身勝手なラブレター

錠前伊織

身勝手なラブレター

 放課後。ホームルームが終わり、生徒たちが思い思いに行動を始める。校舎は大勢の生徒で溢れかえり、廊下に出ると、友達と遊びの計画を立てたり、部活に関する話し声が自然と聞こえてくる。

 俺は一人、さながら透明人間のように人気のない方へ足を進める。誰からも注目されていないことを肌で感じながら渡り廊下を歩く。すると生徒たちの喧騒はだんだん丸くなり、穏やかな放課後のBGMとなる。渡り廊下を抜けるとC棟に着く。C棟は人通りが少なく、どこか時間の流れが遅くなったように感じる。俺はこの特別な感じが嫌いじゃない。そんなC棟の奥まった場所にある小さな教室が俺の目的地だ。扉には文芸部と書かれた張り紙がしてある。俺はカラリと音を立てて扉を開けた。

「お、空。やっほ」

 普段授業を受けている教室の半分以下の広さしかない教室で、葵は椅子を2つ並べて、その上に寝転がっていた。お尻と腰は支えられているが頭を支える分の椅子は無かったようで、頭に血が上りそうな体勢で挨拶してきた。セミロングの綺麗な黒髪が床を撫でている。クラスではおとなしいイメージで通っているようだが部活動では奇行が目立つ。せっかくの美人がもったいないと思うが、これが彼女の素なのだろう。

「おう。……椅子、返してくれる?」

「えーしょうがないなぁ。はい」

 葵はそれだけ言うと、緩慢な動きで腕を前に突き出した。起き上がらせろということだろうか。平然とした態度にため息を吐きながら、俺は葵の腕を引っ張った。外には一切出てません、ペンより重い物は持てませんと言わんばかりに白く細い腕。掴めば女の子なんだとすぐ分かる。ドギマギしているのを悟られないように無表情を努めた。今日の葵はどうも面倒くさい。こういう時は大抵小説が出来上がった時だ。疲れ果ててあまり考えずに会話しているのだろう。

「サンキュー。あと、はい。これ書きあがった小説。読んで感想ちょうだい」

 葵は鞄を漁ってノートパソコンを取り出し、開いたままの状態で机に置いた。俺は机を挟んだ、葵の目の前に椅子を動かし腰掛ける。

 葵は天才だ。彼女の書く精緻で美しい文章と筆の速さは高校生離れしていて同い年とは思えないし、既にいくつか賞も貰っていると聞く。

「相変わらず早いな。じゃあ、さっそく読ませて頂きます」

「どうぞ」

 葵は投げやりに返事をする。気にしていない風を装っているが、その顔は少し強張っていて緊張しているようだ。俺が小説を読み進めている間、葵は文庫本を手にしていた。だが、集中できていないようでちらちらとこちらを見てくる。

 葵の書いた小説を読むのは好きだ。どれも面白いし、文章がすっと入ってくる。感動して泣きそうになったこともある。けれど最近、俺は葵の小説を楽しんで読めなくなっていた。

 理由に見当はついている。でも俺はそれ以上深く考えられない。理由は簡単で、なぜなら俺は、自分自身の醜い感情を直視できるほど心が強くないから。

「ねぇ空、そろそろ私にも空の小説読ませてくれてもいいんじゃない?もう高3だし、もたもたしてると卒業しちゃうよ?」

 俺はマウスのホイールを回す。遠くから吹奏楽部の練習が聞こえてくる。

「……あぁ、また今度な」

「もう!絶対読ませてよ?私楽しみにしてるからね、空」

 念を押しながら葵が身を乗り出してくる。パソコンを見ていた俺の視界に無理やり入ってきて、葵の宝石のような瞳が俺の目を奪う。こんなに近くにいるのに毛穴の一つも見つからない。揺れる髪の毛からいい匂いがしてくる。

「約束だからね」

「う、うん」

 葵の有無を言わさぬ態度に俺はただうなずいた。

 文芸部に入ってもうすぐ2年。俺はまだ、1作も満足に完成させていない。残された時間はあと1年もない。漠然とした将来の不安をかき消すためか、俺はふと窓の外を見る。始業式を彩っていた桜はとうに散り、落ちた桜の花びらは黄ばんで端に追いやられていた。


