第8話 女性の年齢は実年齢よりも十代若く言え
「ところで人間よ、私は寛大な龍神だ」
「はい、そうですね」
みょうに物分かりがいい。
今朝からもそうだったが、急な態度の豹変に、イリスは困惑していた。
まぁ、いい。
と、ひとまずは困惑をその辺に放置しておく。
「お前は、私の仕事を完遂する上で、大いな
ピシッと指を一つ立てる。
「お前にやる報酬は、全体の一割だ」
少し、意地悪をしてやろうとイリスは思った。
何せ、自分は龍神族であるのだから。
人間に圧倒的な優位性を見せつけてやるのが、嗜みと言うもの。
「そ、そんな……」
やはり、困っているようだ。
そうだろう、そうだろう。当然全体の一割しか報酬がもらえなければ、文句を言いたくなるに決まっている。
しかし、それでも、九割の報酬が譲られることはない。なぜなら、それで龍神族の威厳が示されるのだから。
イリスは満足げに頷いた。
「一割ももらえるなんて……本当にいいんですか?」
「……え?」
その少年は、目尻に涙を浮かべて、イリスに尊敬の眼差しを向ける。
「僕、今までまともに人から対価を貰えたことがなくて、人と関わる時も、ずっと下に見られて、対等に扱われたことがないんです」
——だから、こんな対等に扱おうとしてくれるなんて、僕、信じられません。
と、野村の言葉が、イリスの胸を貫いた。
「……すまん、今のは嘘だ。報酬は半々にする」
「——へ?」
野村は、ますます信じられないと言った様子で、イリスを見つめた。
「イリス様……一生ついていきます」
「あぁ、もう! そのイリス様とかいう呼び方はやめろ! むず痒くなるわ!」
頬を赤くして、そっぽをむく。
「——ともかく、だ。報酬は街に行って受け取る必要がある。お前にも、そこまで付き合ってもらうからな」
「……っ、はい!」
野村は、大きく頷いた。
==========
歩く。街への道を。
道なりに、真っ直ぐに。
隣には、暇そうにあくびをしているイリスが歩いている。
しかし、しかしである。
媚び売り大作戦などと銘を打ったものの、僕は大きな問題が一つあることを失念していた。
——僕は、非常識な異常者であるということ。
思い出すは、一年前の出来事。
初めての担任の教師が、女性だったのがことの発端だった。
「涼太、忘れ物見つかった。帰ろう」
僕が教室に忘れ物をして、それを取りに戻った時のこと。
隣には涼太がいて、一緒に帰る約束だった。
「——あら、まだ教室に人がいたのね」
帰ろうとした瞬間、教室に、先生が入ってきた。
「あぁ、先生、ちょっと秋斗が忘れ物したんで、取りにきてました」
涼太が答える。
先生は、ふくよかなおばさんで、人当たりのいい良い人だった。
「そうだったのね。君が、佐々木涼太くんで、そっちの君が、野村秋斗くん、だったかしら?」
「おっ、正解です! 先生、まだ学校始まったばっかりなのに、よく生徒の名前覚えられますね」
「うふふ、佐々木くんは、人を褒めるのが上手なのね」
先生はにこやかに微笑んだ。
きっと、生徒の名前を覚えるのだって、相当頑張ったのだろう。
それからしても、実に誠実でいい人だということがわかる。
「野村くんは、忘れ物は見つかった?」
「あ、えっと、はい」
僕はクリアファイルを持ち上げた。
表面にはアニメの推しキャラが写っている。
「へぇ、野村くんは、アニメとか見るのね。趣味で、アニメ鑑賞とかよくするの?」
「えぇ、まぁ。そこそこ見ますね」
僕はうすく笑った。
会話は苦手なのである。早々と切りをつけたかった。
「……」
奇妙な沈黙が流れる。
すると、涼太が僕に耳打ちしてきた。
「——おい、秋斗、質問されたんだから、お前も返せよ。それが常識ってもんだろ」
——常識。
ふむ、なるほど。確かに言われてみれば、その通りである。
