそんなことを聞いてみた。今朝はまだ散華の姿を見ていなかったからだ。常生は一瞬箸の動きが止まるが、すぐにいつもの調子に戻り答える。


「さぁ?昨日帰ってから見てませんよ?」


 珠記は少し違和感を覚えたが、気にせず朝食を食べ進めた。


「珠記さん。常生は今日街まで買い物に行ってきます」


 朝食を食べ終えた後、常生はそう告げた。


「そう?じゃあわたしも……」

「いえ。常生一人で行ってきます」


 常生は有無を言わさぬ勢いで答えると、立ち上がり居間を後にした。


「では行ってきます」


 そう言って出て行ってしまったが、何か違和感を覚えた珠記であった。


 **********


 家で一人留守番することになった珠記は暇を持て余していた。


「はぁ~暇だなぁ~」


 椅子に座って白目になりながら呟いていると、コンコン! 突然、玄関の扉が叩かれた。どうやら誰か来たようだ。珠記は椅子から立ち上がり玄関の扉を開けるとそこには散華が立っていた。


「散華。どうしたの?」


 珠記がそう問いかけるも彼女からの反応はない。不審に思い顔を覗き込んでみると彼女は俯いた状態で黙って立ち尽くしていた。ただ肩は小刻みに震えており、呼吸が乱れているかのように見えたので、思わず声をかけようとすると散華はゆっくりと顔を上げた。


「珠記。話があるの。入ってもいいかしら?」


 散華は鬼気迫るような表情で語り掛けてきた。普段の彼女とは違う様子を見るに大事な話があるのだろうと察した。


「どうぞ」


 散華は家に入り、扉を閉める。そして珠記に向き合う形で立つと口を開いた。


「常生は?」

「え?買い物に行ったけど……」


 珠記は嫌な予感を感じ、警戒した。その様子を見て散華は一瞬悲しげな表情を浮かべたかと思うと、深呼吸をして再び話し出した。


「珠記は昨日のこと覚えてる?」


 珠記は昨日のことを思い出す。


「そりゃもちろん覚えてるよ?街で倒れて村長の家に運ばれたんでしょ?」


 彼女は自信ありげに答えた。


「違う!その前よ!」


 散華は語気を強めて言い放つ。珠記は首を傾げながら思い出そうとしたが、やはりその前の記憶はなかった。


「うーん……あれ?なんでわたし外にいたんだろ……」


 珠記は冷や汗を流し始める。彼女は完全に記憶が抜け落ちているのだ。


「あたしもね……昨日いつから家に帰ったのか思い出せないのよ……珠記の家で寝てたはずなのに……」


 珠記は驚きを隠せなかった。自分が知らない間に何をしていたのだろう。怖くなってきた彼女は無意識に肩を震わせていた。


「常生が……あたし達に何かしたんじゃ……」


 散華は不安そうな表情を浮かべる。


「か……考えすぎだよ。常生に限ってそんなことするはずないじゃん」


 珠記は慌てて否定した。しかし、それでも彼女の不安は完全には拭えなかったようで表情を曇らせたまま俯く。そんな彼女を見ていたたまれなくなった珠記は何も言うことができなかった。


