月の兎が住む町

へびぼたん

第1話

 人間が月に憧れるように、月の兎も地球に夢を見ていた。

 ある日、生まれ育った月に飽きた兎の少女が三人、月面上をのんびり歩いていた。

 彼女らの姿や知能は、人間とさして変わらない。耳が長く、少しのんきな程度である。

「地球はいったいどんな所なのでしょう」

 くせ毛の兎が目を輝かせると、眼帯をつけた兎が言う。

「恐ろしい獣がいるらしいわ。私たちなんか一口に喰われちゃう」

「マキなら蹴散らせるんじゃないですか? ご自慢の馬鹿力で」

 歓談するふたりを背に、ローブをまとった兎は突然立ち止まった。ローブの内側の瓶がカチャンと鳴る。

 そして、顔面大の黒い石を仰々しく掲げた。

「この星空、この空気……間違いないぞ、ここだ!」

 マキとミヨは間延びした歓声をあげ、気の抜けた拍手を送った。

「やっぱりメルの感覚はあてになるわね」

「へへ、そうだろう」

 メルは照れくさそうに頬を掻くと、平たい地面に石を下ろす。

「それにしても……不思議な石ですよねぇ。割るだけで地球にひとっ飛びだなんて」

「なんと言っても〈奇跡の隕石〉だからな」

「まあ、その奇跡を今から砕くんだけどね」

 マキは石の前に立つと、気合を入れるように深呼吸をした。残りのふたりも息を呑む。

「じゃあ……やっちゃうわよ」

「お願いします!」

「いけー! やれー!」

 ついに夢が叶う――そんな現実に踊る心を鎮め、マキは拳を振り下ろす。石はたやすく割れ、黒い欠片が散った。そして、その欠片すべてが閃光弾のような光を放ち、三人の視界を鋭い白で染め上げた。


 まぶたの裏に闇が戻り、ミヨはおそるおそる目を開く。

 どうやら自分は今、茶色を被った白い柵に沿って伸びる、焦げ茶色の土の道に座りこんでいるらしい。

 横を向けばくすんだ黄土色の大地が、上を向けば青と白のまだらな空が見えた。少し先には緑の塊のような森もある。暖かい陽光が優しく照らす。ひんやりとした風が肌を撫でる。

 地面はデコボコで生温かく、まるで生き物のようだった。

 これが、地球――ミヨは感嘆の息を吐いた。

 やがてミヨは仲間がいないことに気づく。

「あれ? ふたりとも、どこですか?」

 ほどなく、ミヨの下から低く弱々しい声がした。

「あんたの下だ」

「そのさらに下よ」

 ミヨは慌てて飛び退いた。ふたりは順番に、似たような渋い顔で起き上がる。そして、ミヨと同じように、地球の景色に感心した。

「これなら何泊もできちゃいそうだな!」

「地球にもお団子あるかしらね」

 ふと、ミヨが突拍子もなく言う。

「そういえば、帰り道ってどうするんです?」

 みるみるうちに、メルの顔が青ざめていく。

「……どうしよう、何もない」

「今すぐ必要ってわけでもないし、おいおい探していきましょ」

 すると、右斜め前方、森の茂みからがさがさと怪しい音がした。兎の中でも特段耳のいいメルは、その音をいち早く察知し、茂みをじっと見つめる。

「どうしました? なんかいたんですか?」

「うん。なんかいる。あれが人間かな?」

 茂みから現れたのは、繰り返し舌を出す手足のない細長い生物――蛇だった。蛇は地を這って、じわじわと距離を詰めてくる。

「何よ、あの細長いの。変な動きしてるわね」

「絶対人間じゃないですよ、あれ」

 ミヨとメルは、マキの後ろに隠れて蛇の動向をうかがっていた。

 右に左にくねくねと、まっすぐ兎たちを目指して進み続ける。

 あと一歩ほどの近さで動きを止めると、蛇はメルめがけて飛びかかって来た。

 マキが守る間もなく、蛇はローブの中に入りこみ、するりと内を這いまわった。

 メルが「うひゃぁ」と声をあげ、マキとミヨが蛇を捕らえようと手を伸ばした瞬間、蛇はローブから飛び出し、あっという間に森へと帰っていった。

「……なんだったんだ」

「地球には意味不明な生物がいるんですねぇ」

「メル、大丈夫? 怪我とか盗みとか」

 メルは念のため、ローブの内ポケットをまさぐる。

「んー、そういうのはなさそうだけど……」

 突然手を止め、青い顔をして叫ぶ。

「あいつ、よりによって瓶を盗みやがった!」

 ふたりは目を丸くした。

「瓶って、まさか」

「いや、帰り用の塩は無事だ。盗られたのは、星の砂入りのやつ」

「また綺麗だからって持ち歩いてたのね……」

 メルは軽く笑って濁した。

「早く取り返さないとですね」

「うん。問題はどっちに行ったか」

 メルは耳を澄ます。

 森の中。その至るところから、先ほどのものと似た地を這う音が聞こえる。どうやら、仲間がたくさんいるらしい。しかし、瓶中の砂が揺れる音はひとつだけだったので、特定は容易かった。

