朽ちたクジラの死骸のように

ラーさん

第1話 誰でもよかった

 僕の記憶にはいつまでも彼女の姿が残っている。


「本当は誰でもよかった」


 暮色に染まる空き地に放置された廃バスの中で、そう話した彼女と僕が駆け落ちをしたのは中学一年の秋も深まる頃だった。冬の気配を匂わせる透き通った秋の空気が、熱に浮かされた僕の気持ちを抑えるように肌にひんやりと触れていたのを今でもよく覚えている。


「家から逃げられれば誰でも」


 彼女とはクラスで隣の席というだけの関係だった。けれどあまり人と話さず、学校も休みがちだった彼女はクラスで浮いた存在だったから、隣の席という関係はクラスで一番彼女に近い関係で、だから夏でも長袖の彼女の服の下に、いつも真新しい青あざやタバコを押しつけられたような火傷の痕があることを知っていたのは、きっとクラスで僕だけだった。

 彼女はいつもぼんやりとした顔で教室を眺めていた。どこか錆びついたように心の見えないその横顔が、クラスの他の喜怒哀楽の感情がはっきりと見える騒がしい女子たちと違って、なんだかとても遠い、隣の席にいるのにここではないどこかに思いを馳せているような横顔がとても魅力的に見えて、早い話が僕は彼女に初めての恋をしたのだった。

 この初恋がただそれだけで終わっていたなら、僕の中の彼女の記憶もやがて薄れて、いずれ顔も思い出せなくなっていたと思う。

 けれど彼女はあの日の下校の直前に、僕の耳元で「駆け落ちしない?」と囁いたのだ。


「酷いでしょ?」


 駆け落ちといったって、バスと電車で少し遠くの街へ移動しただけで、中学生の僕たちの財布は寂しくなった。行く当てもない僕たちは、そのままこの街をふらふらと歩きまわって、最後に残ったお金で買った自販機のコーンスープを二人で分け合いながら、空き地に放置された廃バスの中で、ひっそりと夜を過ごそうとしたのだった。


「好きにしていいよ。あたしはさ、もう、終わってるから。この身体はさ、親の酒代だったから。だから、もう終わってるんだ。もう――」


 そう語る彼女の横顔は、誰も遊ばずに放置されて錆びついた公園の遊具が、久しぶりに使われた軋みにひび割れた塗装をぼろぼろと剥がれ落としていくようにぎこちなく笑い、普段の無表情の下に隠れた彼女の本当の顔の痛ましさに、僕は夕暮れを過ぎて夜へと冷えていく廃バスの中の空気とは反対の、ひどく熱く、幼く、それ故に純粋な感情に衝き動かされて、だから僕は僕の肩に寄り添う、ひどく軽く、薄く、頼りない彼女の肩を支えて、


「でも、誰かは必要だったんでしょ?」


 そう彼女の横顔を振り向かせ、


「僕は君がよかった」


 そう彼女の目を覗き込んだのだ。


「だから、大丈夫――」


 言葉にならない声で泣く彼女を抱き留めながら、けれど僕たちの未来が、この朽ちたクジラの死骸のような廃バスと同じように無残な姿で終わるなんてことは、中学生だった僕にだって簡単に想像できる結末で、


「大丈夫――」

「うん、大丈夫――」


 それでも僕たちはそう繰り返しながら、互いのぬくもりを支えにして、廃バスを押し潰すように深さを増していく夜の底の暗闇に抗うように、二人の手の中にあるコーンスープの空き缶が冷えていくのに逆らうように、僕と彼女は強く、強く、互いの手を握り締めて、じっと、じっと、終わりへむかって朽ちていく僕らの結末に耐えて、耐えて、耐え続けたのだ――、

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