第93話 最も価値のある魔術
「ただいま……」
「ああ。ん? お前その服どうした?」
「服? あ〜、ちょっとね」
山から帰ってきたエストだったが、左の袖が綺麗に肩の辺りで食い破られており、一瞬スルーしかけたジオはその姿を見るなり半笑いで聞いた。
「お前……ククッ、笑わせにきてるだろ」
「えっとね、実は──」
「氷龍と戦ったんだろ?」
「知ってたんだ」
「あの魔力の放出は異常だぞ。シュンが興奮して大変だったんだからな」
絨毯がズレていたり、家具が少し動いた跡が目立つ。
ところどころ魔道書が落ちているのを見るに、相当激しく暴れ回ったらしく、ジオの顔から疲れが浮いていた。
エストの方も大量の出血や精神的な疲労が大きく、シュンの横で寝転がった。
「で、どうだったんだ?」
「氷龍が魔術を撃ってみろって目で見るから、撃った。そしたら下顎を粉砕しちゃった」
「は? お前、あの鱗を貫いたのか?」
「うん。おかげで左腕を食べられたんだ」
そうして芸人のような格好になったと言うと、ジオは片手で顔を覆った。
賢者でもその鱗を貫けるか怪しいほど、氷龍の鱗は硬い。何者にも傷をつけられないがゆえに
そんな氷龍の顎をぶち抜いたとなれば、エストの使った魔術が、この世で最も強いと言われる氷龍を倒せるかもしれないのだ。
ジオがこの地に拠点を置く理由。
それは他でもない、氷龍という絶対に壊せない壁で囲われているからである。
もし、エストが外に出たいと言ったとき。
氷龍を倒して出られると、拠点の安全性にも、生態系的にも大きな影響を及ぼすだろう。
「……仕方ないか。エスト、そろそろ本腰を入れてお前に魔術を教える。今までみてぇな歴史のお勉強じゃないぞ。失敗すれば死ぬかもしれねぇ魔術だ」
「ほんとに? でも今日はいいや」
「……コイツ自由すぎるだろ」
「先生も氷龍と戦えば分かるよ。本当に怖いんだよ? 氷魔術じゃないと、魔法陣が凍って使えないんだから」
「ンなもん知っとるわ!」
しかし、氷龍の恐ろしさを知るジオは明日に回すと言った。実際、あのドラゴンは龍という種において抜きん出て強く、温厚なのである。
過去にジオも氷龍に魔術を撃ったことがあるが、その時は鱗1枚を割った程度で、腕を食われることなく追い返された。
魔族に対抗する術としてエストを育てると決めたが、もしかするとそれ以上の存在になるかもしれない。
自分という歴史の転換点を経て、次はエストという転換点が現れると確信したジオは、賢者が賢者と呼ばれる理由のひとつ。
空間魔術……否、時空魔術の理論を、適当な羊皮紙に記し始めた。
世界で最も価値があり、誰も使えない術式。
しかし、目の前には己を超えるであろう存在が犬と戯れている。
この少年なら、使えるかもしれない。
自称は氷の適性だが、ジオは違うと踏んでいる。
透明な魔力。
全属性を統べる器量。
自力で魔法の域に至る天賦の才。
大昔のジオ……賢者リューゼニスとそっくりだった。
無論、少々の違いはある。
リューゼニスの魔力は白であり、全属性魔術の習得には50年の歳月を要した。その上、自力で魔法に至る才は無かったのだ。
そういえばと、エストに言葉を投げかける。
「エスト。古代の魔法はどうやって使っていたか、分かるか?」
「意志云々の話じゃなくて?」
「ああ。その意志……正確にはイメージだって、お前は魔術を学ぶ上で知っていたから使えただろ? じゃあ最初の人間はどうやってイメージできた?」
「……教えてもらった?」
「誰に?」
体を起こしたエストは、じっと床を見つめる。
自身の根源にある魔術発動に使うイメージ。その更に根源である、これまで魔術や魔法を使ってきた者の光景。
例えば、火。
火は燃えている。
だが、“燃えている”ということを誰が見つけた?
