十三番目の聖者

桑鶴七緒

第1話

野の生い茂る階段を登っていき広い雑草地に出ると、岬の灯台が立っている。もう少し晴れていればここから北方領土の島々が見えてくるのだか、そういう日に限って海霧が立ち込め視界が歪んで苛立ちを見せている。


誰も寄せ付けることのない荒地のように、突風は常に容赦なく吹き突ける。ここに来るのは何度目だろうか。仲間外れになって路頭に迷いだすと必ずと言っていいくらいにこの場所にやってくる。


もう来なくていいんだ。


頭の後ろから誰かの声がこだまして私の身体を抉り出そうと警告する。もう振り返ることはしなくてもいいのだ。いくら音速がまばゆいくらいに疾走していっても、彼らにはこの足跡には気づきやしない。


禁足岬。私は孤独を求めたい時に訪れては音にならないくらいの叫び声をもがきながら荒あげる。そして、自分が来れば誰も寄りつかない魔物が潜んでいることから、その名を付けた。

ただもうここには来なくていいんだ。


家族にでさえ私の居場所を奪われてしまったようなものだから、擁護も必要ないと蹴飛ばされてしまったもの。いくら振り返っても阻害者扱いにされてきた分、友愛などこの身には必要なくなった。この地で過ごした十八年間は異端者として生き成長を妨げてきたようだった。


そして今はで生仏の念を唱えながら息をする。下賤げせん者扱いされながら葬られてここへ堕とされたものだ。当然ながらあの日の自分とは別物。それで良い。これが今の私の「」であるからだ。

失くしたものも手に入れたものも……全て私だ。何を思われようと言うがままに叫んでも構わない。低重力の世界の檻の中でどんなに暴かれようとも構いはしない。それをやる奴らがいずれか無駄だったことだといつか気づくからであろう。


私はいくらでもやり直せると。姿形まで変わってでも「作品作り」に勤しむことができるからである。


凍てつくような冷たい壁。軋む鉄の揺り篭。非力だと嘲笑う遮断された無数の黒い管の顔ぶれ。

慣れは怖いというがここはいつしか心地よい空間になってきている。一日のうちに入る僅かな暖かい光。これでも優しい人間になれというのか。指図しないでほしいものだ。余計なことをよぎるなら、いっそう「作品」にありつけたいものだ。


遠くから足音が聞こえきた。何度目の訪問者だろう。そんなにこの「作品」を見に来たがるにはやはり何かしらの理由でもあろう。

やはり私を呼ぶ声がする。奴らの心臓や血管の音までもが聞こえてくる。


ただ臭いは……誰だ?


嗅いだことのない今にも腐食しそうな佇まいの臭い。身体から湧き出る緊張感のある雰囲気が漂ってくる。私の手先も感じたことのないヒリヒリとした痺れがゆっくりと狭まってきている。

奴は自身の中で私との距離を縮めようと何か企みを持ち込んでその一歩一歩を踏みしめながら近づいてくる。同時に私も看守から名を呼ばれてケージから体を出し、その奴がいる傍聴室に向かわされた。看守とともに室内へ入ると、あの独特の臭いがする。


そうだ、奴の臭いだ。


初めは下を向いていたが、ゆっくりと瞼を奴が座る方向に合わせて見つめてみた。奴は体を少し右肩下がりに姿勢を向けていて、そして傍聴板越しにこちらに眼光が開いたように真っ直ぐこちらの顔をじっと見ている。まるで既に私の全てを知って要るかのように、その目遣いが胸座むなぐらをわしづかまれたかの様にやや息苦しさをも覚える。男は口元を半開きにして軽く息を吸いながらようやく話し始めてきた。


