第219話 甘い紅茶と苦い話
「ようやく着いた……綺麗な街だ」
ツンと鼻を抜ける潮風。
漁師と商人、そしてダンジョン帰りの冒険者が騒がしく、どこも楽しそうな笑い声が上がっている。
海に寄り添うように建てられた石造りの家が立ち並ぶのは、海の街シトリンだ。
街の東部では塩作りが盛んであり、エストたちが入った西部は漁とダンジョンで賑わっている。
「うぅ、髪がバシバシするぅ!」
「潮風はそういうもんだ。初めてか?」
「そうよ! 悪い!?」
「エスト。お嬢がご乱心だ」
「宿に着いたら手入れするから、それまで我慢してね」
街の人々に負けず劣らずの騒がしい3人は、久しぶりとなる2番目に高い宿探しを始めた。
意外にも早くその宿は見つかり、大海を望む広いベランダと各部屋に風呂があることが売りらしい。
エストが今までに泊まった宿で最も高い料金なだけあって、サービスも最高品質である。
「それで、どうするんだ?」
「もう少ししたらファルムが来る。まずはそっちを何とかしてから、ケルザームを食べる」
システィリアの髪にブラシを通し、本来は寝る前に付けていたボタニグラオイルを使い、潮風でもベタつかないよう手入れするエスト。
寝室の窓から見える海に尻尾を振るシスティリア。突然耳をピクりと立たせると、コンコンとノックの音が聞こえた。
「ワタクシです、ファルムでございます」
「ほらね?」
手入れが終わり、寝室を出たエストだったが、ドアノブに手をかけた瞬間に服の裾を掴まれた。
「3人居るわ。剣士と魔術師。剣士の方はそこそこの腕のようね」
「まぁまぁ、見てて」
システィリアの忠告を聞いたエストはニヤリと悪い笑みを浮かべると、体内を巡る龍の魔力を刹那に放った。
重たい何かが落ちた音が聞こえると、『は〜い』と言ってドアを開けた。
すると、困惑するファルムの両隣で気絶する大柄の剣士と、杖を支えに何とか意識を保つ魔術師の女が居た。
「エ、エスト様、申し訳ありません! 急に護衛が倒れたものですから……!」
「逃……げろ…………ご主人。そいつ──」
緑色の髪をした魔術師の女は命の危機を感じたのか、すんでのところで立ち上がり、エストに杖を向けた。
無表情なエストとその後ろに居るシスティリア。
彼の肩の上から覗く黄金の瞳は、女を鋭く睨みつけていた。
一歩下がるファルムと、風の魔法陣を展開する女。
一触即発の状態だが、エストは手を差し伸べた。
「良い胆力だ。君ぐらい精神が強い魔術師なら、ファルムが襲われても返り討ちにできるね」
「……お前、何者だ?」
「僕はエスト。旅人だよ」
そう言って魔法陣に手を突っ込み、陣を破壊しながら女の杖を握ったエスト。
「ちょっとエスト!? アンタ何して──」
「君、今撃つつもりだったでしょ。護衛ならファルムを最優先に動きなよ。君から攻撃しようなんて……僕と敵対するってことかな?」
エストが動き出す直前、魔法陣は輝いた。
殺傷能力の低い
女を蹴り飛ばし、奪った杖を構えたエストは、同じように
その瞬間、膨大かつ強力な魔力に杖が耐えられず、粉々に崩壊してしまった。
「ひぃっ!」
「リーゼ、なんてことをするんだ!」
「ち、違うんだご主人! 私は決して……」
「それで? ファルム、君は敵?」
「そのようなつもりは全くございません! ワタクシはこれから、エスト様に美味しい紅茶を召し上がってもらおうと参上した次第です!」
両手を振って否定し、深く頭を下げた。
そこに嘘が無いことは分かっていても、どうして魔術を発動させたのか理解できないエスト。
悲鳴や物音を聞いてブロフも顔を出すと、これ以上の面倒事は避けろと裾を引っ張られた。
「そっか。じゃあ紅茶をもらおうかな」
「少し歩きます……リーゼ、前を歩け」
怯えるリーゼが歩き出すと、気絶した男を放置していく4人。そっとファルムが胸に紙を差し込んでいたが、それが解雇通知であることはまだ誰も知らない。
宿を出て潮風の抜ける街を歩いていると、チラチラとエストたちに視線が向けられた。
無理もない。
何せ最も有名な商人が、人間と獣人、そしてドワーフまで連れているのだ。目立たないはずがなかった。
しかし、その3人の正体を知るものはまだ少ない。
何人かは目を輝かせていたが、エストたちには届かなかった。
「こちらです。ワタクシが胸を張ってお勧めする、最高の紅茶を楽しめる喫茶店でございます」
そうして訪れたのは、赤茶色のレンガが特徴的な小さい喫茶店だった。
貸切の看板が付けられたドアを開けた瞬間、店を飛び出すコーヒーの香り。
システィリアがすんすんと鼻を鳴らすと、興味津々といった様子で入って行った。
「いいのか?」
「尻尾振ってて可愛いね」
「……ダメだな」
貸切にしていたからか、どっしりと構えていたマスターだったが、カウンターに置かれた瓶詰めのコーヒー豆を見つめるシスティリアに笑っていた。
「では、どうぞこちらに」
ファルムが席に案内すると、手を2回叩く。
すると、会話を中断して紅茶を淹れるマスターを見て、システィリアが戻ってきた。
4人がけのテーブル席で、ブロフがファルムの隣に座ると、すぐに紅茶の芳醇な香りが店を包んだ。
「エスト、コーヒーは飲んだことあるの?」
「うん。昔飲ませてもらったけど、苦くて無理だった」
「そうなのね。アタシは無いわ」
「はっ、コーヒーは大人の嗜みだぞ」
「……遠回しにバカにされたわね。殴る?」
「システィ、大人は華麗に受け流すんだよ」