「あっちだ!」

 三人は一斉に森へと走り出した。

 森の空気はひんやり冷たく、三人をどことなく不安にさせた。

 入口付近の木々は豊満な緑の葉をたくわえていたが、奥へ奥へと進むにつれ、やせ細ったものばかりになっていく。

「なんか、嫌な感じね」

「さっさとひっとらえて、さっさとおさらばしましょう」

「そうだな。空も赤くなってきたし――」

 メルはふいに言葉を切り、足を止めた。

 彼女の視線の先には、例の盗人蛇がいた。下ろせばいいのに、瓶を口に咥えたまま、地面に横たわる太い枝の上で一休みしている。

 つい「いた!」と叫びそうになったマキを、ミヨは人差し指を唇の前に立てて制した。

 そしてミヨは静かに立ち上がる。すると、ミヨの身体がみるみる透明になっていく。二秒もすれば、完全に視界から消えてしまった。

 物音さえも認識の外に放り出し、完璧な潜伏状態でミヨは蛇に近づいていく。

 姿こそ見えずとも、マキとメルにはミヨの作戦はわかりきっていた。ふたりは口をつぐんでミヨの行動を見守る。もっとも、見えてはいないのだが。

 ミヨは足音も匂いもないまま蛇に近づき、蛇の首を掴んで持ち上げた。

 混乱して蛇はじたばたと身体をくねらせた。顎の力が抜けたのか、口から瓶がぽろりと落ちる。

 ミヨは空いているほうの手でそれを受け止めてみせた。

 この蛇だって野生に暮らす生物、対処能力はしっかりあるようで、察知できないはずのミヨの腕にしっぽを巻きつかせた。

 きっとミヨはどうしたらいいかわからなくなっている。そう直感したふたりは顔を見合わせ、無言で頷いた。

 マキは木の陰から飛び出し、ミヨに素早く駆け寄ると、腕から蛇を引き剥がす。そして、大きく振りかぶり、森のどこかへ投げ飛ばした。

 辺りを警戒し耳を澄ませていたメルは、腕で丸を作り、近くは安全という合図を出した。するとミヨの身体に色がつき、安堵の表情をあらわにした。

「どうぞ、メル」

 ミヨはメルに瓶を手渡した。

「ありがとう、ミヨ、マキ」

「地球にもそれの美しさがわかる奴がいるとはね」

「案外気が合うかもしれませんね。ここでもやっていけそうです」

「そうだな。ところでさ」メルは頬をかく。「どうやってここまで来たんだっけ」

 そして三人は出口を求めてさまよった。

 静かな冷気が皮膚や肺を通して体内に入りこみ、少しずつ、気づかないほどゆっくりと体温を拐っていく。

「だいぶ深くまで来てるんじゃないか?」

「もっと葉っぱ付いてる木ばっかりじゃなかったっけ?」

「こんな道通ってませんよ、たぶん」

 歩いては迷っての繰り返し。三人は森をさまよいつづけた。

 森を歩く時間に比例するように、身体もどんどん冷えていく。

 真っ赤な指がじんじん痛い。風が吹くたび耳が痛む。身体の震えが止まらない。

 いつしか空は暗くなり、月から見える空とほとんど同じになった。

 それでも歩くしかなかった。

 やがて、三人は耐えられなくなり、やせ細った木にもたれて座りこんだ。止まった途端、脚が疲れを思い出す。しばらく歩くことはできないだろう。

 風が遮られても、寒さが薄まることはなかった。

「もしかして私たち……遭難しちゃった?」

 メルは誰もがわかりきっていることを口にした。寒さで頭が回らないのか、マキは「そうね」と小さく雑に返した。ミヨに至っては無言である。

 メルは交互にふたりを見た。

 ミヨは、目を閉じたり薄く開いたりを繰り返しながら、ゆっくりと深呼吸をしていた。顔面蒼白で、先行きに絶望を感じているようだった。

 マキは、表情こそ普段通りに見えるが、左目の眼帯の下からは一直線に涙が流れている。つまり、本心ではこの状況に怯えきっているというわけだ。

 励ますように、メルはふたりの肩を抱き寄せる。

「大丈夫だって。私がいるんだぞ? こんな冷たさ、どうにかしてやる」

 メルは瓶をスカートのポケットに移すとローブを脱ぎ、布団のように全員が入るように広げてかけた。その後も、眠気に抗いながら、笑顔を崩さずぽつりぽつりと明るい言葉を紡ぎつづけた。ふたりの相槌や返答はない。ふたりの目は何も捉えていないし、耳には不快な高音しか響いていない。

