1-15 突きつけた条件
「浮気はしないとお約束ください」
アイリーンの唐突な要求に、シグルスは心底驚いたように、はたはた、と、目を
どうやら意表を突いてやれたことに、アイリーンはちいさく満足する。
そのままひたりとシグルスを見据え続けていると、やがて我を取り戻したらしい相手は、いかにもおかしそうに、黒曜石の
「なるほど……おまえ以外、側妃を持つな、と?」
「はい。でなければ、私、結婚誓約書にサインはしないわ」
つん、と、そっぽを向いて、精一杯強がって言った。
シグルスは顎に手を当てて、ふむ、と、しばらく思案するふうだった。中空を見た後で、ふう、と、息をつく。
「いいだろう。その条件、のもう」
言って、机の上から一枚の書状を手にすると、アイリーンのほうへと近づいてくる。相手の意外な答えに、今度息を呑むのはアイリーンのほうだった。
しかし、呆けてはいられない。すぐに気を取り直して、相手を睨みつけた。
「っ、側妃に限ったことではありません……! 女遊びも控えていただくわ。私以外の女を、持たないで」
アイリーンは言い足した。これでどうだ、と、思っていた。
シグルスは二十五歳の、健康・健全な青年だ。それなのに、今後一切の女性を許さないだなんて、こんな条件をそうそう飲むわけがなかった。
アイリーンのねらいはそこにある。そんな
結局は皇妃になることを呑まざるをえないのだとしても、これくらいの抵抗は、しておきたい。それはアイリーンの中の意地みたいなものだった。
「それは……どこまでなら、ゆるす? つまり、ハグとかキスとかだが」
シグルスがすこしだけ真面目な顔になって、アイリーンに問うてきた。
「肉体関係などもってのほかです」
アイリーンはまた、つん、と、顔を背けて言った。
「はは、十二の小娘の口から肉体関係とはな。意味わかって言ってるか、お嬢ちゃん?」
「子供扱いしないでってば!」
「おお、こわ」
「陛下にもお仕事上のお付き合いというものがおありでしょうから、女性を
アイリーンは、目の前に立ったシグルスに向かって、つらつらと述べ立てる。シグルスはしばし虚空を見上げるようにして思案していたので、その端正な横顔をじっと見据えながら、相手の答えを待っていた。
呑む、わけがない。
呑めるかそんなもの、と、言えばいい。
(そうしたら、あなたの覚悟は所詮その程度ですかと
「――わかった」
けれども、アイリーンの予想は外れ、しばらくしてからシグルスはあっさりとそう言った。
「え……?」
今度はアイリーンのほうが、目をぱちぱちさせる番だった。
「なんだよ、おまえが要求したんだろうが。約束するよ。おまえと離婚する、つまりは、おまえを皇妃兼人質の任務から解くその日まで、俺の女は、おまえだけだ。――これでいいか、おませのアイリーン?」
シグルスは苦笑するように言った。
アイリーンは面食らう。
「い、いいんですか?」
「べつにいい。どうせもともと側妃を持つ気はあまりなかったしな」
「ど、どうして?」
「女同士で争われても、面倒だ。それにかかずらわってる時間が
「で、でも、遊びもだめなんですよ?」
「だから、おまえが出した条件だろうが」
シグルスは顔を
「まあ、そっちも、国が落ち着くまではやることも山積み、忙しすぎてそんな
アイリーンはぽかんとした。
(この人の判断は、すべて、国にとってどうかということに基づいている……)
誰が、そこらじゅうを遊び歩いている、粗野なうつけ者だ。
そうではなくて、彼は、シグルス・ウェリス=ナグワーンという人は、たぶんそう見えて、あるいは、そう見せているだけのことだったのだ。
どこぞをふらふらとするとしたら、それもまた視察か何か、目的があってのことなのに違いない――……ジークフリートを名乗り、アイリーン付きの護衛騎士のふりをしていたように。
このひとは、その実、隙のない、怜悧な為政者なのではないのか。
アイリーンが言葉を失っていると、シグルスはまた、に、と、人を喰ったように笑った。
「で。――これでおまえは俺の妻になってくれるってことでいいんだな?」
「あ…………はい。そうですね」
アイリーンは思わずうなずいてしまっていた。
「よし、覚悟ができたら、さっさとここにサインを寄越せ」
シグルスは満足そうに笑って言いながら、アイリーンの前に結婚誓約書を突き出した。
アイリーンはペンを取る。
思えば最初から、シグルスはただ命じれば良かったのだ。彼は皇帝で、アイリーンはいち辺境伯家の令嬢に過ぎないのだから。
そうであるにも関わらず、相手はアイリーンの納得を待ってくれた――……人質だなどと言いながらも、最大限、こちらの意思を尊重してくれようとしていたのだ。
貴族令嬢であれば、意に染まぬ結婚など普通のことだ。個ではなく、道具として扱われるのが常であって、嫁ぐ本人の意思など
いつかはアイリーンも、そうやって、領地のためにどこかの誰かに縁付くのだと思っていた。
そして、いま目の前に突き付けられた結婚も、政略といえば、政略だ。
それでも、シグルスは、アイリーンの納得を待って、アイリーン自身に誓約書へのサインをさせてくれるのだ。だったらこれは、アイリーンが、自らの意思で選び取る結婚といえるのかもしれない。
ペンを持つ手がふるえた。待ち受ける、未知の生活には不安がある。けれども、ふるえの半分は、武者震いみたいなものかもしれなかった。
(私はいま、自分で自分の人生を選ぼうとしている)
不思議な喜びが胸に満ちているのを感じながら、アイリーンはシグルスの差し出した書状に、自分の名前をさらさらと
「契約成立」
シグルスが満足そうに笑った。
「はい……シグルスさま」
名を呼ぶことを許すと言われたことを思い出して、そっとうなずいたアイリーンは、敢えてそう口にしてみた。目の前で黒眸を細める相手がいままさに自分の夫になったのだ、と、そう考えると、なんだか変に
(物語の中の王子様とは、ぜんぜんちがう。おとぎばなしの
その後に続けるべき言葉は、まだ、アイリーン自身にもよくわからない。ただ変にどきどきはしていて、だから自分を落ち着けようと、ちいさな胸に両の手を重ねて載せて、ほう、と、息をついた。
そのときだった。
「ああ、そうだ、アイリーン……俺のほうにも言っておきたいことがあるんだが」
シグルスは妙に真顔になって言った。
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