浮世知らず

梣はろ

囚われの狛犬


 とある世界に、国の命運さえ変えてしまうほどの強大な術を使うことができる者達がいた。


 その中でも、伝説として語り継ぐべきなのはやはり「囚われの狛犬」と呼ばれたあの術師だろう。


 困難に巻き込まれながらも、人生をかけて正しさを追い求めた若き術師。


 その生涯の片鱗を、これから術を学ぶ君たちに語ろうではないか。




   -◆◇-




 ――姫様、何があってもこの扉を開けてはなりません。



 そう言い残して部屋を出ていった家政婦は、まだ戻ってきていない。

 先程まで屋敷中に響いていた争いの声も、もう聞こえなくなったというのに。


 部屋の隅に作った小さな結界に閉じ籠り、現実から目を背ける。



 どれほどそうしていただろうか。


 俄に部屋の外が騒がしくなる。



 ――とうとう、見つかってしまった。



 あとはこの部屋だけです、と報告する若い男の声。

 行け、と短く命令する上官らしき男の声。


 ドンドンドン、と扉が激しく叩かれる。

 何度も何度も、扉が抜けるのではないかというほどに。


 結界に籠ったまま、耳を塞ぎ、聞こえないふりをする。



「そこにいるのはわかっているのだ! 出てこないのならば、こちらから押し入る!」



 若い男の声は告げる。


 一層激しく、扉が叩かれた。

 熊をも阻むような頑丈な扉が軋みを上げる。


 続くこと数分、もしくは十数分。

 地震のような揺れとともに、扉は内側に向けて倒れてきた。



「開きました!」


「入れ」



 分厚い扉が無くなったせいで、結界を隔てていても、男たちの声は先程よりもずっと大きく聞こえてくる。

 土足のままずかずかと入り込んでくる若い男の姿も、薄白い結界の光越しに、はっきりと見えた。


 ところが、突如その足は停止する。

 上官らしき男も、足を止めた。



「どうした」


「……子供です。狛犬は――」


「いや、合っている。お前が獅子の妹の狛犬――白菊だろう?」



 上官らしき男は、結界の外から私に目を合わせて訊ねる。

 そうでなかったとしても頷かせるような、有無を言わせぬ鋭い眼光。


 やはり、この人たちは私を探しに来ていたのだ。


 

 ――もう、起きていることから目を背けてはいられない。そもそも、この人たちから逃れることなど不可能だったのだから。



 私は心を決め、まず「一番大切なこと」を訊いた。



「使用人たちは……?」


「殺してはいないさ。後で手当もしておこう。……ただし、お前が大人しく我々のところに来るのなら、の話だが」



 要するに、人質、ということなのだろう。

 私が"決断"をしなければ、私のために体を張った使用人たちはそのままにされ……やがて、死んでしまう。


 強大な力を持つ術師として、使用人を思う主として。私は、あの男達と共に行かなければならない。

 たとえそこに、どんな未来が待ち受けていたとしても。


 それを知れば、私たちに仕えてくれている使用人はきっと、私を止めるだろう。

 しかし、彼らが生きる未来のために、私はかつての母のように、そしてそれに続いた姉のように、気高い"決断"をしなければならないのだ。


 決して自分のために、使用人の命をなくしてはいけない。

 それが、代々狛犬や獅子を務める私の家に伝わる家訓だった。



「わかりました」



 私の言葉に、上官らしき男は満足そうに頷く。


 私はそのまま、言葉を続けた。



「ただ、もう絶対に、使用人たちには手を出さないでください。……正真正銘、私がこの家最後の狛犬なのですから」


「ああ、約束しよう。……だがまさか、こんなにあっさり来るとはな。お前の姉は、嘘をついていたようだ」



 意味深な言葉を残し、上官らしき男は部屋を出ていく。


 あとに残された若い男は、困惑気味にその背中を見送り、私に声を掛けた。



「その結界を解いて、私についてくるように。……表に、迎えの車が止めてある」




   -◆◇-




 屋敷に押し入ってきた男たちはやはり、国の軍人だった。

 姉を連れて行ったのと同じ、軍の裏側の人物。


 彼らは今、術を無効化する御札を持って、私を挟むように座っていた。

 車が揺れる度に、彼らの足元に置かれた剣が鈍い輝きを放ち、屋敷の惨状を思い出させる。



 部屋を出てからこの車に乗るまでに見ただけでも、屋敷は目も当てられないような惨状になっていた。

 そこかしこに、争いの形跡が見られるのだ。


 壁や床には傷が付いているし、廊下の角ごとに置いてある花瓶は倒れて割れ、壁にかけてあったはずの絵画も傾いたり落ちたりしている。

 治療のために移動されたのだろうか、使用人たちの姿こそ見えないが、血痕さえみとめられた。


 使用人たちは、末の娘である私を、他の家族にもまして可愛がってくれていた。

 今回は、それが裏目に出てしまったのだろう。


 だが、想ってもらっていたという事実を確認しても、今となっては嬉しく思うこともない。

 ただ苦く錆びたような後悔が、心の奥まで沈んでいくだけなのだった。



 ふと、車の揺れが以前にまして大きくなっていることに気づき、顔を上げる。


 隣に座る上官の腕越しに、外の景色が見えた。

 そこにあったのは、水平線の彼方まで広がる荒涼とした広い土地に、異様に綺麗な洋風の建物がひとつ。


 何も言われなくても分かる。

 ここは、戦場だ。


 私が連れてこられた理由でもある、大国同士の争いの、その現場。

 今は閑散として見えるが、実際にここで起こる戦いは、屋敷での出来事とは比べ物にならないような、想像を絶するものなのだろう。



「驚いたか。今は誰もいないが、明後日になればまたここは砲弾飛び交う戦いの場になるだろう」



 上官は言う。

 感情を込めず淡々と、まるで報告書を読み上げるかのような声音だった。



「いいえ、驚きませんでした。母や他の親戚の者から、戦いの話はたくさん聞かされてきましたから」


「そうか」



 若干の皮肉を込めて言うが、やはり上官は感情を感じさせない声で答える。


 車内には再び、沈黙が戻った。



 そして、そのまましばらく車は走り続け、先程遠くに見えていた建物のところまでやってきた。


 上官が門の横に立っていた衛兵に少し何か話すと、衛兵は門を開け、車を中に通す。

 車は、建物の玄関前に横付けするような形になった。


 車を降りると、建物の扉を開けながら、上官は言う。



「ここが、我が軍の基地――今日から、お前が"活躍"する場所だ」

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