 

 それからの日々はあっという間だった。勉強に追われながらも時間を作り、パソコンに向かう毎日。だが、その日書いた文字の量より、消す量の方が多くて、いつまで経っても完成しない。やり方が違うんじゃないかと小説の書き方の本を読んだり、単純に読書量を増やしたり、読んだことのないジャンルの本に手を付けてみるが大した効果は感じられず、小説に活きた実感は無かった。

 気づけば冷房をつけなくなり、クラスの雰囲気は様変わりしていた。休み時間に単語帳を捲る人がぐっと増え、授業中には真剣にノートをとる人の中に内職する人を見かけるようになった。

 得体のしれない化け物に追われているような焦燥感。勉強をすればこの気持ちから解放されると分かっているのに、自分の中の複雑な感情が俺を縛り付ける。俺だけが置いてかれているような感覚が苦しい。中途半端な自分が情けなくてしょうがない。もうどこかに逃げ出してしまいたかった。


 ある日、歯を磨き終わってあとは寝るだけって時に、いきなり電話がかかってきた。画面には葵の名前が映し出されていた。心臓が跳ねるが、罪悪感からか、その後すぐにチクリと痛む。俺は慌てて電話に出た。

「もしもし」

「あ、もしもし空?」

「ああ、どうしたこんな時間に」

 電話越しに聞こえる葵の声は興奮気味でテンションが高い。

「実はね、実は、さっき編集者さんから電話があったの」

 編集者。その言葉の響きはどうしようもなく魅力的なのに葵の口から発せられるとなんだか怖かった。自分の手の届かない場所に行ってしまうんじゃないかって恐怖が体を覆う。

「それで、私、金賞なんだって!私の本が出るの!」

 そう言われた瞬間ガツンと殴られたような衝撃が頭に走った。俺は無意識に唇を噛み締めていた。

「……おめでとう。葵」

 思っていた反応じゃなかったのだろう。葵のテンションが落ち着いてくる。これでも頑張った方だから勘弁してほしい。

「ありがとう空。……えっと、ごめんねこんな時間に電話しちゃって」

「全然大丈夫だよ。本当におめでとう。葵の本絶対買って読むからね。じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ。また明日ね」

 __ピロロン。

 ずっと使っていなかった筋肉を酷使したような疲労感があった。しばらく携帯の画面を見つめる。気づけば全身の力が抜けてその場にへたり込んでいた。吸う息がしゃくりあがって、吐く息が震える。これが電話で良かったと心の底から思った。

 悔しい。悔しくてたまらない。葵が俺より優れていることなんて火を見るよりも明らかで、最初から分かり切っていたことなのに、それでも俺は悔しかった。こんなところを葵に見られたらどう言い訳すればいいか分からない。

 無慈悲に流れる涙が自分の中にある醜悪な感情の正体を明らかにしてくる。俺は大して努力しないくせに、ずっと一緒にいる友達に嫉妬と劣等感を抱いていたのだ。俺はいっちょ前に悔しがっている自分が気持ち悪くてしょうがなかった。


 どうして俺はこんなに頑張って小説を書いているんだろう。ふと、一人きりの部屋でそう思った。ベッドにはついさっき葵からの電話がかかってきた携帯が投げ捨ててある。縦に曲げた膝を両手で抱えて、顔を埋める。すると、中学の時の記憶が断片的に蘇った。

「葵ちゃん小説書いてるの!?」と故意に張り上げられた、悪意に満ちた金切り声。鬼の首を取ったように騒ぎ立ててからかうクラスメイトの姿。その光景は脳裏にこびりついて離れない程気持ち悪くて、その日の昼休み、俺は心配になって教室からいなくなった葵の姿を探した。普段ならこんなこと絶対にしない。それでも探し回ったのは、もし俺が葵の立場だったら泣いてしまうと思ったからだ。でもそれは杞憂だった。彼女は一人、図書室で黙々と執筆していた。窓から差し込む光が葵の伸びた背筋をなぞり、セミロングの黒髪がしとやかに流れる。他人を意に介さないその姿勢とノートに向けられた真剣な眼差しが俺の心を一瞬にして奪った。気づいたときには葵に話しかけていた。


