第97話 高みへ、一歩ずつ
「先生、システィ宛の手紙は渡した?」
「まだだ。ローブと一緒の方がいいだろ?」
「……確かに。じゃあその時にお願い」
魔力操作と空間把握に慣れたエストは、次のステップである『物体の移動』に挑んでいた。
これは机の上にある果物を手の上に出したり、物体に触れることなく亜空間への出し入れをするという、地味ながら大切な練習である。
人の転移の前に、まず物の転移を覚える。
物の転移は肉体の転移と違うプロセスだが、イメージを固めるためにできることは全てやるのだ。
そうでもしないと、体がバラバラに転移してしまうかもしれない。最も危険度が高い時空魔術は、失敗のリスクが大きすぎる。
「う〜ん、このリンゴ、意思持ってない? 今の絶対お皿の上だったよ。自分で動いて落ちたよね」
「ンなわけねぇだろ! お前の亜空間がズレてるだけだ」
「亜空間のズレ……そもそも空間ってなに?」
「あのなぁ……いや、お前には教えてないな。ん? 待て、今までどうやって時空魔術使ってんだ?」
「なんとなく」
「……そうか。すまん」
魔法を知ったエストは、感覚で時空魔術を使っていた。無論、術式から読み取れる範囲では論理的に理解しているのだが、それ以外はなんとなくで成功させていた。
適性のおかげか説明するまでもなく使用していたせいで、教え忘れていたことにハッとした。
「空間は時間の
「ほうほう」
「属性としては、全ての属性の頂点……違うな。原点だ。どの属性よりも複雑で難解だが、その分恩恵は大きい。戦闘には向かないが」
「死体回収には使えるよね。見てたよ」
魔族との戦いでジオがゴブリンの死体を消したことはエストも見ていた。綺麗に死体だけを亜空間に仕舞う技術は、今のエストからすれば神業と呼べる技量だった。
「ちなみに言っておくが、転移を応用して敵の体を真っ二つ……なんてことは出来ないからな」
「そうなんだ。自分の体はできるのに?」
「転移に適した魔力だからな。他の人間は違う。だから、他人を転移させる時は周囲の空間ごと持っていく。場所さえ間違えなければ事故は起きねぇ」
「意外と優しいね。使ってみたい」
まずは亜空間から使いこなせるように。
そうして新たなイメージ材料を貰ったエストは、引き続き物体の転移を練習する。
今までは空間という箱の中で魔術を使っていただけに、別の空間に物を入れたり、認識することさえ集中力が求められる。
学園に入る前から鍛錬を欠かさなかったおかげで、ジオが求めていたペースを軽々と超えていった。
毎日毎日、朝起きたら寒い外で肉体を鍛え、6つの属性魔術の鍛錬をしながら山で遊び、夕方前に帰ってくると時空魔術への理解を深める。
氷龍に干渉しない程度の高度まで山を登れば、自然と肺が鍛えられた。
動物を狩り、エビを煎餅にして、シュンと戯れながらも魔術の腕を磨く。
雪の日も、吹雪の日も。
大切な像が半分くらい雪に埋もれた時は、空間を切り分けるようにしてから雪だけを亜空間に入れ、雪かきを行う。
一歩ずつ魔術に対する理解が深まっていく姿は、ジオから見ても目覚しい成長ぶりである。
「エスト、例のローブが完成したから、手紙と一緒に届けておいたぞ」
空間の理解を経てから2週間が経ち、遂にエストの書いた手紙と共に、白雪蚕のローブが贈られた。
辞書とにらめっこしながら獣人語の魔道書を読むエストは、顔を上げることなく返事した。
「うん、ありがとう」
「エルミリアと会ったのは久しぶりだった。ずっとお前の心配しか言わねぇから、途中で帰ってきた」
「あはは、師匠らしいや。お姉ちゃんやシスティは何か言ってた?」
「会ってねぇぞ。帝都の近くにワイバーンが降りたから、討伐に行ったとかで」
文字をなぞる手を止め、天井を見上げる。
「ワイバーン……大丈夫かな、システィ」
あの日、尻もちをついて隠れることしかできなかったシスティリアの姿はよく覚えている。
突然飛来してきたワイバーンは大きく、恐ろしく。マグマの様に煮え滾る炎は、土を溶かす温度で吐き出された。
しかし、その肉の旨みや柔らかさはオークとは比にならないものであり、お腹の調子が良ければ2日で一頭は食べられるんじゃないかと思うほど、格別だった。
「お前、途中から肉のこと考えただろ」
「バレてた」
「すんげぇ幸せそうな顔だったぞ。まぁ、ワイバーン程度なら大丈夫だ。一ツ星なら素手で殺した実績もある」
「……凄いよねぇ。敵う気がしない」
「俺の知る限り、アイツより地力が強い奴は居ないな。魔術師としては俺が1番だが、戦士としてはアイツが1番だ」
懐かしむように頷くジオに、エストは鋭い目付きで言った。
「先生、1番は塗り替えられるよ」
「ほ〜ぉ? お前が俺を超えるとでも?」
「うん。だって僕、時空魔術以外は先生より上手だし。その時空魔術も僕は勉強中。つまり、いずれ僕が勝つ」
「ンだテメェ調子に乗りやがって。お前が俺に
ジオは魔術以外にも、大人の遊びとしてカードを使ったゲームをエストに教えた。ポーカーやババ抜きなど様々な遊びを試したが、エストは尽く勝利を収めた。
感情を表に出さない自制心。
ゲームに対する理解度。
そして何よりも、運が強かった。
数回遊んだ神経衰弱だが、50枚25組のカードがある中で、エストは初手で22枚11組を取ったのだ。
流石のジオも、イカサマを疑う運には負けを認めた。
「ポーカーは忘れたんだ」
「……あ、あんなゲーム知らねぇ。俺、初めて遊びで怖くなったんだ。お前がバカみたいにフォーカードを決めるせいで、試合にもならなかったんだぞっ!」
「ふっふっふ、僕の日頃の行いだね。毎日システィの尻尾を手入れしてたおかげ」
「ッ! そうか、数の少ない白狼族、それもデリケートな尻尾に触れる人間になれば……!」
「そんなワケないでしょ」
「クソがぁぁぁぁぁ!!!!」
ジオの悲痛な叫びは、家の外まで響いた。
ただ運が良かっただけ。そう片付けたエストは、魔道書に目を落とす。
基本的な単語は読むのに慣れたが、過去形や進行形になると辞書を引き直すため、まだまだ時間が必要である。
魔法文字は簡単に覚えられたのに。
なんて呟くことはなく、黙々と向き合う。
その言葉は、今まで関わってきた獣人へのリスペクトに欠ける。システィリア以外にも、ミィやミツキ、仕立て屋のレティ。
今読んでいる魔道書の著者にも敬意を払うため、真っ直ぐに立ち向かう他ない。
これはジオと、母親である魔女にも言われた言葉である。
「人には敬意を、物には感謝を」
山に囲われた氷獄は、早くに陽が暮れる。
溶けることのない雪と氷に覆われた土地で、少しずつ成長していくエスト。
ジオという一級の師と暮らす生活は、今までにない刺激と苦労、何物にも代えがたい好奇心に溢れていた。
エストが氷獄に来てから1年。
亜空間の扱いがジオに並んだエストは、遂に目標のひとつである、転移の魔術に手を出した。
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