第2話 地獄の業火に焼かれて死ぬ
どうしよう。
いや、本当にどうしよう。
草、草、草。
一面を覆うのはそれだけ。
なんの変わり映えもない景色がずっと向こうまで続いている。
どこへ行こうにも、何をしようにも、こんな平坦な場所じゃ、まるでやりようがない。
しかし、何も行動しなければ、何も情報を得ることはできない。
恐る恐る、歩を進めた。
歩くたびに、草が足に絡みついてくる。
ほんのちょっと、胸が弾んだ。
それからもう一歩、またもう一歩。
さらに先へ進む。
足も弾みがついてきた。
僕は走り出した。
教室の中で突っ伏して、息を潜めている時なんかとは違って、顔には自然と笑みが浮かんでいた。
自由だ。
周りには誰もいない。
自分の悪口を言う人間もいない。
誰に気を使う必要もない。
そんな、自由な空間。
僕が、憧れた世界。
しかし、疑問である。
はたと、足を止めた。
息が荒くなっている。
久しぶりに体を本気で動かしたせいか、横腹が痛かった。
天を仰いで、草原に後ろから倒れた。
そして空を眺める。
「どうして僕は、異世界に……?」
普通、こういう事態には理由がつきまとうものだ。
例えば、ファンタジー世界の住民が、迫る厄災を解決するために、異世界人を召喚したとか。
神様がうっかりして、別世界に人間を送ってしまったとか。
理由がないとは、実に摩訶不思議である。
僕は、こうも突然自由が与えられ、返って困惑していた。
それに、記憶の中では、教室中に魔法陣が浮かび上がっていた。
そこから考えるに、自分だけじゃなく他のクラスメートも異世界に来ていると考えるのが妥当だ。
ならば、どうして僕一人だけ孤立して、ここに転移させられたのか。
「うーん、疑問だらけだ」
しかし、考えても無駄である。
なんたって、こんな異常事態だ。
常識で物事を図ろうとすること自体、大きな間違いと言っても過言ではないだろう。
だから、僕は大いにこの異常事態を楽しむ他ない。
「そうだなぁ、せっかくなんだ。魔法とか使ってみたいなぁ」
炎や水を操って、強大な敵を成敗する。
なんとも痛快なシナリオだ。
それから、いろんなものと出会ってみたい。
スライム、妖精、エルフに、それからドラゴン。
そう、例えば、あの空を飛んでいるみたいな……。
「ん?」
ドラゴンだ。
翼が一対生えて、尻尾が優雅に靡いている。
体躯は地上からでもその強大さを感じられるほどの巨体で、口からは火を吹いている。
一度も見たことがないのに、何度も見たことがある。
そんな、奇妙な感覚に苛まれた。
それで、僕はこの時になって、一番肝心なことに気づいた。
——体が全く動かない。
例えるなら、カエルが蛇に睨まれるのと同じ原理である。
ただ少し違うのは、僕が襲われているこの感覚は、精神的と言うより物理的なものであるということだ。
体がぐにゃぐにゃと、こんにゃくみたいに震えさせられた。
その圧倒的な威圧感が、身体を否応なしに押し潰した。
——あ、これ、やばいやつだ。
しかし、時すでに遅し。
僕は、地面に寝っ転がったまま、そのドラゴンと目を合わせた。
ドンと、ドラゴンが高速で落下して、隣に着地した。
風で前髪が揺れる。
「あ、こ、こんにちは——」
『グオぉ……?』
ドラゴンは不思議そうに僕を眺めると、唸り声を上げた。
「すみません、日本語わかります? できれば平和的解決を——」
『ギァオオオオオ!』
無理だった。
和平の交渉は拒否された。
当たり前である。
意思疎通できていないのだから。
ドラゴンが腕を振り上げた。
その爪で僕の体をズタズタにするつもりだ。
「——ひぇっ!」
金縛りに抗うように、右肩を動かした。
全身に力を入れ、全力で踏ん張る。
動け動け動け動け!
果たして僕の体は、半回転することに成功した。
既のところで、爪が隣の地面に突き刺さる。
爆音が耳元で暴走する。
鼓膜がイカれたが、命は取り留めた。
ふへっと小さく笑みが浮かんだ。
「こ、こいつ、攻撃力は異常だけど、体がデカいせいか狙いが正確じゃない……!」
エイム弱者が、よくもこの僕を怯えさせてくれたものだ。
しかし、ここからはこっちの番。
腹ばいになって体を引きずって、どうにか上半身を起こす。
そして右手を突き出し、全神経を集中させる。
ドラゴンは、突然の僕の行動に一瞬警戒するようなそぶりを見せた。
緊張の最中、互いに視線をぶつけ合う。
あるんだろう、答えろよ。
頭の中に問いかけた。
想像は万全。
イメージは完全。
目指すは最善。
あるんだろう、と。
再び問いかける。
何がって?
それは決まってる。
「ファイア・ボオオオオオオオッル!!」
すなわち、魔法。
燃え盛る地獄の業火で、このドラゴンをどうにかこうにかしてしまえ。
シーン、と。
何も音はしない。
当然、僕の手から炎なり水なりが飛び出しているわけでもない。
スカったってやつだ。
「まぁ、そうだよなぁ」
『グオオオオオオ!』
反抗の手段が無いと知った途端、ドラゴンは意気揚々と雄叫びを上げた。
いよいよ、僕は顔面を蒼白にせざるを得なくなった。
言うなれば、明確な死の予感。
「し、しかし、頑張って攻撃を避ければ——」
わずかな期待は、ドラゴンの次の行動によって、打ち砕かれた。
それは、必殺必中の一撃。
ドラゴンに許された、ドラゴンがドラゴンであるが故の術。
炎のブレスだ。
大きく息が吸い込まれる。
次にそいつが体内のブツをぶちまければ、僕が跡形もなく灰にされるのは、火を見るより明らかだった。
「クソっ、攻撃が当たらないからってそんなチートありかよ……!」
ただでさえ、貧弱なこの体。
逃げ場のない全体攻撃をくらえば、一秒と持たない。
考える。
脳内に思考を巡らせる。
打開の一手を、考えるんだ。
考えろ、考えろ、考え——
『ギィヤオオオオオ!』
発射。
炎は放たれた。
僕は燃え盛る地獄の業火でどうにかこうにかされてしまった。
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