 だんだん口数が減っていき、ついにはメルも黙りこくってしまった。

 月は、地球よりもずっと暑く、ずっと寒い。そんな環境なので、本来なら兎は高温や低温に耐性を得るはずだった。

 しかし、彼らの祖先が寒暖差を嫌ったため、月全体に温度変化をなくす結界が貼られた。

 そのせいで、以降の世代は強制的にぬるま湯温度で生きることになり、月の兎は暑さ寒さに非常に弱い生物となってしまったのだ。

 ただでさえ普通の人間も長居はできない寒さだというのに、彼女らがこの過酷な環境に耐えられるわけがなかった。

 三人ともかろうじて生きてはいたが、それはただ死んでいないというだけである。

 ローブだけでは寒さに敵わない。ふたりの浅くかすかな息が、風の音に溶けていく。震えの収まった腕でさらにふたりの肌を寄せ、メルは眠りへと落ちることにした。


 翌朝、いちばん早く目を覚ましたのはミヨだった。そして、かかっている布が増えていること、温かな丸い物体――湯たんぽが三人の間に挟まれていることに最初に気づいたのも彼女だった。

「起きたかい」

 声のした方には、紺色のコートを着込んだ若い茶髪の男がいた。倒木に座り、ほっとした顔でこちらを見ている。

 彼の耳や言語から、ミヨは始め天人様かと思ったが、あふれ出る俗っぽさから彼は人間だとわかった。

「ここで温かいもんでも渡せたらよかったんだがねぇ」

 男はミヨの目に視線を戻して尋ねる。

「身体は大丈夫か?」

「はい。ばっちり健康体です」

「ならよかった。それより、こんなとこで寝るなんて、死にたいのか?」

「まさか。自害する気なんてまったくありませんよ。まだ着いたばかりですし」

「遠くの町から来たのか?」

「いや、月です」

「……月?」男は眉をひそめた。

「ええ、月ですよ」

 ミヨは穏やかに寝息をたてるふたりを起こさないよう、そっと抜け出て男に近づいた。そして、長い耳を見せびらかす。

「この通り、月の兎ですので」

 男は目を丸くした。そして、後ろを向いて頬をつねり、ミヨに向き直った。ミヨは少し親近感を覚えた。彼女もよくやるのである。

「すまん、まだ少し、信じがたい……あまりにも見た目が人間っぽくてな」

「そうですか? ではひとつ……」

 すると、男の視界からミヨが消えた。ものすごい速さで走り去った、とかではなく、ろうそくの火が吹き消されるように、ゆらりと消失した。

 驚いた男が辺りを見回していると、背後から首筋に冷たい指がそっと触れた。

 男は「うおっ」と短く低い悲鳴をあげた。振り向いても誰もいない。

 正面からは先ほどの自称兎の笑い声がするが、やはり姿は見えず、物音も聞こえない。

「信じていただけたでしょうか?」

「ああ。信じるしかねぇな」

 ミヨは満足そうに鼻を鳴らす。すると、身体の中心から広がるように色が戻り、あっという間に元通りとなった。カメレオンみたいな兎だ、と男は思った。

「透明になれるのは私だけなので、あのふたりに過度な期待はしないであげてくださいね」

「聞き捨てならないわね、事実だけど」

 ミヨが振り返ると、マキが見ていた。マキは座ったまま、大きなあくびをした。

「マキ、おはようございます」

「おはよう。うう、頭痛いわぁ。おや、その人は?」

「恩人ですよ。怪しい奴じゃありません」

 男は会釈をした。

「体調は大丈夫か?」

「頭が痛いわ。立ってられないほどじゃないけど」

「そうか……なら、ひとまず町に送ってやるから、そこでしばらく休むといい」

「助かるわ、ありがとう」

 マキは立ち上がろうとしたが、地面に手をついた瞬間、硬直した。自分が立ち上がれば、支えを失ったメルは土の上に寝そべることになると気づいたのだ。

「……メルが起きるまで待ちましょう」

「起こせばよくないですか?」

 一瞬たりとも躊躇する素振りを見せず、ミヨはメルの脇腹に手を伸ばし、くすぐり始めた。すると、メルは猫みたいな短い悲鳴をあげた。

「あ、おはようございます、メル」

 メルにばれないよう、ミヨは素早く手を引いた。

「……? おはよう」

 メルは目尻を拭うと、不思議そうに辺りを見回す。そして、明らかに兎ではない男の存在に気がついた。

「誰だ?」

「恩人よ。不審者じゃないわ」

 男はまた会釈をすると、ふたりのときと同じように体調を尋ねた。

「ちょっとだるさはあるけど、まあ問題ないぞ」

 安心したように息をつくと、男は腰かけていた倒木から立ち上がった。

「今から俺の町に向かうが、大丈夫だな?」

 三人はそれぞれバラバラに「はーい」と返事をした。

「よし、じゃあ歩くぞ。足元に気をつけろよ」

 数分も歩くと、やはり案内人がいるためだろう、簡単に森の外へ出ることができた。

 外へ出ると、まず太陽の暖かい光が迎えてくれた。凍りついた身体を優しくほぐしてくれるようで、心地よかった。

 途中の道は退屈だったので、男と三人はとりとめのないことを話した。

 ふと会話が途切れ、男がぽつりと言った。

「あそこは〈冬の森〉って呼ばれててな。年中、特に夜は冬みたいに寒い」

「フユ?」

「サムイって何?」

「『冬』は地球の季節だ。地球はいろいろ変わるんだ。『寒い』は――そうだな。君らが昨晩味わった感覚、で伝わるか?」

「空気が冷たいってことかしら」

「そんな感じだな」

 そして数分も歩くと、町に着いた。

 だが、そこはおおよそ町とは呼べなかった。