 対等になりたい。人として遥か先を行く葵の隣に居たい。葵に認められたい。そのための手段に俺は葵と同じ小説を選んだ。

 葵は高校生にして作家デビューを果たしてしまう程の、俺なんかでは到底追いつけない天才だ。その存在は比べることさえばかばかしい。葵はテレビの向こうの存在と大して変わらない。だけど、

「ねぇ、卒業までに絶対空の小説読ませてよ。約束だからね」

 記憶の中の葵が頬を膨らまして、楽しみにしてるからねと笑う。 

 瞬間、体中を縛っていた感情がほどけていくのを感じた。

 体育座りを解いて、壁にかかったカレンダーを見る。闇に慣れていた目だと家のライトが眩しかった。

 受験の登竜門と呼ばれる夏休みはとっくに終わっている。残された時間はわずかしかない。せめて、約束ぐらいは守りたい。俺は机の上のパソコンを開いた。


 たくさんの言葉が脳を駆け巡る。走馬灯のようにたくさんの情景が投影される。一から設定や登場人物を考える力は俺にはない。だから俺は、俺の人生を切り売りして、今までの葵への思いから物語の着想を得ることにした。キーボードを打つ手を止めないように脳裏に浮かんでは消えていく言葉たちを精一杯紡いでいく。体中が全能感で満ちているのを自覚する。これがゾーンというやつなのだろう。脳がスパークして周囲の音が聞こえてこない。椅子も机もパソコンも、空気でさえも自分の体の一部みたいに馴染んで、感覚が研ぎ澄まされていく。昔はあんなに考えても出てこなかった文章が、葵の事を思うといくらでも書ける気がした。



 放課後。いつもと同じように部室に向かう。けれどその足取りはいつもよりずっとぎこちない。俺は何度も鞄の中にあるパソコンを触って確かめていた。いつもは気になる喧騒が今日はくぐもっていてよく聞こえなかった。

 電話から1週間。俺は自分の処女作を書き上げた。今までのはなんだったんだと出来上がった後に思ったものだ。ただ、もう一度やれと言われてもできる気がしない。これが俺の書く最初で最後の小説になるだろう。

 小説の内容は文芸部を舞台とした恋愛ものだ。中学校のクラスメイトに一目ぼれした主人公がその女の子と同じ高校に入学して、一緒に部活動に励む話。最終的に自分では彼女を幸せにできないとすべてを諦めて別々の道を進む、という話だ。

 クライマックスの展開は最後まで迷っていたけれど、この展開が一番しっくり来ている。会心の出来だ。今までとは手ごたえが違う。これでつまらないと言われたら、もうしょうがない。そう思えるレベルだ。思考を巡らせていると、気づけば部室の前まで来ていた。




 ドアを開けると葵は執筆の時以外にはあまりかけない眼鏡をつけて、パソコンに向かっていた。すさまじい速さで物語を紡いでいる。俺が来たことに気づいていないみたいだ。こういうところに葵と一般人との違いが現れていると思う。俺は邪魔だけはしないようにとなるべく音を立てないように椅子に座った。俺は葵が気づくまでずっとその真剣な眼差しを目に焼き付けるように見つめていた。


