4 リンゴの味

 リハビリを終えて帰ってくると、ベッドの横の丸椅子に紗耶が座っていた。2日連続で来るのは珍しい。僕は立ち止まって彼女を見た。背筋をピンと伸ばして、手元で文庫本を読んでいた。

 僕がベッドに戻ると、それに気づいた彼女は一礼した。また本に目線を戻す。

 寝転がると、不意に大きなため息が漏れた。ずっと運動していたから疲れたのだろう。足の筋肉が痺れるように脱力している。

 医者に言われるがままに、ただ無感動に歩くのはとてもこたえる。僕は未来というものに希望が持てなかった。現実に一切期待していなかった。

「体を動かせるようになったら何をしよう、とか、そういうことを考えるとリハビリテーションにも前向きに取り組めますよ」

 そういうようなことを看護師が言っていた。だけど、そんなものあるはずもない。

 ただひたすらに苦痛でしかなかった。


***


 気が付くと日が傾いていた。いつの間にか寝てしまったらしい。今回は久しぶりに悪夢も見なかったので、心なしか、ずっと僕の心にこびりついて離れない虚脱感と虚無感が、和らいでいるような気がした。

 なんとなく辺りを見渡そうとすると、横に紗耶がいるのに気が付いた。まだいたのか。そう思った。

 彼女はじっと僕を見ている。僕が体を揺するたびに、彼女の目も揺れる。正直やめて欲しかった。

 彼女はずっと無言だ。何を考えているのか分からない。彼女を見返してみる。目があった。真っ直ぐ僕を見ていた。意外と綺麗な顔だちをしているんだな。そう思って彼女を観察していると、彼女がフイと顔をそむけた。

 初めて見る人間らしい反応に驚いて、それと同時に紗耶がそういう置物ではないのだと思い出した。

 僕は、寝てる間に切ってくれたのだろう、棚の上のリンゴに目が行った。

 いつも僕が、彼女の持ってきた果物にすぐ口をつけないのは、単純にそういう気分ではないからだ。彼女に観察されながらだととても食べにくい。

 でも、なんだか今日は食べてもいい気がしてきて。僕は、一かけ、くすんだ白のリンゴを取った。

 ――シャクリ。

 りんごの味が口の中に広がった。少し硬くて、酸っぱすぎる。

「ありがとう。でも好きじゃないんだ。フルーツ。次からは持ってこないでくれると嬉しい」

 僕はこちらを見つめる紗耶にそう言うと、彼女から目をそらした。謝礼の後のセリフは、蛇足で失言だったと思い至ったからだ。

「……そうですか」

 紗耶はそれだけ言った。荷物をまとめる。そろそろ帰るらしい。斜陽に照らされた病室を、彼女は後にした。


***


 紗耶が去った後の病室で、彼女について思い出す。なぜか少しだけ彼女のことが気になった。

 僕が目覚めてから初めて来たときは、彼女は両親と一緒に来ていた……はずだ。何しろ全く興味がなかったから、良く覚えていなかった。涙に目を抑える彼女の親の印象は辛うじてあったが、紗耶自身の印象は極端に薄かった。

 多分、その時も彼女は無表情だったのだろう。涙を流す両親と比べてしまえば、どうしても目にはとまらなくなる。

 一度、紗耶の母親だけで見舞いに来たことがある。その時彼女の母は、紗耶について良く話していた気がする。聞いてもいないのにペラペラと、よくそんな口が回るなと思った記憶がある。

 いわく、彼女は、僕が事故に遭うまではもっと活発で表情豊かだったらしい。僕が眠っていた間も、何度も見舞いに来ていたそうだ。

 ……これくらいしか思い出せなかった。そしてやはり、彼女が何を考えているのかは分からなかった。僕に恩と罪悪感を感じているなら、僕が目覚めた時に少しぐらい喜んでるはずだし、僕の見舞いに来るときも、あんな仏頂面でなく、もっと楽しそうにしてもいいはずだ。

 結局何も分からない。

 それきり僕は彼女という人間の不透明と不明瞭について考えを巡らせるのをやめた。

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