「えっと、先生は何かご趣味とかはあるんですか?」
「あら、私?」
そうねぇ、と先生は考え込むと、もじもじしながら少し恥ずかしそうに呟いた。
「そこまで本気なわけじゃないけど、最近、美容に気を使い始めてみたの」
美容。
よくわからないが、変なクリームとか塗ったりするのだろうか。
「へぇ、どうりで、先生って他の人より綺麗に見えるんですね」
「もう、佐々木くんったら、褒め上手ね」
言葉ではそういっても、先生はどこかご機嫌そうだった。
「——ちなみにだけど、野村くんは私のこと、何歳くらいに見える?」
期待まじりの目で、見つめられる。
僕は少し眉を寄せて答えた。
「四十五ですかね」
スンッと先生が真顔になった。
すると、涼太が慌てて言葉を付け足した。
「ち、違うんです、先生! 今、秋斗は三っていうところを四と言い間違えただけなんです! なっ、秋斗?」
Yesと言え。
そう言わんばかりの強烈な視線を贈られる。
「えー、まぁ、はい」
「あっら、そうだったのね! そうなら早くそういってちょうだい!」
先生に元気が戻る。
「私、こう見えて四十代なの。意外でしょ?」
「えぇ、もう、本当に! 意外です!」
涼太は慌てて取り繕った。
それから、先生は満足げに教室を出て行った。
「——秋斗、もう、お前ってやつは……」
涼太が頭を抱えながら息を吐く。
「何か悪かったか?」
「悪いも何も、こういう時は、実年齢より十代若く言っておくのが普通なんだ。これも、常識ってやつだ」
「なるほど、実年齢よりも十歳若く……」
常識とは、わからないものだ。
性懲りも無く、そんな感想を思い抱いたのを覚えている。
——そんなこんなで、僕にはなかなか頭の痛い過去があるというわけだ。
そんな僕が、他人の気分を決して害してはならない。
果たして、可能だろうか?
自分に問いかけても、正直わからないというのが本音。
汗を滴らせるほかなかった。
すると、僕とイリスは、立ち止まった。
——川である。
「そういえば、街に行くまでに川があることを忘れていた。人間よ、渡れそうか?」
川を少し凝視してみる。
向こう岸まで、だいたい五Mくらい。
川の深さは、おおよそ水が腰に浸かるくらいか。
もう少し川の流れが早かったら、押し流されてしまうところだろう。
しかし、これくらいなら、ギリギリ渡れないこともない。
——決心しろ、僕。
やるしかない。
僕はイリスを抱き上げた。
「見たところ、どうにか渡れそうです。イリスも気をつけてください」
「え? は? いや、ま?」
足元が水に浸食されるのも構わず、川を進む。
イリスは腕の中で、震えた。
「ち、ちょっと待て! 人間よ、これはどういうことだ!?」
「どう言うことって、イリスに足を汚させるわけにはいかないじゃないですか。こういうのは、下々のものに任せてください」
少し進むと、ズボンに水が染みた。
しかし、これもご機嫌取りをするために仕方のないことだ。
「訳がわからないぞ! 私がお前に渡れるかと聞いたのは、お前を心配してのことであって、私を運ばせるためではない!」
「ま、まさか、イリスは、僕のことを心配してくれたんですか……!?」
「畜生! こいつ、話が根本的に噛み合わない!」
やがて、僕はイリスを運んで向こう岸についた。
「——いやぁ、よかったです。なんとか渡りきれました」
もし、一滴でも水がイリスに付着してしまったら、どうしようかと思っていたところだ。
ズボンはびしゃびしゃになってしまったが、機嫌を損ねることはなかったらしいし、大儲けだ。
「は、早く下ろさんか、人間!」
「あぁ、失礼しました」
抱き上げていたイリスを、地面に下ろす。
「全く、私なら、お前を抱えながらでも川を飛び越えられたと言うのに……」