新谷しんたに眞紘まひろさん。初めまして、警視庁捜査一課捜査係の阪野純平と言います。どうそお掛けください」


私は、何を言う間もなくただ息をひそめながら、無言で奴の顔を冷静さを装う様に遺恨の眼差しで黙って見ていた。


「早速ですが、これまでの捜査や鑑定の結果から、本日あなたの仮保釈が決まりました」


頭の中が無の状態のようだったが、やや安堵の気持ちになったのか、私は続けて、「そう、そうなんですか」と、無意識に出てきた言葉で奴に返した。

また元の生活に戻れると思うと、大抵は顔が綻びて嬉しくなるところだが、またしばらくは監視されながら身を置くことになるだろう。奴は再び扉の外に出ていき、私はまたケージに戻らされた。看守が離れていき、ベッドの上に腰を掛けほんの少しの溜息を吐いた。

ただ、どことなく異物が体の中に残る様に落ち着いていられなくなってきている。何故だ、こんなにも早く保釈が決まるなんて、あいつらも何かしらの取り調べは続けているのだろう。今は自宅に戻れることだけを考えて、あともう少しだけ身を潜めていよう。



数日後、私は予定通り仮保釈の身となった。専用の車に乗せられて拘置所を後にし、ようやく自宅に到着して、己と虚しさを乗せた車はあっという間に立ち去った。数日振りの帰宅に安堵したのか、部屋に入ってすぐにソファに腰を下ろした。

そうだカーテンを開けよう。

また立ち上がりカーテンを開け、西日が何処となく眩し過ぎて思いっきり瞼を閉じ再びゆっくり眼を開けた。この時期にしてはいつもより室内がひんやりとして、身体が足元から寒く感じた。何日も来ていた衣類から部屋着に着替えた。


冷蔵庫を開けて何が残っているか確かめた。当然たいしたものは僅かにしか残っていない。ワインセラーに手を伸ばし未開栓のスパークリングワインを開けた。お気に入りのグラスにゆっくりと注ぎ、一口また一口と喉に流し込んでいった。誰かが追ってくるまでは、この泡が消えていくように静かに大人しく待っていおうじゃないか。これまでの時間を取り戻すかのように私はまだ日の暮れない遠くのビルを眺めていた。



「この釈放は間違いです。高橋係長、もう一度奴を洗いさらしてみましょう」

「今回の捜査では奴の血痕も該当しなかった。証拠不起訴になっていることだし我々も捜査するのは時間の無駄になる。阪野警部補、とりあえず今日はここまでだ」

「ですが、再び調査を行えば、何か足がかりになることもあります。どうか引き続き私に捜査をさせてください」

「何の根拠を持ってそう言えるんだ?今日はもうこれまでにしろ」


捜査の手も上層部に止められているのだろうか。これじゃらちが明かない。俺は捜査室に戻り、一番初めに犯行が起きたことを頭の中で隅から思い出すように、奴の写真を眺めていた。四十年以上様々な「顔」を見ては話しかけながら、真犯人の行動を読み取って独自の解釈と自信を持ちながら奴らと直面してきた。今回の奴はどうも大人し過ぎて、いくら「顔」を眺めていても手掛かりになる発端が見えづらいのである。


「お前は何処で何をしてきたんだ?その眼も口も何故微動だに動かないんだ?必ず何か知って要ることがあるだろう?何度でも探し回ってやるからな」


私は常にこのやり方で容疑者の行動などを観察しながら手掛かりになる証拠を探し続けている。この定年前にこれだけの不可解な捜査を任されるだなんて。まだまだ現役で動ける体なのに今回がこれで最後になるとは。


「おい。これまで何人の人間と会ってきたんだ?お前は、一体何をしたいんだ?お前は……誰なんだ?」


いつの間にか時間帯は深夜近くを回ろうとしていたその時アナウンスが流れてきた。


「警視庁本部より報告、警視庁本部より報告。○○県山間部にて身元不明の男性の遺体が発見、至急現場に向かうよう指令在り。繰り返す……」


都心以外の捜査依頼なら何故ここまで情報が流されるのだろうか、県の警察庁から動くべきだろう。奇矯なものだよな……そうひっそりと心で話しながらまた俺は例の奴の写真を観察し続けていた。

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