それはもちろん人間だろう。
しかし魔法に落とし込む上で、“燃焼”という反応を理解するには、当時の知識では絶対に成しえない。
深く、深く思考の海を潜っていく。
今までが暗闇の世界を歩いているならば、今は暗い海の中を泳いでいる。目の前にある世界を作った、魔術の根本。そこにある『誰か』が、全ての始まりである。
魔法、呪術、魔術。
共通する概念は、想像。
ではその想像を助けるものとは?
「──精霊?」
魔術のキーワード、アルアメフ。
それぞれ火・水・風・土の精霊の頭文字を取った、想像を助ける言葉。
「正解だ。原初の魔法は精霊の導きがあったんだ。各適性に合わせた精霊が、人間に魔法の使い方を教えていた」
「いいなぁ。僕も精霊を見てみたい」
「……やめておけ。まぁ、そのおかげで宗教ができて、本能的な戦争は減ったな。知ってるか? 自然崇拝の心は」
「うん、前に読んだ。でも今はユエル神国のラカラの教えが一般的だよね」
「それだけ治癒が人間を支えてるってことだ」
「支えてる……か」
左腕をさすりながら、エストは考える。
光魔術の知識が無ければ、氷龍に食われた腕は戻らず、そのまま失血死していてもおかしくなかった。
それよりも前に、システィリアとの旅やアリアとの稽古でさえ、光魔術には何度も助けられていた。
そう考えると、光の精霊ラカラを崇拝する人で増えるのは、当然のことである。
「よし、エスト。お前は毎日の魔力操作に加えてこの魔術を使えるようになれ」
そう言って渡された羊皮紙には、エストにとっては見たことがあり、何一つ理解できない魔法陣が書いてあった。
圧倒的なまでの既視感。
即座に手の中にある魔法陣が何を示すのかを理解すると、宝石のように輝いた目でジオを見つめる。
「なる! でも……使えるのかな」
「信じろ。お前は時空魔術を使える。己の適性を時空だと信じ込め」
「……わかった。頑張る」
今まで以上に好奇心と知識欲に溢れたエストは、早速魔法陣の解読から始めた。
システィリアとの旅の道中、魔法陣解読の練習をしていてよかったと心の底から思う。もし学園生のままで終えていたなら、こうして新たな属性に触れることはなかったかもしれないのだ。
ここに彼女が居たなら、きっと『キモい』の一言でも貰えただろう。
いつも明るく隣に居た感覚が、今は恋しい。
まずは構成要素の数から。
次は構成要素の名前を。
そして中身である本質を理解すれば、この魔法陣を手にすることができる。
ただ──
「サッパリ分からない。何このウネウネした魔法文字。しかも楕円形の輪もあるし。獣人語覚える方が早く終わりそう」
文句のオンパレードである。
初めて見る魔法陣とはいえ、その異常性や他の魔術との圧倒的な差に、脳が理解を拒もうとするのだ。
6つの属性……いや、氷を含めた7つの属性の型に当てはまらないソレは、初めて魔術を覚えるよりも難しいものだった。
ああでもないこうでもないと言っているうちに、半日。そして1日、1週間と過ぎていく。
たったひとつの魔法陣にここまで苦しめられるとは思っておらず、気づけば新しい服の仕立て屋が来る日になっていた。
今までに聞くことがなかった、コンコンとドアをノックする音でエストは顔を上げる。
ギィィとドアが開くと、ジオと共に入って来たのは、モコモコの防寒具に身を包み、金色の髪を大きく巻いた狐獣人の女性だった。
「あら〜! 本当に良い男じゃな〜い!」
「エスト、コイツが例の仕立て屋だ。今日は採寸と繭の回収に連れてきた」
エストが反応するよりも早く。
その女性はエストの肩をガシッと掴み、身ぐるみを剥ぐ。
「前にも言ったが、面食いだ。気をつけろ」
「……凍らせよ」
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