裏切られた大博士 〜成果を横取りされた研究者は、職場をやめて悠々自適に研究三昧〜
氷染 火花
第1話 一念通天、努力はついに報われる
ネイサンはミストリア王国の王立研究所で働く下っ端研究員だ。25歳からここに所属しているが、まだまともな成果を上げられず20年経った今もなお3級研究員のままだ。
40代も半ばを超えると、体のあちこちが軋みを生じて辛い。腰や肩は常に痛いし、目も長時間作業をしているとすぐに霞んでくる。もう若い頃のような無茶はできないが、ネイサンが研究するためには体に鞭打ってでも深夜まで働かなければならなかった。研究室の上級研究員たちが、あらゆる雑用を押し付けてくるので自分の時間が取れないためだ。
年下だが上級の研究員たちが軽蔑の眼差しでネイサンを見つめる。ネイサンは彼らの笑い声を背中に感じながら、逆らわないよう黙って仕事をしている。
「おいネイサン、このレポートもまとめとけよ。明日の朝までにだ」
「はい、すぐに」
「グズグズすんなよ。こっちは研究会で忙しいんだ」
「ええ、いつもご苦労様です」
「ついでに掃除とごみ捨てもだ。サボるんじゃねえぞ」
「はい、ただいま」
彼らの声が響き渡る。ネイサンはただ頷いてその仕事を受け取るしかない。どれだけ嫌な思いをしても、反発することは許されない。ネイサンには自分の研究をする時間も、声を上げる権利も与えられていない。
「ったく、嫌んなるぜ。こんなやつでも一端の給料もらってんのかと思うとよお」
彼らの声が遠くなっていく。ネイサンはただ黙々と仕事を続ける。この王立研究所での日々がいつ終わるのか、彼にはわからない。自分の研究テーマを信じ続けることしかできない。どんなに辛い日々でも、この場所でなにかを成し遂げることを祈るだけだった。
研究室の扉が開き、ずんぐりとした壮年の男性が入ってきた。室内の研究員が一斉に立ち上がり、頭を下げる。
「教授、おはようございます!」
「うむ、おはよう」
研究室のボス、アガルマ教授は今日も仕立ての良いコートにその肥満体を窮屈そうに押し込めたまま、傲岸な態度で挨拶した。王立研究所魔法研究部の部長でもあるアガルマ教授は、研究員にとっては神にも等しい。
「教授、おはようございます」
ネイサンもまたすぐに立ち上がって挨拶する。上級研究員には一応挨拶を返した教授も、ネイサンにはじろりと睨み返しただけだった。
完全に無視して立ち去る間際、ボソリと呟く教授の声がネイサンの耳に届いた。
「成果も挙げられん無能が、いつまで儂の研究室にいるつもりなんだか。とっとと消えてほしいもんだ」
ネイサンは唇をかみしめて、自分の席に座りなおす。研究テーマを認められないことも悔しいが、なにより毎日一日中こなしている研究室ないすべての雑用を何もしてないかのごとく言われるのが辛かった。
研究を進める上で必要な事務、予算計画、論文の推敲、研究資料の収集から掃除や来客対応まですべてネイサンがやっているのに、認めてもらえない。ほかの研究室では年間予算の中から運営担当の職員を雇っているのに、アガルマ教授の研究室ではすべてネイサン一人に押し付けて済ませているのだ。ネイサン一人だけ他の研究員の2倍も3倍も働いているのである。しかも、自分の研究と関係ないことで。
それなのに教授や同僚の研究員たちはネイサンを嘲り見下し、なんの研究成果も挙げられない無能と蔑んでいる。信頼すべき上司や仲間であるはずの彼らに酷い扱いを受けるのは、身を切られるように辛かった。
それでもネイサンが20年間この研究室にしがみついていたのは、なんとか完成させたい研究、夢があるからだった。今は失われた古代言語ガラル語の解読。誰もが夢物語と笑うそれこそ、ネイサンの生涯をかけた研究テーマだった。
◆◆◆◆
深夜、王立研究所の研究室にはひっそりと明かりが灯されている。上級研究員たちから押し付けられた雑用をやっていたらこんな時間になってしまったのだった。意に沿わぬ仕事だろうとネイサンは手を抜いたりせず、一つひとつ丁寧に片付けていた。掃除、研究室の整理、資料書類の整頓。論文の推敲。すべて淡々と、作業を進めて終わらせた。
やがて、ネイサンはついに雑用を全て終えると、自分の研究に取りかかるための時間がやってきた。彼は机の引き出しから古びた研究資料を取り出し、丁寧に開封していく。それは、「グリモワール写本」と呼ばれる古代ガラル語で書かれた最も有名な呪文書だった。
古代ガラル語は、今からはるか昔、1万年前に存在したと言われる謎多き言語だ。超古代文明ガラル帝国の魔法言語とされるが、現代ではその発音も意味も失われた幻の言葉となっている。わずかに残る伝承によれば、現代よりもずっと魔法発動に適した言語であったという。しかし、ネイサンは研究者としての生命をかけて、その言語を解読しようとしていた。
ネイサンの研究を聞くと、誰もが笑った。一万年前の古代言語の翻訳など、誰が可能と信じるだろう。特に古代ガラル語は文法が非常に難解で、古代人のでたらめな落書きではないかと未だ真面目に議論されるほどなのだ。主節も従属節も分からなければ各単語の配置もでたらめ。変化形すら一定の法則がない。今までにどの言葉が主語を表すのかすらわからないと言われる。
難解極まりない言語との格闘が待ち受けているというのに、机の上に広がる研究資料を見ながら、ネイサンは胸を高鳴らせた。彼はガラル語の原点を探り、その謎を解き明かすことに情熱を注いでいた。そして、今夜もまた彼の解読作業が始まる。
ネイサンは一心不乱に文字を追いかける。その指先は資料の上を滑りながら、古代の言葉が蘇るように解読を進めていく。彼の研究室は静寂に包まれ、時折、羊皮紙の上を走るペンの音だけが響いていた。
「……そうか、この単語はエウラーレの与格過去強変化系なんだ! ……それなら、ここで……」
ネイサンの声が、研究室の壁に虚ろに響く。背を大きく曲げ、机に這いつくばるようにして作業を進めるその姿はさながら幽鬼のようだった。
ガラル語の解読を志して30年、研究者となってからは20年。ネイサンは片時も休むことなくこの古代言語の解読に頭脳を費やしてきた。研究室の同僚からバカにされようと、教授から冷淡な扱いを受けようと、ガラル語への情熱だけで歩き続けてきた。
今日、彼の情熱がようやく実る。
「そうか、これが文の結部なんだ。なら文頭がここで……やった、初めてガラルの文章が浮かび上がった。これで訳せる。ガラル語を、解読できるぞ!」
ネイサンは両手を天に掲げ快哉を上げる。大声を出したことなど、何年ぶりだろうか。たった一文、たった一文の、構造を知るのに30年。あまりにも長い30年。だがガラル語が再発見されて1000年間誰も解読できなかったことを考えれば、黄金の成果に等しい。
「わかる、わかるんだ! ガラル語が読めるんだ!」
だれもいない研究室で、ネイサンは叫び涙を流した。貴重な研究資料がなければ、机の上に飛び上がって踊り出したい気分だった。自分の30年間の苦労が初めて報われたと思えた。
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