「うぅーん……うぉ!空!びっくりした。居たんなら声かけてよ」

 伸びをしていた葵がこちらに気づいた。窓の外を見ると空は既に焼けていて、部室を赤く染め上げていた。その夕暮れは秋の訪れを感じさせた。

「あはは、ごめんごめん。ほら、これあげるよ」

 俺はさっき自動販売機で買ったミルクティーを机の上に置いた。

「えっ!どうしたの空。いつもはこんなことしないのに」

「金賞受賞祝いだよ。俺だってめでたいことがあればおごるぐらいする」

「あぁ、そういうことか。ありがとう空。なら遠慮なくいただきます」

 そう言って葵はミルクティーを受け取り、口につけた。喉が渇いていたのだろう。ごくごくと喉が上下に動いている。

 いつもと変わらない、穏やかな放課後。けれど今日は、野球部の野太い声援がやけによく聞こえる。

 俺は息を吸い込んで、からからに乾いた口がしっかり動くことを確認する。おなかに空気が溜まっていくのを感じながら、決意を漲らせる。心臓の鼓動が早い。妙に顔が熱くて何も考えられない。結局言葉よりも先に、俺は鞄の中からノートパソコンを取り出し、開いたままの状態で葵の前に置いた。

 この小説はただの俺の自己満足で、あまりに身勝手なラブレターだ。通じるかは分からない。けれど、葵ならすぐにわかっちゃうんだろう。

「……これ、出来たから、葵に読んでほしい」

「……え、これって小説だよね?空が書いたの?」

「そう。俺が書いた」

「うそ!ホント!?これ私読んじゃっていいの?」

「もちろん。葵に読んでほしいんだ」

「やった!え、処女作?」

 葵はにやにや笑いながら聞いてくる。

「ふふ、そうだよ。俺の処女作。葵が一番最初の読者」

「……っ!そっかぁ。それは、うれしいなぁ」

 しみじみと言う葵は今まで見たこと無いような笑顔を見せた。さっきからうるさい心臓が止まったと錯覚するほどドッと飛び跳ねた。

「じゃあ、読ませてもらうね」

 そう言って葵は自分のパソコンを片付けてから、俺の小説を読み始めた。いつもは葵が書く側で俺が読む側だからなんだか不思議な気分だった。マウスのホイールの音がやけに響く。読まれている間ずっとそわそわしっぱなしで無性に落ち着かなかった。葵もずっとこんな気持ちだったんだろうか。そう思うと、この感覚もなんだか好きになれそうだった。俺が書いた小説はそこまで長くはないが短くもない。だというのにたった数十分で葵は、読み終わったのを合図するようにわざとらしく伸びをした。相変わらず異常に読むのが早い。それから葵はフーっと息を吐き、椅子に座ってただ佇んでいた。いつもは気にならないのに葵が喋らない時間が落ち着かない。まるで世界に僕たち二人しかいないように秋風の吹く音が聞こえる。可愛らしい唇がパッと開くのが見えた。

「……ふふ、あはは。空、最高におもしろかったよ」

 その瞬間に込み上げてきた感情を形容するにはあまりに力不足だった。ただすべてが報われた。そう心から思った。俺は葵にそう言ってもらう為に生まれてきたなんてちょっぴり言い過ぎかもしれないけど、でも、それぐらいその言葉で満たされた。

「でもなぁ……」

 でも、なに?

「最後がちょっと気にいらないかな」

 そりゃそうだ。葵からすれば俺の書いた小説なんて粗だらけで見るに堪えないはずだ。

「ねぇ、空?主人公の陸くんはさ、ヒロインの茜ちゃんのことが好きなんでしょ?陸くんは自分に自信が無くて、身を引くことを決意した。でもさ、ここに茜ちゃんの意志は入ってないの。これって茜ちゃんからしたらさ許せないよね。勝手な思い込みで大事な友達が一人減っちゃうんだから。ここは直した方がいいと思うな」

 葵の黒曜石みたいな瞳に俺の顔が映る。

「それと……一人称で書かれてるから茜の気持ちは読者には分からないけどさ、まぁ……私には、茜は陸のこと、ずっと前から好きだったように思えるよ」

「え?」

「え?じゃないよ!だいたいこのわざとらしく登場人物と現実リンクさせるの気持ち悪いから!しかもそれで最後に主人公、ヒロイン諦めるのかよ!小説の中でぐらい男らしく告白しろよ!そういう女々しいところ直した方がいいからね空!」

 葵はふっと息を吐く。

 その顔はゆでだこみたいに真っ赤で、夕焼けに溶け込んでいるようだった。

「この意気地なし」

 むくれた葵は上目遣いで言った。


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