 **********


 一方その頃、常生は街に買い物に来ていた。


「今日の晩ご飯は何にしましょう。珠記さんはお芋が好きでしたね」


 常生は手に取った食材を眺めながら独り言を呟いていた。そして、お花屋さんの前を通った際、彼女は不意に足を止めて一輪の花を見つめていた。


「綺麗です。珠記さんに買っていきましょう。お花好きでしたもんね……」


 常生はそう言って微笑むと、一瞬動きが止まる。


「お花が好きだなんていつ言ってたんでしょう……」


 彼女は再び歩き出した。しかしその表情はどことなく暗かった。


 買い物が終わり街を出た常生。すると、その道中で八面に出会った。


「あらぁ~常生ちゃんおかえりぃ。今朝はお邪魔してごめんなさいね」

「いえ。気にしてません。村長さんこそ、この前は珠記さんの面倒を見てくれてありがとうございました」

「あら、知ってたのね。いいのよ。珠記さんもこの村の家族なんだから。もちろん常生ちゃんもね」

「家族ですか……珠記さんは常生の事何か言ってましたか?」

「ん?そうねえ。常生ちゃんは新しい家族だから真っ直ぐ向き合おうと努力してるわよ」


 常生は頬を赤くして嬉しそうにしていた。


「常生は幸せものです。早く珠記さんに会いたいので失礼します」


 常生はペコリとお辞儀をしてその場を立ち去ろうとする。


「ちょっと待って」


 八面は常生を呼び止めると、彼女の腕を強く握った。


「な、なんですか……」


 常生は驚きの声を上げる。八面の表情は真剣なものだった。そして、ゆっくりと口を開く。


「珠記さんはその後、問題はない?」


 八面は鋭い視線で常生を見据える。


「質問の意味が分かりませんね」


 常生はそう答えると、手を振り払おうとした。だが、八面が掴んだ腕はなかなか解けない。それどころか更に強く握られていった。常生の腕には赤く指の跡が残るほどである。


「あらそう?理解してそうな反応だけれど……まあいいわ。またね」


 八面は手を離すと、そのまま去っていった。


「この村には危険な人が多いですね」


 常生は溜息混じりに呟くと、早足でその場を後にした。


 **********


 夕方、家に帰ると珠記は窓ガラスに顔をベッタリとつけていた。


「ただいま帰りました。何してるんですか……通行人に笑われてますよ……」

「おはえり。いやあ、きょくはんはえてたらこんはふがはに」

「何言ってるかわかりません。そんなことより見て下さい!お花の種を買ってきました!」


 常生は買ってきた種を見せる。珠記はそれを見ると目を輝かせた。


「わぁ!綺麗だね。何のお花?」

「オシロイバナです。珠記さんの事を思って買いました」


 常生は少し頬を赤らめながら答える。すると、珠記は嬉しそうに笑った。


「ありがとう!大切に育てなきゃね!さっそく庭に植えなきゃ!」


 珠記は玄関から飛び出すと、家の脇に駆けていった。その後を常生も追う。そこには小さな花壇があり、畑がある。


「わたしお花好きなんだよね……」

「はい。どうして常生は珠記さんがお花を好きな事を知っていたんでしょう」


 常生は不思議そうに首を傾げた。彼女は自分が何故そんな事を思ったのか分からなかったからだ。しかし、すぐに思考を切り替えると、珠記と共に新しい花の種を植え始めたのだった。


 **********


 夕食の時間。食卓には美味しそうな料理が並ぶ。


「そういえば散華さん。今日は来てないですね」


 常生はふと思い出したように呟いた。


「常生が買い物に行ってる間に見に行ったら、風邪引いたみたいで寝込んでたよ。寝苦しそうだった」


 珠記は料理を口に運びながら答える。


「そうなんですか?言ってくれればご飯持っていったのに」


 常生は心配そうな表情を浮かべた。


「うつしちゃ悪いから遠慮したんじゃないかな?」


 珠記は困ったような笑顔を見せる。


「ねぇ常生。明日海に行かない?」


 珠記は唐突に切り出した。常生は少し驚いたようだが、すぐに笑顔になる。


「いいですね!海は常生の故郷の近くなので案内しますよ」


 常生はそう言って胸を張る。その様子を見た珠記は嬉しそうに微笑んだ。


 ~その夜~


「珠記さん……ダメですってば……」

「ちょっとだけ……ちょっとだけ……」


 珠記は常生の頬を揉みながら、離そうとしなかった。


「もう……珠記さんはえっちです」


 常生は少し頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうであった。


「はぁ……ずっとこうしてたい……すぅ……すぅ……」


 珠記はそう言いながら目を瞑ると、そのまま眠ってしまった。


「まったく。そんなにいいんでしょうか……」


 常生は自分の頬に手を当てながらボソッと呟いた。そして、しばらく珠記の寝顔を眺めていたが、自身も眠くなったのかそのまま布団に入り眠りについたのだった。

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