 あちこちで茶色く蝕まれて崩れかけた家が並び、枯れ細った植物が土と同化している。人影はおろか、野生動物の姿もない。

 その町は荒廃しきっていた。

「せっかくの地球旅行だってのに……こんな町に行き着くなんて、運が悪いな」

 男は眉を下げて笑った。

 すると、唯一原型をとどめている小さな家の扉が勢いよく開き、焦げ茶のコートを着た黒髪の少女が駆け出してきた。

「兄さん!」少女は男に抱きついた。「遭難してぽっくり逝っちゃったかと思ったよ! その子たちは?」

「遭難者だ」

「そして月の兎でもある!」

 現実味のないメルの言葉に、少女はぽかんと固まってしまった。

「あー、嘘じゃないぞ」と男は補足する。

 少女は頬をつねり、夢ではないと確認すると、ぱあっと無邪気に表情を明るくした。

「兎さん方、ようこそおいでませ。……と言っても、別に代表者でもなんでもないけどね」

 男は少女の肩に手を置いた。

「こいつ、昔から月が大好きでな。ガキの頃は『月の兎に会う!』って何回も何回も言ってたもんだ」

「そうなの。わたしの夢なの。会えて嬉しい!」少女は眩しい笑顔で言う。「わたしは永美なみ。兄さんの妹。よろしくね、兎さん方!」

「そういや俺も自己紹介がまだだったな。俺はなぎ。妹共々、改めてよろしくな」

 三人は「ナミ」「ナギ」と確認するように口に出すと、各々自己紹介に移る。

「メルだ。他より五感が優れてると自負してるぞ」

「マキよ。眼帯は気にしなくていいわ」

「私はミヨ。特技は透明になることです」

 ひととおり終わると、メルは不思議そうに町を見渡した。

「藪から棒で悪いけど、この町、いったい何があったの?」

 凪は永美を見やった。永美の表情から、いくぶんか笑顔が薄まった。

「立ち話もなんだ、家の中で話そう」

 そう言って三人が招かれた彼らの家は、綺麗に手入れされているがどこか質素で、居間や台所など、最低限の部屋しかないようだった。決して広くはないが、生活には十分な空間があった。もっとも、兄妹ふたりで過ごすなら、だが。

 畳の敷かれた居間で、座卓を挟み、兄妹と兎たち、というふうに向かいあって座布団に腰を下ろした。

「少し前のことだ」

 ある日、雨が降った。その雨は海水のように塩辛かった。さらには、肌がべたべたになったり、目に染みたりするのでほとんど誰も外に出なかった。

 もちろん、雨を浴びたのは人間だけではない。町中の土も、塩の雨を飲んでしまった。

 すぐに農作物がぜんぶ枯れた。ひとつも残ってないとわかったときには、町は阿鼻叫喚に包まれた。雨の日に己が身呈して守りに出た者もいたが、無駄だった。

 さらには、錆びついてしまったのだろう、建物にもボロが出始めた。もたれかかっただけで柵が崩れてしまうなど、安心して暮らせなくなってしまった。

 どれだけ町に愛着があっても、こんな有り様では生活はできない。住人たちは、ぽつりぽつりと新天地を求めて旅立っていった。

「そして残ったのは俺たち兄妹だけってことだ」

 兎たちは神妙な顔でそれを聞いていた。

 ミヨが手を上げ、首を傾げた。

「雨が塩水になるのはたまにあることなんです? それとも前例なしの原因不明ですか?」

「前例はないが、原因はわかってる」

「大ガマの祟り、だよ……」

 いつの間にか笑顔を取り戻していた永美が、脅かすように声を低くして言った。彼女の思惑通り、兎たちは顔を引きつらせ、そっと身を寄せた。

「うん、いい反応だね。まあ、祟りの理由はわかってないんだけど」

「祟られるほどなのに、心当たりがないのか?」

「むしろありすぎるんだ。蛙料理が流行ったこともあれば、実験に蛙が多用されることもあった。他にもたくさんある」

「あまりにもわからないからって直談判しに行った人もいたんだけど、蛙の言葉がわからなくてそのまま帰ってきちゃったの」

 すると、三人は顔を見合わせた。そして、代表するように、メルが胸に拳を当てる。

「それなら、私たちに任せてくれ!」

「何か秘策でもあるのか?」

「秘策というほどでもないが、私たちの言語は万能なんだ。神にだって通じる。現に君らにも通じてるわけだからな。つまり、その大ガマにだって通じるはずだ」

「通訳はおまかせください。そして、いざとなったら力でわからせますので、マキが」

 ミヨはマキに屈託のない笑みを向けるが、マキはばつが悪そうに目をそらした。

「悪いけど、私はここで留守番してるわ。さっきからずっと頭が痛いのよ」

「あっ、そうでしたね」

「大丈夫かぁ?」

 両側から、ミヨとメルはマキの頭を撫でた。

 凪は顎に手を当て、しばし考えたのち、口を開いた。

「永美、その子の看病を頼む。そんで、あとのふたり。案内はするから、着いてきてくれるか?」

 ミヨとメルは「もちろんです」「任せとけ!」と、頼もしい返事をした。

「――とは言ったものの、先に食事だな。腹が減ってはなんにもできん」

 凪と永美は台所に入っていった。

「勢いで承諾したけど、大ガマって何だ?」

「どうやら蛙みたいですけど」

「大って付くんだし大きいヒキガエルじゃないの?」

 兎たちが話していると、ふたりが手のひら大のおにぎりをいくつか皿に乗せて戻ってきた。

 パリパリの海苔に巻かれた甘いお米は、塩の効いた鮭ととても相性が良かった。胃が小さい兎たちはすぐに満腹になった。

 そして、少し休んでついに出発した。

 

