ビッグニュース

山本計画

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朝起きると猫のサブロウはカーペットの上で死んでいた。


三限が始まって、二十分が経っていた。話を聞くでもなくボーッと黒板を眺めていたところを、とんとん、と左肩を叩かれた。


「ごめん、消しゴム貸してくれない?」


隣の席の水谷明莉は、わざとらしく両手を顔の前に合わせてそう言った。昨日も忘れてたじゃん、と言うと、まあいいじゃん、そんなこと、と冗談っぽく言って、強引に机の消しゴムを奪ってきた。


今朝、三年飼っていた愛猫が死んだこの僕の消しゴムを、だ。


別に同情して欲しい訳ではないし、話すことで楽になりたいとかそういう話でもない。確かにサブロウの死は突然だったが、以前からなんとなくその日が近いことは分かっていた。以前からあまり活発な性格ではなかったが、ここ最近のサブロウといえば、気が付くと陽の当たるカーテンの隙間で丸くなっている体たらくで、食も明らかに細くなっていた。


とはいえ、別に悲しくない訳ではない。動物に興味がない母親に頼んでいたチャオチュールの調達を除けば、世話はほとんど僕が一人でやっていた。初めてトイレの躾に成功したときのことは今でも覚えているし、冬になると僕の布団に入ってくるサブロウの肌の感触も、到底忘れることはできないだろう。


学校に着いてから、僕はまだ誰にもサブロウが死んだことを話していない。こんな話をできるような友人を、どう考えても僕は持っていなかった。仮にしてみたところで、無関心か、冗談のようにとられて終わりだろう。それではいけない。僕は悲しみたかった。愛猫が死んだにも関わらず“愛猫が死んでいない人”を演じるのが辛かったのだ。


「ありがとー」


消しゴムを使い終えると、水谷明莉はそう言ってそれを返してきた。人気があって、誰にでも分け隔てなく接する彼女。一体何人の男を無意識の内に恋に落としてきたのだろう、と初めて話したときに考えたのを覚えている。


もしも、と、僕は想像してみる。もしも、今彼女にサブロウのことを伝えてみたら、彼女はどんな反応を示すだろう。驚くだろうか。それとも彼女のことだから、またわざとらしく悲しんでくれるのだろうか。彼女のわざとらしいリアクションを嫌っていた僕だったが、今の僕にはむしろそれが必要だった。


変な間が空いた。手には消しゴムを持ったまま、彼女は怪訝な様子で僕の方を見ている。僕は消しゴムを受け取ると、息を整えて、言おうとした。


そのときだった。


「あの先生さ、かつらじゃない?」


思いもよらない彼女の言葉に、僕は出かけた言葉を飲み込んだ。


見ると、確かにいつもよりも前髪がおでこの方に後退している気がする。気のせいかもしれないが、言われてみれば不自然に見える、絶妙なラインだった。


彼女が僕の方を見て笑っている。僕が悲しんでいる理由は誰も知らないけれど、僕は彼女が笑っている理由を知っている。感情というのは、知られて初めて表に出せるものなのだ、と、僕は初めてそのとき思い知らされた。


その前に、泣ければよかったな。そんなことを思いながら、僕は彼女を見て笑った。今、僕たちが笑っている理由を知っているのは、僕たちだけである。

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