イリスは、少し不満のようだ。
「あの、もしかして、怒ってますか?」
「怒っているのではない、呆れているのだ」
そう言って、彼女は額に手を当ててため息をついた。
怒ってないのか。よかった。
僕は胸に手を当てて安堵した。
「ともかく、先に進むぞ」
背を向け、歩き出すイリス。
僕は慌ててその背中を追いかけた。
==========
それから、一時間くらい、平坦な道が続いた。
特に何もない。
そう言えるくらい、平和だ。
当然、ドラゴンがその辺の空を飛んでいることも、一般通過マッチョと鉢合わせることもない。
それだけ、あの平原が治安の悪い場所であると言うことなのだろう。
つくづく、自分の運の悪さに呆れる。
——しかし、それとは別に、大きな問題があった。
「あ、暑い……」
強烈な日差しである。
さっきまでびしょ濡れだったズボンも、一瞬で干からびてしまった。
「あぁ、暑いな。全くもって、太陽というやつは傲慢だ」
いちいち、イリスのセリフの規模が大きい。
「——人間よ、疲れてはいないか」
そう尋ねられた瞬間、僕の脳内がフル稼働する。
辿るは、人間関係を保つために、脳が蓄えた知識の数々。
確か、これはネットかどこかで見た話。
——疲れた? と聞かれたら、それは休憩したいという合図。
なるほど、つまり、これはひっかけ問題。
イリスは、僕を心配する体を保ちながら、その裏では休憩したいと考えている。
僕はほくそ笑んだ。
「イリス、ここは石や砂利が多い。僕が椅子になります」
四つ這いになる。
簡易的な椅子の完成だ。
「……人間よ、お前は一体何をしている?」
「椅子です。椅子をしています」
「な、なぜに? どうして?」
「イリスが休むためです」
熱烈な視線を送る。
すると、イリスは困惑しながらも、ちょこんと背に腰をかけた。
「こ、これでいい、のか?」
どうやら、好感度は保てているらしい。
——涼太、僕、どうにか頑張れそうだよ。
炎天下の元、友人の顔を思い出し、心の支えにする。
涼しい風が吹いた。
沈黙がしばらく流れる。
「ところで、人間よ、お前の歳はいくつだ」
「十七です」
「そうか、若いな……」
イリスは感慨深そうに呟いた。
「い、いや、若いって、イリスの方が若いのでは?」
「龍神族を甘くみるな。お前たち人間族とは違って、長命種は相対的に肉体が老いないのだ」
長命種……エルフみたいなものだろうか。
「……」
奇妙な沈黙が流れる。
いや、待て、本当に質問を返すのか?
年齢を?
僕は冷や汗を垂らした。
しかし、確かに、僕は年齢を聞かれたのだから、同様のことを聞き返すべきである。
それは常識だ。
ただ、女性の年齢というのは、触れるにはあまりにも危険すぎる禁忌中の禁忌。
聞き返すのは憚られる。
——前者の常識をとるか、後者の常識を取るか。
前者、後者、前者、後者、前者、後者……。
頭の中で思考が無限ループする。
きっと、こんなのだから、陰キャだとか揶揄されるんだろう。
「なんだ、私の歳は聞かぬのか?」
聞いてよかったらしい。
僕は唾をゴクリと飲み込んで、ためらいがちに尋ねた。
「イリスは、何歳くらい、なんですか……?」
「——私の年齢は……ざっと、今年で六百歳と言ったところだな」
——まさか。
いや、まさか。
僕は、歯噛みした。
——想像以上に、歳がいっている。
いや、挫けるな。
生きるために、常識を全うするんだ!
「え、えっと。意外です。五九〇代くらいかと思ってました……」
「……は?」
「ひぇ!?」
睨まれた。
わからない。
わからないよ、涼太。
僕、もうやっていけそうにないよ。
目尻に涙を浮かべて、僕は地面を握りしめた。
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