第2話

平成初期に生まれたわたしは、バブル崩壊後の子供だった。バブル崩壊がわたしにとって何の影響があったのか分からないが、自分の家はそこまで裕福でも無く、また貧乏でもなかったように思える。

 わたしは小さい頃から毎日習い事に通わされていた。母は、わたしがやりたいと言ったものをやらせた、と常々言っていたが小さい頃のわたしが本心からやってみたいと言ったのかどうかはわからない。寧ろ、言わされていたのではないか、と思う。

 週に2日スイミングに通い、ピアノ・エレクトーンは週に2日。英会話教室は週に1回。そろばんは週に2回。

1週間全てが習い事だった。だから、わたしには学校の友達がいなかった。正解には、友達がいなくなったというべきなのだろう。

 近所にMちゃんという友達がいた。幼い頃は習い事が始まる時間まで遊んでいた記憶が残っているが、小学校に上がってすぐに遊ばなくなっていった。

 原因は、習い事と、後は放課後に残される事が多くなったためだ。算数が理解出来ず、0の計算のテストと図形のテストで0点を取ってしまったからだ。

 当時のテストは、1枚の大きなカラー用紙に両面綴りでテスト内容が記載されており、表が基本問題。裏が応用問題となっていた。特に裏面の応用問題が全く理解できず、常に適当な数字を綴っていた。

 担任教師は妥協を許さない性格で、大声で叱ったりファイルで児童の頭を叩いたり、今で言うパワハラ教師というものであった。

 0点を取ったため、例に漏れずわたしは居残り対象だった。解けるまで残らないといけない、と言われていたが、用紙をいくら睨んでも答えが浮かんで来ない。そして、習い事の時間となったため、習い事に行かないといけない。と、担任に告げると猛烈に怒りを露わにした。担任は勿論恐怖の対象であったが、同じくらい母親も恐怖の対象であった。

 母親は、習い事の中でも、特にピアノに対し強い執着を見せており、自分が成し遂げられなかったピアニストになって欲しいという思いが強かったように思える。

 自宅でのピアノ練習の際には、毎日泣いていた。

 今考えると、発達障害の特徴がその頃から出ていたのだと思う。練習、勉強といった努力が必要な事が全くその当時から出来なかったのだ。

 ピアノ練習の際は、長時間椅子に座り続けるということが苦痛でたまらなかった。そのため、常に母親が隣に付いて練習をなんとかしていた状態であった。

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