 ジメジメとした空気の土臭さが鼻をつく。昨日の森と違い、この沼地はそこまで寒くなく、むしろ暖かいくらいだ。

 何度も脚を撫でる細い草たちは、まるで引き返せと忠告しているようだった。

 凪たちはそれに気づかないふりをして歩き続け、やがて目当ての蛙のもとにたどり着いた。

 体表のぶつぶつと、褐色の上に描かれた白と黒の模様が、しめやかに毒々しさをあらわにする。そして、その名の通り、青年の凪よりも何倍も身体が大きく、何倍も威厳に満ちあふれていた。

 凪が息を飲む一方で、ふたりはのんきに蛙を見上げて好き勝手喋っていた。

「ただのでかいヒキガエルですね」

「おーい、私の言葉がわかるか、大ガマさん?」

「ああ。先の無礼な言葉もな」

 ミヨはへらへら笑って頭を下げた。

「何をしに来た人間。そんなちみっこい獣を連れて」

 即座にミヨが通訳という名の復唱をし、凪に伝えた。

「誰がちみっこいだって!?」と憤るメルをたしなめ、凪は巨大な図体にも臆さず、大ガマの目を見据えて答えた。

「あんたの祟りについて、聞きに来た。祟りの理由について、教えてくれないか?」

「理由、だと?」

 大ガマはミヨが通訳する前に言った。

「おや、人間の言葉はわかるんですね」

「当然だとも。儂は大ガマだぞ。喉のつくりのせいで話せんだけだ」

 大ガマは凪に目線を戻した。

「しかし、あれだけしておいて、理由もわかっておらんとはな」

「いや、心当たりはあるらしいぞ」

「それでもわからぬと……なら、仕方ない。話してやろう」

 嫌悪感をあらわにした表情で、大ガマは話し始める。

「まず、ひとつめ。いたずらに塩で蛞蝓なめくじを溶かし、そこらの蛞蝓を皆殺しにしたこと。それによって蛙、蛇、蛞蝓の〈三すくみ〉が崩れ、大勢の仲間が蛇どもに貪り食われる羽目になったのだ」

