第2話

「薫」

「……んぁ、何?」


 糸で引っ張られたように、ぐっと意識が引き戻される。

 茶碗を片手に持ったしきは、はふはふと唐揚げに歯を立て、あふれる肉汁を白米に落としていた。そのまま噛みちぎり、飲み込むと、あっさりした表情で言う。


「や、なんか別世界行ってる顔してた。どした?」

「あ、たしかに行ってたかも。考えごとしてた」

「ふーん。好きなひとでもいんの?」

「いないよ。……ご飯おいしい?」

「や、マジでうまいわ。天才」

「そう? 良かった」


 夜。

 今日の松坂家の食卓には、幼馴染みの識がいた。衣がざくざくしている唐揚げと、辛めのコチュジャンとにんにくを混ぜた豚肉とピーマンの炒め物、炊きたての白米が湯気を立てる献立は、ちょうど食べ盛りの識にはお気に召したようで、薫と話すときも顔をあげることなく、大口あけてかっ食らっていた。

 ダイニングテーブルのある部分にのみ電気をつけ、ドイツ産の線の美しい花瓶が、なんの花も生けられずにいる中、薫と識は会話もそこそこに唐揚げに箸を伸ばしている。薫の両親は共働きで、会社付近のカプセルホテルに泊まることもしばしばあるものだから、それをどこからか聞きつけた識が夕飯を食べに来ることがあるのだ。アディダスの黒く大きなリュックとクラリネットケースをぶら下げて、「うまいもん食わして、今月金欠でラーメン食いに行けねぇの」と。


「聞いて。おれこのまえリードガチャ大ハズレして、当たりが十枚中二枚しかなかった。あと全部吹けないのか頑張れば吹けなくはないの。やばくね?」

「基準わかんない。それだめな方なの」

「訴えられるレベルでだめ。大当たりんとき八枚使えたくらいなんだから。二千円むだにしたわ。お陰で金欠」

「ひどすぎた……」

「な。マジ貯めといて靴買えばよかった。今気になってるやつあんだけど」

「識が気になる靴って、いつも一万円くらいするでしょ。高校生が履いていいやつじゃないよ」

「女とかメイクとか服とかに何万もつぎ込むのに、靴に一万レベルでゴタゴタ言うな。彼女できねぇぞ」

「いいよ、好きなひといないし」

「やば。今度男女混合でカラオケ行こ。好きなひとつくれ。他校の女子呼んでやるから」

「恋愛する気ないよ……」

「華の高校二年生が彼女なしとか悲惨すぎる。目も当てられん。童貞卒業しろ」

「そんなこと言われたって」


 識はけっして悪いひとではないのだが、こういうことがたまにある。薫は眉尻をさげて、ひかえめな量のレタスサラダを箸でつまんだ。

 だいぶ多めに見積もってつくった夕飯たちを、薫と識はぺろりと平らげた。識はせめてものお礼と、袖をまくって皿洗いを引き受けたので、薫はじゃあよろしく頼むとだらりとソファにしずんだ。識の皿洗いはいつも豪快で、大量の洗剤と大量の水を使ってすみずみまで洗う。いつも排水溝に泡がたまるくらいなのだ。


「アイス買いに行こうぜ」


 やがて、食器乾燥機にすべての皿を入れ終えた識が、手を拭きながら、にやっと笑った。


「ごめん。アイス切れてたか」

「いーよ。おれ爽しか食べないし。薫スーパーカップ派だろ」

「うん。チョコミント食べたい」

「あんなん歯磨き粉だろ」


 夏の夜はむしむししてなまぬるく、すず虫が風鈴のように鳴いていた。夕方に撒いたのであろう打ち水はほとんど干あがり、ぶち猫が瞳孔を縦に光らせて歩いている。夜空にはやわらかい紫色が混じり、街灯はわずかな光を落として、水溜りのようにひろがっていた。

 すずし、と識はぼそりと呟いた。半袖の制服のシャツが白くまぶしかった。


「あ、あれ」


 闇夜の中で青く光る信号をわたると、すぐにコンビニが見えてくる。薫はふっと識を見ると、目鼻立ちがくっきりした顔で、かすかに眉根を寄せていた。


「一色じゃん」


 薫が識の視線をたどると、ちょうどコンビニに入るところの女の子に至った。薫も、あっと声を上げる。

 一色夕里。

 家、近くだったんだ、と、なんだかむずむずするような、戸惑いの感情が胸に落ちた。


「気まず……」


 薫は、何とも言えず黙り込んだ。

 一色夕里。薫と識のクラスにいる女子だ。すらりと背が高く、信じられないほど手足が長く、黒壇の髪はいつもゆったりとおろしていた。顔立ちは陽だまりのようにやわらかく、おっとりとしていて、春の花木がよく似合うような花の乙女だ。

 しかし、あまり友達がいないのか、ひとりでいる姿がよく思い浮かぶような子だった。窓側の席で、授業中、しゃんと背筋を伸ばして、中庭を見下ろしていた姿。

 クラス替えから三ヶ月経ったいまでは、どうしたって話しかけづらい。識はある程度交友関係は強いたちだが、こういうタイプは苦手、美人なのに女のコミュニティに馴染めねぇ奴とか、なんか瑕かかえてそうじゃん、と散々薫に愚痴っていた。

 そう、と相槌を打ちつつも、薫はそうは思わなかった。すごく綺麗な子と思っていた。存在感がないのに、誰よりも堂々としていた子。棘のあるような子には見えず、咲いたばかりの真っ白なハナミズキみたい、とすら感じていた。


「まあいいや。むりに話しかけなくていいだろ」


 識はそう結論づけて、すたすたとコンビニに入った。

 薫がスーパーカップを、識が結局ピノをえらんだ中で、夕里は桜を散らした厚底のサンダルを履いて、毛先がくるくるした黒髪をシュシュでしばり、コーヒー牛乳をえらんでいた。

 不躾か、と心の隅では思いつつも、薫は吸い込まれるように夕里を見ていた。白い頬には淡い色が差していて、大きな目の眦は垂れている。一本の若木のような生気があった。青白い炎みたいな生気だ。薫は無意識に、見惚れるようにながめていた。

 

 ふと、彼女と目があった。

 その瞬間、薫は心臓にドッと冷や汗をかいた。


 まるで奇跡のような瞳だった。ブラック・ダイヤモンドの花びらのような眼差しだった。こぼれ落ちそうなほど大きな黒目には、さまざまな色の光が浮かんでいる。炎の赤、湖水の青、朝焼けの黄金、宿り木の緑、雨天の灰色、雲海の白……、虹彩にこの世のすべての光を詰め込んだかというほどの色だった。

 女神に心臓を撫でられたかのような衝撃だった。

 その瞳の奥に、森羅万象がすべて瓶詰めにされているかという目だった。


 薫は、慌てて目をそらすと、手早く会計を済ませ、識が後ろから追いかけてくるほどの勢いで逃げ帰った。

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