世界の全て

葉羽

 


 目を覚ますと、そこは白い世界だった。


 比喩でもなんでもない。本当に、どこを見ても、真っ白なのだ。床も壁も天井も……ここが屋外か屋内かすらも、判断基準がないためわからない。


 昨日の夜は確か、母さんの誕生日祝いで作ったケーキを家族みんなで囲んで食べた。真っ白なクリームにイチゴが乗ったショートケーキだった。スポンジがうまく膨らまずに失敗してしまったけれど、母さんは美味しい、美味しい、と何度もいいながら笑顔で食べてくれた。


 それで……風呂に入って、歯磨きをして、飼い犬のポチと一緒にベッドに入って。目覚めたら、こんな事態になっていた。


 声を出して叫ぼうにも、この真白な空間に頭がバグり、今自分は心の中で話しているのか、それとも声に出しているのかが区別できないのだ。喉に手を置いてみたって、動いているにも動いていないにも、どちらにも思えてしまう。そもそも発声で来ているかわからないなんて事態が初めてで、対処のしようがなかった。


 おーい、誰かいますか?

 誰かー

 ここはどこなんですかー

 ここはなんなんですかー


 自分では叫んでいる、つもりだ。この白くどこまでも広がる空間に、全てが吸い込まれてしまう錯覚を覚える。

 自分が立っているのは一体なんなのか。この空間はどこまで続いているのか。


 何か身体を動かさなければおかしくなってしまいそうで、とにかく端を探しに前へと走った。


 けれどそれも、なんの意味があるのかやがて不安になり、やめた。

 一度立ち止まると、どこが前でどこが後ろだったのか、右も左もなにもわからなくなってしまう。一度寝転がると、どれが床でどれが天井かの天地すら即座に判断ができなくなる。今は自分の身体が本当に存在しているか、それすらも疑わしい。


 おかしくなってしまいそうだった。なんなのだ、この空間は。

 温かい家に帰りたい。大好きな家族に会いたい。美味しいご飯を食べたい。とにかく、早くここから抜け出したい。


 ひたすらこれまで楽しかった情景を頭に浮かべ、並べ、正気を保った。頭の中で展開される色づいてごちゃごちゃした世界は、とても幸せだった。



 ここへきて、どれくらいの月日が経っただろう。五年と言われても、五分と言われても納得できそうだ。こんな空間で、時間感覚なんてあるはずがない。


 ぼーっとひたすらに白を見つめていると、耳に微かなノイズのような、聞き覚えのある機械音が届いた。ここへきて初めの音に、弾かれたように駆け出す。


 たどり着いたそこに置かれていたのは、携帯用のラジオのようだった。ジジジ、と確かに音が鳴っている。これ以外の手がかりなんてなにもありはせず、いつか何かが聞こえるはずだと真剣に耳を澄ませた。


 すると、不鮮明ながら人の声が聞こえてきた。


『ア……れ、シっ……』


 久々の人の声に、つい涙が出そうになる。人の声が聞こえることを確信し、集中して聞き取る。


『この……、せな、き……』


 電波が安定したのか、声はどんどん鮮明になっていく。


『こっちの……は、ずいぶんと……だな』


 人の声がする、誰かが会話をしている。二人以上の声が聞こえる。


『……この信号流したら、どうなるんだっけ?……』


 やけにはっきりと、若い男が言った。



『ああ、お前初めてか?』

『そうなんだよ。てかこいつ、今どういう状況なの?』

『ほぼ全部切断してある。ほら、みてみろ。あんな感じの真っ白の世界に放り込まれてるはずさ』

『あー、どっかで読んだことあるかも。でもこれなんの意味があんの?』

『こいつは実験体なんだよ。結構初期からいるやつでさ。ずっと担当してるから、ほぼ保護者みたいなもんよ』

『え、すげー。そんなのいるんだ』

『だろ? でもさ、最近どんどん認識がおかしくなってきて。回路が古いから仕方ないんだけど、こいつに関しては交換できる部品がもう製造停止で無くなっちまってさ。一旦保留にしてんだ』

『へぇ〜、じゃあ今は回路交換してるってこと?』

『そうそう。せっかくだから新品にしてやろうと思って、嫌な顔されながら買ってもらったんだ。俺もこいつに愛着あるし。可愛いんだよ、こいつ。途中で起きたバグからずっと猫のこと犬だと思ってんの。だから飼い犬の名前もポチだし。色の感覚も回路のせいでバグっちゃってさ、赤と青反対になってんの。おもしれーよ、ショートケーキのイチゴが青いんだから。食欲失せるっての』

『あはは! なにそれ、おもしろ! そういうのが面白い仕事だよな。俺、多分飽きねぇわ』



 ラジオの先での会話。よく聞きとれたその声にラジオを手放してしまった。

 視線がどこを見るでもなく動いて、頭の中は「なんで」で埋め尽くされている。


 なんのことを言っているのか、どうしてわかってしまうのか。それすらも憎くて、自分を恨んだ。



 酷いじゃないか。だって、俺はそれを知っている。聞いたことがあるんだ。いつしか、友達に教えてもらったのだ。こんなことに役立つなんて、きっと誰も思っていなかった。


『水槽の脳、って。そのまんますぎだよな。もう少し撚れよって話』

『……あ、この線、繋げちゃいけないやつだった』


 そうしてラジオは、忽然と姿を消した。

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世界の全て 葉羽 @mume_21

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