 ミヨの通訳が追いついていない様子だが、大ガマは構わず続ける。

「そして、ふたつめ。実験だなんだと称し、仲間たちを生きたまま薬漬けにしたり、茹で上げたりしたこと。食うならともかく、そのまま棄てるなど極悪非道そのものだ」

「人間に食べられるのはいいのか?」

「許しがたいが、まあ、一時の流行りであろうしな。というか、蛇どもに食われるのがしゃくでならんだけだ」

 大ガマは凪を睨みつけた。

「さて人間。これを聞いて態度を改め、儂らに山ほど供物を捧げるというのなら、土地の塩を抜いてやらんこともない」

「いやまあ、その、塩のせいで草一本生えない状態なんで、悪いが供物は無理だ」

 苦笑いしながら凪は言った。想定外だったのか、大ガマは言葉をつまらせた。しかし、直後には卑しい笑みを浮かべていた。

「――そうだな。では、蛇の大将〈大蛇おろち〉に、蛙を食うなと交渉してきてもらおう。せめて蛙の数が戻るまでは、と。生死は問わん」

「交渉に生死とかあるのか?」

「それでその……おろち? はどこにいるんです?」

「〈冬の森〉だ」

 聞き覚えのある地名が出てきたので、メルとミヨは耳をピクリとさせた。

「〈冬の森〉って、昨晩私たちが死にかけた」

「そう、あそこだな。だが、一度町に戻ろう。寒さ対策しないとまたああなるし、マキちゃんの様子も見ときたいしな」

 凪たちが町に戻ると――しっかり建っていたはずの兄妹の家は、周りと同じような瓦礫の山と化していた。

 留守番していたふたりは、どうやら無事なようで、その山に座り、何かを話しているようだった。

 永美が凪たちに気づき、大きく手を振る。

 凪たちが近づくと、ふたりは軽やかに降りてきた。

「無事でよかった。祟りの件、どうだった?」

「まだ先が長そうだ。じゃなくて、だな。これは一体……ふたりとも怪我はないな?」

「わたしは無傷だよ。マキちゃんが助けてくれたんだ」

 メルとミヨは視線と表情でからかった。マキは頬をかいた。

「突然崩れたのよ。なんでかわかんないけど」

「うちも錆びてたんだろうな。ひとまずしばらくはテントで生活だな。見つかるかな……」

「私たちも探すの手伝います」

「私の目とか鼻とかに任せろ!」

 わあわあ騒ぎながら、三人は押し入れだった場所を捜索する。そのうしろで、永美はマキの肩をつついた。

「わたし特製眼帯の調子はどう?」

「おかげさまで、あったかいわ」

 柔らかく笑ったマキを見て、永美は満足気に顔を輝かせた。


 時間を少し戻し、三人が大ガマのもとへむかっている頃。

「マキちゃん、大丈夫?」

「……原因はわかってるのよ」

「そうなの? 夜ふかし?」

 マキは目を泳がせ、ためらったのちに、意を決したように永美の目を見据えた。

「怖がらないで聞いて。私の左目に目玉はなくって、花が咲いてる。それで、その花が凍ってるんだと思うわ」

 永美は頷きながらそれを聞いていた。

「冷凍物を融かすっていうなら太陽だよね。玄関出たとこ、結構日当たりがいいんだ。どう?」

「……怖くないの?」

 永美は首を横に振った。

「何が怖いのさ。それよりほら、頭痛治そうよ」

 永美に手を引かれ、扉の外で、マキは永美と背中合わせになるように後ろを向いた。眼帯にかけた手を止め、マキは振り向かずに言う。

「……見ないでよ?」

「見ないよ」

 永美が見ていないことを改めて確認すると、そっと眼帯を外し、日光にさらした。

 その孔に目玉はなく、一輪の小さな花が咲いていた。昨晩の寒さによるものだろう、花はところどころ凍りついており、日光がきらきらと反射する。

 いくら太陽の光といえど、一瞬で融かすなんて不可能だ。緩やかに和らぐ痛みの中、暇を持て余したマキは、永美に話しかける。

「ナミは、この町が好きなの?」

 永美は腑抜けた声で答える。

「んー、好きだった、かなぁ」

「過去形なのね」

「こんな有り様じゃ、さすがにね」

「出ていこうとは思わないの? お兄さんとふたり、どこか遠くの素敵な町に……とか」

 愛おしそうに微笑んで、永美は答える。

「初日の晩に考えたよ。でも、兄さんはそんなこと眼中にないみたいなんだ。まっすぐなんだもん、そんなこと口が裂けても言えないよ」

 マキは何も言えなかった。

 すると、背後で永美が「そうだ!」と言って、何やらゴソゴソやりだした。

 永美はポケットから布や裁縫道具などを取り出していた。そして、一分も経たないうちに、「できた!」と完成品を掲げた。

 それは眼帯だった。

「この短時間で作ったの?」

「縫い物は得意なの。さあ、どうぞ」

 よく理解できないまま、マキは後ろ手で受け取った眼帯を着ける。すると、その表面がもこもこであることに気がついた。

「あったかい……」

 すると突然、ミシミシと音が鳴った。小さな欠片もポロポロ落ちてきた。

 ――家が崩れ始めてる。

 そう直感したマキは、家を見上げて困惑する永美の身体を抱え、道の方へと足を踏み出した。

 走り出した途端、乾いた轟音とともに、家は のように崩れた。

 間一髪で、ふたりは下敷きにならずに済んだ。

「ふぅ、怪我はないわね?」

「うん。助けてくれてありがとう。にしても驚いたよ……家が突然なくなるなんて」

「案外平気そうね。ねぐらがなくなったのに」

「薄々そんな予感はしてたから、覚悟はできて――」

 永美はふいに口を止めた。その目線の先には、家だったものに身体を捕らわれた蛇の姿があった。

「蛇が下敷きになってる!」

 突然のことにマキは驚きながらも、永美とともに蛇のもとへ駆け寄った。

「私が周りの物を持ち上げるから、ナミはそいつをお願い」

 蛇は半ば諦めかけていたのか、永美が掴んでもまったく抵抗しなかった。やはりマキの力は凄まじく、蛇の周りには子供ひとり入れるような空間ができた。

 永美は優しく蛇を引き出し、森のほうへ離した。蛇はふたりのほうを一瞥すると、スルスルとどこかへ走り去っていった。


 現在に戻る。

 三人が無事にテントを見つけ、皆で協力してテントを張った。そして最低限の生活用品を掘り出し、仮屋を作り上げた。

「じゃ、俺らは〈冬の森〉に行くから、ふたりはまた――」

「私も行くわ!」

「わたしも行きたい!」

 ほぼ同時だった。

 凪はまずマキのほうを見る。

「大丈夫なのか? あの寒さにやられたんだろ?」

「そういや、頭痛は治ったんです?」

「とっくに治ったし、大丈夫よ。ナミのおかげでね」

 そして凪は永美のほうを見た。

「永美……お前も行きたいのか?」

「うん。家と違って、テントは危ないでしょ? 野良犬とか来たら怪我しちゃうかもねぇ?」

 永美はいたずらっぽく目を細めて、兄の目を見つめた。

「うっ……だがなぁ、万が一奴が襲ってきたりしたら……」

「私たちが護衛するから大丈夫だ。ちょっとでも触れようもんなら、叩き潰してやるよ、マキが」

「やっぱり私なのね」

「――危なくなりそうだったら、すぐに逃げろ、いいな?」

「やった! 面白そうだと思ってたんだよね」

 魂胆がうっかりこぼれ、永美は慌てて口を押えた。凪はため息を吐いた。


 森は相変わらず寒く、防寒着を身に着けていない兎たちは、毛布を羽織って歩いていた。彼女らの毛布も兄妹のコートも、瓦礫の下から引っ張り出したものなので、少し埃っぽい。

