1-1 皇妃候補として皇都へ

 貴族の令息、令嬢であれば、政略結婚など珍しくもなんともない。特に女子であれば、結婚それこそが存在価値だといっても過言ではないほどだった。


(むしろ、それだけが……って言ったほうが、正しいのかしら)


 ガタゴトと音を立てて進む馬車から外へと視線をやりながら、トレノエル辺境へんきょうはくの末娘のアイリーンは、そ、と、溜め息をついた。


 実家にあっては、父、あるいは男兄弟の世話になりながら、大切に育まれる。嫁いでは、今度は夫に守られる。それが貴族の令嬢の生活くらしであり、人生いきかただ。


 期待されるのは、良き政治の道具となること。男にとって、よりよい駒であること。蝶のように舞い、花のように笑っていた幼い頃にはわかっていなかったそんなことが、十二歳になるアイリーンには、そろそろ理解されはじめていた。


 肌を磨き、髪をくしけずり、きれいなドレスを着て、たおやかに笑う。優雅に見える立ち居振る舞い、ダンスの作法、食事のマナー。上品なしゃべり方と、それからそれなりの会話術。淑女レディらしい趣味としての、刺繍ししゅう。レース編み。学ぶといえば、わずかな文学や詩くらいのものだった。


 それがいわゆる淑女しゅくじょ教育といわれるものである。男兄弟たちが、歴史や地理、経済や数理学などまでをも領地経営の一環として学んでいるのとは、まるで対照的だった。


 女性に施される教育は、なにもかも、夫となる男性に気に入られるため。なによりも、夫に愛されるためのもの。


 どんな男に嫁ぐか、そこでどれだけ愛を得られるかが、上流階級の女性にとっては価値のすべてだ。女性とは、家庭にあって、男を癒すべき存在である。


 だから、仮に本格的に学問をこころざそうとしたり、あるいはまつりごとなどに口を挟もうものなら、変人扱いされ、白い目で見られてしまう。あまりかしこすぎる女性は受けが悪いものなのよ、と、母は言うし、侍女頭にもそう言われた。


(おかしなものよね)


 アイリーンがはじめてそんなふうに思うようになったのは、一つ年上の兄に加えて、それまでは一緒に礼儀作法などを学んでいた二歳年下の弟までもが学校へ通いはじめたときである。二年程前のことだろうか。


(とはいえ、どうしようもないんだけれど)


 いろいろな勉強をさせてもらえる兄弟たちを見て、うらやましいな、と、アイリーンは思う。アイリーンだって、できることなら、もっといろいろなこと学びたかった。知りたかった。


 トレノエル辺境伯である父は、そんなふうに考えるアイリーンに、特別何も言ったりしない。けれども、子供に甘いというタイプの人ではなかったから、これは単に、興味がないだけのことなのかもしれない。


 母はといえば、アイリーンが学びたがるのに、あまりいい顔をしない。父の書斎で本を読んでいるところを見つかったりなんかすると、末娘とはいえあなたは辺境伯家の令嬢なんですから、と、口煩く言うのだった。


 けれども、そんな母の反応こそ、世間一般における普通の反応だろうとアイリーンは理解している。


 だから、辺境伯家の令嬢ひめとして、アイリーンは文句も言わず、いまも家庭での淑女教育をおとなしく続けて受けているのだ。それが、辺境伯家に生まれたアイリーンの果たすべき義務だというのも、十分にわかっていた。


 アイリーンの食べているもの、着ているもの、それらはすべて領民からの税によってまかなわれているものである。領民のおかげで生きている以上、アイリーンは、領民のためになることをしなければならなかった。


 当然のことだ。そして、女であるアイリーンにとって、その方法がより条件が良い結婚しかないというのなら、そのために努力することは、アイリーンの果たすべき責務だと思っていた。


 そしていま、アイリーンは皇帝の正妻、皇妃こうひ候補として、ウェリス皇国の北西部にあるトレノエル辺境伯領から、一路、皇都へと向かっている途上である。


(女にとっては結婚がすべて。皇帝の妻といったら、これ以上ない最高の条件の相手よね……それなのにお父様ったら、いったい何を考えていらっしゃるのかしら)


 アイリーンを領地から送り出すとき、父であるトレノエル辺境伯ははっきりと言っていた。


「別におまえは選ばれなくてもいい。だから、何も気負わず、皇都見物でもしにいくと思って、過ごしてきなさい」


 含みのある笑みを頬に浮かべつつそう告げてきた父を思い出しながら、アイリーンは再び息をついた。


(それって、お父様は私が選ばれる可能性を、最初から諦めていらっしゃるってことなのかしら)