「……くっ!」
仲間だと思っていたエストがブロフ側に寝返ると、その様子を微笑ましく見ていたファルム。
しかし、笑みの裏では師匠という言葉を脳に焼き付けようと、一欠片の情報も逃さまいと集中していた。
そうしてマスター自らが紅茶とコーヒーを2杯ずつ持って来ると、そっと口を付けるエスト。
「ん……美味しい。今までで一番かも」
システィリアも紅茶を一口飲むと、鼻から抜ける芳醇な香りの中に、舌を優しく包み込むような僅かな甘みを感じ取った。
「この甘さ、砂糖や蜂蜜の甘さじゃないな」
「よくお気づきで。こちらは当店独自の茶葉に、花の蜜を垂らしています。採れる量は少ないですが、一滴で優しい甘さと華やかな香りを足すのです」
マスターが小瓶に入った透明な蜜を見せると、小さな声で『1瓶200万リカですが』と呟いた。
カップを持つシスティリアが一瞬だけ固まったが、それを卸しているのがファルム商会であると言われ、美味しそうに味わった。
紅茶で分かる、高い品質を扱う商会の強さ。
ファルムの狙いはここにあったかと思えば、自慢するでもなく、落ち着いた声色で話し始めた。
「ワタクシは、良い物を良い店に卸したいのです。そして、良い店に良い人を招きたい。ファルム商会は物の良さこそ目立っておりますが、本質は皆様に良い物を味わって頂くことにあります」
「良い物、ねぇ」
「飲食物だけでなく、武器や防具、魔道具も含まれます。良い物が人を良くする場合もあります。ワタクシは、買ってくださる方々に笑顔になって頂きたいのです」
心からの言葉に、3人の視線が集中する。
気づけばカップはソーサーの上に置いており、話を聞く体勢になっていた。
「そこで、です。エスト様、こちらの喫茶店を買い取ってはみませんか?」
「え、嫌だけど。どうせ賢者の名前を使いたいだけでしょ? 透けて見えるね」
「っ……いえ! 是非この良い店に、良い人であるエスト様がと思い──」
図星だったのか、焦りが見えるファルム。
初めての賢者相手の商談に空回りしたせいで、数年ぶりとなる失敗の2文字が浮かんでくる。
「この店は買わない。というより買えない。理由、わかる?」
そんなファルムに問いかけると、小さく答えた。
「……お金、でしょうか」
「違うよ。もうこの店が充分良い店だからだ。僕の名前なんて使わずとも、街の人たちに愛されてる。さっきから店の前で人が行ったり来たりしてるの、わかってる?」
立ち上がったエストがドアを開けると、貸切の看板を裏返した。
すると、続々と街の人が入ってきては、あっという間に満席になってしまった。
「ここに僕の名前や賢者なんて言葉が掲げられたら、元々この店を愛していた人たちが可哀想だよ」
「…………」
「見なよ、客はみんな笑顔だ。ここで僕が買い取ることは、その笑顔を消してしまうかもしれない。僕の主張はわかってくれるかな?」
「…………はい」
完全にエストの言う通りであった。
買ってくれた人を笑顔にしたいと言うファルムは、賢者を取り込もうとするあまり、客の笑顔を見失っていた。
唐突な貸切に街の人々も困惑し、その顔を曇らせてしまったのだ。
「ファルム……君からは食材を買いたい」
「食材、ですか?」
「うん。いつになるかは未定だけど、僕とシスティは小さな飲食店を開きたくてね。その時、君の商会から良い食材を買いたい」
昔に夢見た、2人で経営する小さなお店。
旅が終わったらシスティリアから言い出す予定だったのだが、エストはそれを覚えており、この機会に活かそうとした。
ファルム商会から食材を買いたい。
その言葉で、彼のモヤがかかった瞳が晴れる。
買ってもらおうとするのでなく、買いたいと言われる存在になる。それこそが商人のあるべき姿だと感じたのだ。
凛々しい表情でファルムは頷く。
「このファルム、愚かな商人でありました。しかし、今はもう違う。エスト様、貴方の注文承りました。ファルム商会は最高級の食材を、手の届くお値段で提供することを約束しましょう」
「……いいの? 破産しない?」
「元々、金を持て余しているのです。これで少しでも多くの国に還元出来るのなら、喜んでやります」
力強く握手を交わした2人は、お互いに連絡が取れる場所を紹介し合った。
それから、もう1杯美味しい紅茶とコーヒーを堪能すると、笑顔で店を出た。
エストが改めて店を開く時はよろしくと言えば、ファルムは胸を張って頷き、任せて欲しいと言う。
「面白い人だったわね」
「終始エストに翻弄されていたな」
「人聞きが悪い。イタズラしただけ」
「変わらん」
茜色の空の下、宿に戻る最中のこと。
武器屋に寄ってから帰るというブロフと別れ、2人は手を繋いで歩いていた。
「……覚えててくれた」
「僕の夢でもあるからね」
「ふふっ……嬉しい」
そっと肩を寄せるシスティリア。
湿気を含んだ潮風がどこか心地よく、2人の間を抜けていく。
指を絡めて手を繋ぐ後ろで、煌めく海に水飛沫が上がる。
クジラの尻尾のような二又の尾ひれが、まるで引きずり込まれるように沈んでいく。
遠く、深く。暗い海の底で光る赤い双眸。
大きなクジラの肉を食らう深海の魔物は、その油分を好んで狩っていた。
「部屋のお風呂、楽しみだな」
「一緒に入ったら溢れないかしら?」
「その時はその時だよ」
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