 道中、何度も蛇と出くわした。まるで、偵察に来ては報告に帰っているかのようだ。

 大蛇と会うのにそんなに時間はかからなかった。まっすぐ進んだ先、少し開けた所に大蛇がいたので、一切迷うことはなかった。

 背の高さこそ大ガマと同じだが、長さはその倍以上はあり、気づけば五人は尾で丸く囲われていた。

 大蛇は何も言わず、こちらの行動を待っているようにただ見つめている。その視線は、尖った針先のように鋭かった。

 ただでさえ寒い森がさらに凍りつくような空気の中、凪と大蛇はただ睨みあっていた。

 すると、蛇が二匹、草影から飛び出した。彼らは、重々しい空気に気圧されながらも大蛇のもとへ近寄ると、何かを耳打ちした。

「……なるほど、承知した。下がりなさい」

 大蛇の目から、いくらか冷酷さが薄まったように見えた。

「貴様らがこうして取り囲まれているのは、そこの眼帯をつけた娘、貴様に非道な暴力の果てに投げ飛ばされたという者がいたためだ。しかし、たった今、貴様とそこの娘に我が子を救われたと言う申し出があった。どちらも本当なのか?」

 覚悟をするように息を吐き、マキは答える。

「後者は完璧な事実。前者は脚色と端折りがひどいけど、投げ飛ばしたのは事実よ」

 兄妹への通訳も忘れ、兎たちは当時何があったか説明した。状況を把握できていない兄妹は、冷や汗を垂らしながら、蛇と兎の問答を黙って眺めていた。

「何、盗みを?」

 大蛇は本人を呼び出し、「本当なのか?」と尋ねる。盗人蛇は数秒渋った末に、こくりと頷いた。

「これはこれは……うちの馬鹿が失礼した」

「私たちもやりすぎたわ、ごめんなさい」

「――とすると、用件とは仇討ちか?」

「いや、交渉だ。大ガマから派遣されたんだ」

 大蛇は『大ガマ』と聞くやいなや、目を閉じてこもった笑い声をあげた。

「あいつが、交渉。いったいどんな内容だ?」

「蛙を食うな……だっけ?」

 メルは凪のほうをちらりと見た。

「ああ。俺たちのせいで減った蛙がまた増えるまで待ってほしいとのことだ」

「ということです」

 大蛇は鼻で笑った。

「そうか。だったら、蛙よりも美味しいものを流行らせてみたまえ。この交渉を成功させたいのなら、必死で考えることだな」

 その言葉に呆れ、メルは大蛇を見上げた。

「やい、お前は蛇の長なんだろ? 民草のことくらい自分でなんとかしろっての」

「長だから、使える手は最大限使う。すべてひとりで請け負うのは馬鹿のやることだ」

 そうして、いやいやながらも喧々諤々考え続けた。ミヨは枝で地面に絵を描き、永美は蛇を手懐け、楽しそうに遊んでいた。

「もう決闘で白黒つければいいんじゃないの」

 飽きてきたメルのぼやきに、大蛇はぴくりと反応した。

「それだ! うむ、それがいい!」

 大蛇が急に大声をあげたので、その場にいた皆が驚いた。大蛇はいやらしく笑った。

「いやあ、思ったより賢いのだな。文殊の知恵すら出せないかと思ったぞ。なるほど、これは効率がよい。我があいつに負けるはずないしな」

 大蛇は蛇を一匹呼び、遣いに出した。

「それはさておきだな。貴様らがここまでするには何らかの理由があろう」

 凪は、大ガマの祟りとその結果を話した。

「なんだ、そんなことか。では盗みの詫びも兼ねて……」

 大蛇は空を向き、目を閉じた。数秒すると凪たちのほうに向きなおり、「終わったぞ」と言った。

「さあ、ここからは我々の話だ。貴様らは帰ってよいぞ。ご苦労であった」

 なんだか釈然としないまま、五人は森をあとにした。永美は相当懐かれたようで、彼女にだけ見送りがいた。


 家があんななので、食べ物は非常食がほんの少ししかない。留守番を任せ、兄妹は隣町へ食材を買いに行った。

 暇を持て余した兎たちがうとうと眠りかけていると、突然、地響きがした。すっかり目が覚めた三人が飛び出してみれば、町の入り口に大ガマがいた。

「ついさっき振りだな、獣」大ガマの声色は明るかった。「おや、人間はいないのか」

「あれ? 勝ったの?」

「ああ。威勢のわりに、随分弱っちかった。頭でっかちなんだろうな。さあ、約束どおりに塩を――」

「それなんですけど、実は既に大蛇さんがやってくれていてですね……」

 大ガマの目がギョロリとミヨの方を向く。

「何? ああ、つくづく腹の立つ奴だ……しかし、礼を渡さんのもなぁ……そうだ」

 大ガマは十数匹の蛙を呼び寄せ、何かを運ばせた。それは、三人が地球へ来るために使った黒い石と瓜ふたつであった。

「代わりになるかわからんが、先日拾った石だ。儂の倉にある中で、最も禍々しく、最も美しい」

