小人犯

暗黒後光

家庭に人が産まれる過程

 安っぽい芳香剤の匂いが充満した一室で、小太りの黒髪男が飯を食らっていた。汚らしい容姿に反して食事の所作が人並み以上に丁寧なのは、外面の一部だけを気にする半端な無精の体現である。最後の一品を口に放り込み、小動物の如く繊細な上下運動をさせると、その後しずかに「ごちそうさま」の姿勢を取った。


「おいしかったよ」

「ああそう」


 男の母親がそっけなく返事をした。その視線はテレビに映る茶髪男へ向けられている。茶髪男が大げさな物言いをするたびに、この母親は高い声で笑った。


「話があるんだけど」

「皿、片づけろよ」


 男は「わかった」と答え、リビングと隣接するキッチンへ食器類を運んだ。ついでに皿洗いの作業をして、母親の機嫌を回復させようとも試みた。もっとも、作業中にリビングから響く笑い声こそは、好機嫌そのものだったが。


「皿洗っといたよ」

「どうも」


 皿洗いを済ませた男は、リビングに戻って母親の隣の椅子に座った。十年前、両親と家具店で買った椅子が、男の体重に耐える苦痛を、きしむ仕草で発露する。


「これからの人生であらゆる社交を断ちたいんだけど、どうしたらいいんだろう?国は国民が一人になる権利を認めるべきじゃないかな」


 男の発言に意識を向けず、母親は茶髪男だけを見ていた。男がなおも喋ろうとするのは、彼女の聴覚に一切の疑いを抱いておらず、また自分にとって重要な問題だと確信しているからだ。


「他人に忖度して生きるの嫌なんだよね。こっちが気を遣われるのは全然いいんだけどさ、他者との関係をいちいち考えながら生活するのって煩わしくないのかな」


 母親はテレビを見ている。


「孤独死する老人が僕の理想なんだけど、それでもすべての交流を断つのって難しいじゃん?というか、誰とも交流しないことが実現しても、自分の存在が認知されるのが嫌というか。完璧な隠棲ってどうやったら実現できるんだろうね」


「働きもしないで何言ってんだよてめえは」


 母親はテレビを暗黒に切り替え、いよいよ男の方を向いた。茶髪男を見ているときとは一転して、いかにも不機嫌な顔つきだった。


「飯食ったらさっさと二階行けよ」


 男は何も言わずリビングから退室し、階段を上る途中で小さなため息をついた。そして自室へ入ると、勉強机の引き出しからサバイバルナイフを取り出す。


「殺すか、死ぬか」


 男はしばらく、通販で買ったナイフを睨め回していた。脳内では鑑賞の恍惚と思考の流動が両立していたが、刃に自分の顔を捉えた両目が、速やかに目を背ける反応をした。


「僕が死ぬのは構わないけど、自分で殺すのは馬鹿らしい」


 男は薄緑のカーテンにナイフを突き刺した。


「本当はすべての他人を殺したいけど、そんなの無理だし。嫌いな個人も特段いないし」


 カーテンから引き抜かれたナイフは、アニメ・キャラの描かれたカレンダーを切り裂いた。


「はっきり言って今のママは嫌いだけど、殺したくはない。昔のママは好きだし」


 続いて、開封されていないゲーム・ソフトのパッケージが、正面から切り開かれた。


「どうしよう、僕は誰を消せばいいんだ?僕には他人を排除する正当性が一つもない。それならいよいよ、自死を選ぶしかなくなる」


 男が逡巡していると、階下から不審な怒号が轟いた。男は階段を駆け下りて、発生源と思われる母親のもとへ舞い戻った。


「どうしたの、ママ」


 母親は返事をしない。椅子のそばで、固まったように直立している。男は母親の後頭部から、視線がテレビへ伸びていると推理し、近づいて注視した。男性アイドルが「授かり婚」をしたという報道が流れており、テロップに表示された名前は、母親が推している茶髪男のものだった。


「まあ、こんなもんだよ、アイドルなんか……しかも、デキ婚。顔商売する人って頭の弱いDQNしかいないのかな」


 このとき、男の脳内に殺人電流が迸る。


「そうだ、子どもだ!」


 唖然とする母親を尻目に、階段を駆け上り、自室へ入り込んだ。パッケージのそばに倒れる凶刃を拾い、思考を虚空へ吐露する。


「他人が発生するのは性行為が存在するからで、性行為が存在するのは人間が産まれるからで、人間が産まれるのはお腹から!」


 この世で最も慌ただしい支度が行われ、凶器や非常食、金銭などを巡る疾風が、部屋中を吹き荒れる。だが、電撃のような素早い思考に、動作が追い付いていない。


「男性は殺しづらいから、女性を殺せばいい!中でも妊婦を殺して回れば、人口は減っていくはず!」


 男は「すべての他人を殺すのは無理」と結論付けたことを、すっかり忘却していた。窮地に迫ったことで、思考力が欠落してしまったのだ。


「産婦人科、産婦人科!」


 真っ黒なリュック・サックを背負い、全速力で玄関まで向かう。風呂に入っている母親のことは意にも介さず、外の世界へ飛び出した。暗黒に照らされる街灯が男を出迎え、光々の滲んだ影が、男を華々しい殺人犯へと変身させる。


 とはいえ、二人の婦人に切り傷を付けた事績を鑑みるなら、「傷人犯」の方がより相応しい称号になるのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小人犯 暗黒後光 @blacknaito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る