 そうなのかもしれない。


 むしろ、それが当然なのかもしれない。


 春先の透明な陽射ひざしのようなプラチナブロンド、神秘的なエメラルドのひとみ。真珠色に輝く、透けるような肌を持つアイリーンは、人形のようだとか、妖精のようだとか言って愛らしさをめそやされる程度の容姿ではある。


 が、なにぶん、まだ十二歳の少女でしかなかった。


(新しく陛下になられた御方は、たしか二十五歳……釣り合うとは、とても言えないんだもの)


 もちろん、政略結婚に年の差はつきものである。結婚する相手が父親のような年齢だなんてことはさして珍しいことでもなかったが、今回の場合、アイリーン以外の候補は妙齢だと聴いていた。ほかに似合いの相手がいるような状況で、あえてわざわざ、すぐには世継ぎを望むことさえも出来ない十二歳の相手を選ぶ道理もないだろう。


 ウェリス皇国では先頃、急な代替わりあった。


 先帝が、九歳という若さ、というよりも幼さで、亡くなってしまったからだ。


 当然、皇帝に跡継ぎはまだいなかった。兄弟や近い血筋の叔父、従兄弟いとこなどもなかったから、そこに発生してくるのは、もちろん、後継問題である。


 皇帝の急な夭折ようせつという混乱の中、一時的に国家の全権を与った皇太后こうたいごう――今回亡くなった皇帝の実母――によって、新たに皇帝に指名され、皇宮に迎えられたのは、皇国の南部、ナグワーン公爵領の領主だった。


 名を、シグルス・ウェリス=ナグワーンという、らしい。


 ウェリス皇国は、中央部に皇帝が直接治める領地があり、それを取り囲む花弁はなびらのごとく、東西南北に四つの公爵領がある。北のベイワーン、東のトゥワーン、南のナグワーン、そして西のシーワーンがそれだ。


 その間に挟まれるような形で国境線に沿って存在するのが、四辺境伯領であった。北東のフォルディア、南東のランス、南西のマルディン。それに加えて、アイリーンの父が治める領地、北西部のトレノエル。


 そして、その辺境伯領と、中央の皇領――皇国の直轄地――との間に、大小さまざまな貴族領がある。


 さて、東西南北の四公爵家は、血筋を辿れば、皇統にいきつく。すなわち皇家の分家であった。中央で跡継ぎが途絶えた緊急時には、皇帝を出すことを期待されている家柄というわけだ。


 だから、今回のナグワーン公爵の皇帝即位も、定められたとおりの成り行きといえば、そう言える。


 ただし、である。


 先帝が崩御した際、次の皇帝の最有力候補であったのは、北部のベイワーン公爵だと言われていた。三十代半ばの北の公爵は、やり手の野心家として知られている。己が帝位にくこともやぶさかではない様子だったようだ。


 だが実際は、そうはならなかった。


(選ばれたのは、南部領を継いで数年の、ナグワーン公爵……しかも、敏腕と名高いベイワーン公爵とは違って、こちらはあまりいい噂のない人物だわ)


 幸い、ナグワーン公爵が残虐だとか冷酷だとかは聞かない。苛政かせいの噂もない。


 が、シグルス・ウェリス=ナグワーンについて、まず耳にするのは、とんだうつけ者、粗野そや粗忽そこつな人間だということだった。


 身だしなみや作法には無頓着。それだけならまだいいが、暇さえあれば剣術に明け暮れ、政務を放り出しては領内をほっつき歩いたりする、放浪癖の持ち主だという風聞だった。


(でも、いままで幼帝のもとでまつりごと牛耳ぎゅうじってきたやつらにとっては、次の皇帝も、やり手のベイワーン公爵より、そういうぎょしやすそうなうつけ者のほうがよかったってわけよね)


 ナグワーン公爵の即位には、お飾りの皇帝を裏から好き勝手にあやつりたいという廷臣たちの腹が透けて見えるようだった。


(そんな噂の方じゃなかったら、私だってちょっとは、彼との結婚に憧れたりしたのかしら……?)


 おとぎばなしの中の王子様みたいな人だったら、と、そんな想像をしながら、アイリーンはそっと溜め息をついた。

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