 ミヨは石を受け取った。礼を言いかけたときには、大ガマは上空に飛び上がっていた。そして、遠く響く音とともに、沼地に着地した。

 日が暮れかけた頃、兄妹が帰ってきた。

 兎たちは大ガマが来たことを話した。兄妹ふたりとも、大蛇が勝つと思っていたらしく、驚いていた。

「ひとまずなんとかなってよかったよ」

「迷惑かけたし、町が復興した暁にゃ、祠でも作ってやろうかな」

 永美はミヨが抱えている石に気づくと、目を丸くし、足早に駆け寄った。

「それ、ちょっと見せて。ふむふむ……やっぱり、これは〈奇跡の隕石〉だ!」

 聞き覚えのある名に、兎たちは驚きの声をもらした。

「割れば月へ行けるって噂の石なんだ! まさかこんな身近にあったとはねぇ」

「ほしいならあげるわよ?」

 永美は恐る恐る手を伸ばしたが、歯を食いしばり、惜しさのにじみ出る顔で手を引いた。

「いや、もらわないでおくよ。帰り道、必要でしょ?」

 兎たちは石を見つめ、そして互いの顔を見た。


 夜になると、夕飯を食べ、兄妹と兎たちでふたつのテントに分かれて寝支度をした。

 布団に入って目をつむっても、どうしても寝つけないときがある。今夜のメルは、ちょうどそれだった。夜風に当たりたくなり、ふたりを起こさないようにして外に出た。

 夜は真っ暗で、空気も冷えているが、昨日の森ほどではない。少しの間なら、ローブだけでも平気そうだ。

 ――たくさん詰まっていたわりに、あっという間な一日だった。

 メルが兄妹のテントのほうを向くと、月光で不気味に照らされた凪が座っていた。油断しきっていたメルの肩が跳ねた。

 凪は前を向いたまま口を開く。

「寝れねぇのか?」

「枕が変わると寝つけない性質なんだ。ナギも?」

「なんとなく寝たくなかっただけだ」

 夜の静けさに、風の音だけが響く。

「ねえ、こんなになっても、この町を離れなかったのはなんでだ?」

「離れる理由がないから、だな」

「あるように見えるけど。植物も生えないし、家もない」

「そんなの、離れる理由にはならん。あとからなんとかすればいい話だ。まあ、結局は故郷を捨てたくないってだけなんだけどな」

「ふぅん。じゃあ、ナミが他の町に行きたいって言ってたら?」

「そんなの、すぐに出ていってたさ」

 凪は困ったように笑った。月の光が当たり、凪の顔立ちはいっそう整っているように見えた。

「――帰るなら今のうちだぞ」

 その声は、うっすらと寂しさを含んでいた。

 メルは一切ためらわず答える。

「帰らないさ。帰る理由ないし」

 だんだん身体が冷えてきたので、メルは凪に「おやすみ」と挨拶して、テント内に戻った。すると、マキとミヨが、石を挟んで何やらひそひそ話していた。

「起こしちゃった?」

「ずっと起きてたわよ」

「私も、眠れませんでした」

 ふたり――ではなく三人は、皆石のことが気がかりだったらしい。

「まさか地球にもあったなんてね」

「この石が月と地球の通路ってこと? それともただの扉?」

「そんなことはどうでもいいのよ。問題は、私たちの帰り道ができてしまったこと」

「お塩で穢れも祓えますしね」

 ふと、三人は顔を合わせた。そして、同時に噴き出した。

「何言ってるのかしらね、私たち」

「そうですね。寝ますか。明日の仕事も大変そうですし」

「早く育つといいなぁ」

 兎たちは目を閉じた。疲れていたので、すんなり眠りに落ちることができた。


 そして何十年か経つ。

 その町の立て札には、こんなことが書かれている。

 祟りによって荒廃した町にふたりきりで住む兄妹のもとに、ある日月の兎が現れた。

 兎たちの尽力によって祟りは消え去り、町に緑があふれた。さらに、その後しばらくは豊作が続いた。

 ふらりと立ち寄った迷子や旅人たちが、よくわからない居心地の良さに惹かれ、そのまま住人となった。

 やがて町は賑わい、兄妹が暮らしていたかつての町とは比べ物にならないほどになった。

 兄妹が天寿を全うしても、兎が月に帰ることはなく、今も町でのんびり暮らしている。

 そして、端っこにはメモ書きのように、「詳しいことが知りたかったら、兎の家まで来るように」とあった。

 立て札の左右には、兎たちと関わりがあったのだろうか、大ガマと大蛇の祠がある。そのためか、蛙と蛇を、そしてなぜか蛞蝓も大切にする、という風習が残っているのだとか。

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月の兎が住む町 へびぼたん @hevibotan

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