第25話 殺してしまえ
「フンフフゥーン、フフフフフゥーン」
白で潔癖に塗り潰した真四角の空間に、調子外れな鼻歌が響いていた。藍羽も小さい頃口ずさんでいた歌だった。音程がめちゃくちゃなのは同じなのに、なぜこの男が歌うとこんなにも不快なのか。
「紫揮ちゃん、その嫌そうな顔やめなさい」
「はい、唐松様」
ピシッと筋肉が引っ張られて強制的に機嫌が良さげな顔になる。反射的に筋肉が動くのはどこか電流を流される感覚と似ている。
唐松はまた不快な歌を歌い出した。素晴らしい笑顔のまま聞く。
三日前、惨状のあった空港から窓をピッチリと塞いだ車に乗せられ、ここに連れてこられた。狭苦しい密室で不愉快な男と一日中過ごすのはそこそこ苦痛だが、今のところ何かをさせられる気配もなく平穏な日々が続いている。
ここがどこなのかも分からない、何も手がかりがない状況下、自分にできるのはこの男から情報を聞き出すことだけだ。
躊躇う臆病な心を押さえつけて、なるべく自然に息を吸う。
ずっと気になっていることがあった。
「なあ、お前は心の支配を望まないのか?」
「ん? なになに、してほしいのォ? 」
唐松の鼻歌が止まった。
「違う。藍羽にしたみたいにお前は心までも縛りたがる人間なんだと思ってたから、少し意外だっただけだ」
実際、ろくでもない人間というのは大抵そんな思考回路をしている。
「あァ、僕は何かで縛るような中途半端な支配はしたくないんだァ。君に藍羽を攫われた一件で気づいた。こんな脆い首輪をつけていてはダメだと。ペットと同じだァ。飼うなら最後まで責任を持って管理下に置かなきゃ」
「そうか」
「自分から聞いてきた割に興味がなさそうだね。つまり僕は自発的に支配されたがる奴隷がほしいんだよ。そんで君は奴隷候補」
「何にも縛られていない人間なんていない。それなのに縛らない奴隷とは信じがたいな」
「それはさァ、やってみないと分かんないんだよォ」
唐松の口元が不気味に歪んだ。
△△△△△△△△△△△△△
「はい、唐松様」
しっとりと低い声が耳障りな言葉を紡いだ。
紫揮と元主人の後ろ姿が小さくなっていくのを、私は呆けて見ているしかできなかった。
霞がかかったようにぼんやりした頭に、何かが囁いた。
全員殺してしまえ、と。
良い案だと思った。今唐松を殺したら紫揮は解放される。他のやつがまた邪魔しようとしたら、そいつも殺せばいい。
そうすればいずれ私たちに逆らう者はいなくなる。私にはそれを実行できる力がある。どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。
「唐松秀俊は死……」
「藍羽ちゃん! 」
「……! 瑠璃……」
振り向くと廊下の曲がり角のところで、瑠璃が荒く息を吐きながら立っていた。彼女の姿を見た途端、血の色でぬりつぶされていた思考が急に冴え冴えとした。
「ごめん。待ってろって言われてたけど、さっき紫揮が黒い服の人と歩いていくのを見かけたから、藍羽ちゃんが心配で........」
そこまで言った後、瑠璃の瞳が滅茶苦茶な姿の死体を捉えた。でも取り乱すことはなくそっと目を伏せただけだった。
以前も見たモノ、だからかな。そう思った途端、私の中で何かが壊れた感じがした。
言葉にならない思いが涙に置き変わって頬を這う。そもそも紫揮がいなきゃまともに喋ることなんてできないから、言葉なんて私にとって意味がないんだけど。
「藍羽ちゃん·····」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
瑠璃が何を考えているのか、私には全然わからない。瑠璃が私の方へ足早に近づいてくる。
「藍羽ちゃん、聞いて」
澄んだ声が耳のすぐ横で囁いた。涙で歪んだ世界に、青く光る粒が現れる。
「手、出して」
ナイフでも突き刺されるのかな。身構えた手の平に冷たい感触の石が落とされた。目を瞬いてしょっぱい液体を追い出す。瑠璃は静かに笑っていた。
「それに触れてるとね、言霊を無効化できるの。藍羽ちゃん、きっと苦しいんだよね。言いたいことも言えなくて、すごく辛いんだよね」
瑠璃の手が私の指を押して、そっと石を握り込ませた。すべすべした感触が心地良い。
「瑠璃はなんで私にそこまでするんですか?知ってるでしょう? 私は瑠璃の父親を殺しました。もっと、きつく当たって、責めるのが筋というものです」
瑠璃はアハハと笑う。笑いの種類に違いはあれど、彼女はきっとどんなときでも笑う人なのだろうと思った。
「私はね、もう恨むとか責めるとかよく分かんないの。自分がどんな気持ちでいるのか分かんない」
まるで遠くを見るような瞳を私に向ける。
「だからさ、藍羽ちゃんときちんと話したいんだ。分かるために」
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