水平線の向こうまで
れもん
第1話
「アレア、おはよう」
海水を通してくぐもって聞こえたその声を耳にして、アレアは瞑っていた目を開けた。嬉しそうに口元に笑みを浮かべて、一気に水面まで上昇する。
アレアが海の中から顔を出した場所は、崖を背にして形成された小さな入り江の、さらに端の部分だった。そこは岩場になっており、アレアの唯一の友達である少女は、岩の中でも一番大きく平らなものの上に立っていた。
「アオイ! 今日は学校、ないの?」
「うん。もう夏休みだからね」
アオイの立つ岩の上に腕を預けたアレアの背の後ろで、海の色が透けている半透明の尾びれがひらりと揺れた。水滴を零しながら水中から現れた、その尾びれに連なる鱗は、朝日を反射して虹色の光を放つ。この海の中で暮らすアレアは、足の代わりに魚の尾を持っていた。
アオイはアレアの前にしゃがみ込んで、その瞳を覗き込む。
「やっぱり、アレアの目は綺麗だね。朝はここにも日差しが入ってくるから、いつもよりきらきらしてる」
「ふふ、いつも褒めてくれるよね。わたしもアオイの目、好きだよ。わたしは青だけど、アオイは茶色なの。すごく、きれい」
青色の瞳の中にアオイの姿が、茶色の瞳の中にアレアの姿が映り込んでいる。笑顔で言葉を紡ぐアレアを見つめて、アオイは相好を崩した。
「……あ、今アオイ、笑った!」
「だって、アレアがいつも笑ってるんだもん。私だって笑うよ」
「でも、最近のアオイ、なんだか悲しそうだったから」
アレアの言葉に、アオイはわずかに目を見開いて口をつぐんだ。だが、すぐにいつも通りの無愛想な表情に戻り、話題を逸らすように話を続ける。
「そんなことより、暑くない? 朝のうちはずっと日差しが当たるでしょ、そこ。早く日陰に行こう」
「……うん、そうだね」
アレアが頷くのを確認すると、アオイはふいと顔を背け、すいすいと飛び跳ねるような勢いで岩の上を伝って、東向きに開けた入り江の中で唯一朝日の当たらない場所へと向かった。潮風で薄い水色のワンピースが膨らみ、肩ほどで切り揃えられた栗色の髪の毛がやわらかに揺れる。
それを数秒間見つめた後、アレアは水に潜ってアオイを追った。ぎりぎり体を伸ばせるほどの深さの中、小さな泡が立ち昇り、空から降り注ぐ光がゆらゆらと揺れているのが目に入る。海の中で暮らし、冷たい海水の中で眠るアレアにとって、夏の日差しはアオイよりも暑く感じられる。それでも、アレアの目の前で揺らめく光はどうしようもなく綺麗だった。
日陰に辿り着いて、美しい日の光の中に長くいられない自分を恨めしく思ったアレアだったが、すぐにそんな暗い思いは吹き飛ばされることになる。先に着いていたアオイが、小さな巾着袋を持ってアレアを待っていたことに気がついたからだ。
「それ! ねぇ、何を持ってきたの?」
「今日はね、腕時計だよ」
「腕、どけい?」
アオイは、よくこうしてアレアの知らない物を持ってきてくれるのだ。袋の中から出てきたのは、腕時計というものらしかった。手のひらに収まるほどの大きさの薄くて丸い透明なガラスの中に、以前アオイに教えてもらった数字と、二本の棒が閉じ込められている。そのガラスの器の周りは銀色の硬いもので覆われていて、それに連なるようにして同じ質感の細長い板がたくさん付いていた。どうやら板は全部繋がっているようで、ぐにゃぐにゃと曲げられるみたいだ。
「わあ、不思議な形。銀色がつるつるしてて硬そうなのに、どうしてわざわざ曲げられるようにしてるの?」
「それはね……ほら、こうやって腕につけるためだよ」
アオイが自分の腕に腕時計の板を沿わせ、かちゃかちゃと端の部分をいじると、それはアオイの腕に巻き付いたままぴたりとその場に留まった。
「あっ、だから『腕』って名前に入ってるの? すごいね、こうするとアオイの腕にくっついちゃったみたい」
「うん、腕につけるから『腕時計』なの。大丈夫、何度だって取り外せるから、アレアも好きにつけていいよ」
アオイが自身の腕にくっついた腕時計をもう一度いじると、それは呆気なく外れ、元の形に戻った。アレアが手のひらをアオイに向けて伸ばすと、腕時計はアレアの手のひらの上に落ちてきた。
改めて間近で腕時計を眺め、ガラスの中に閉じ込められていた棒は二本だけでなく、もっと細いものがもう一本あることに気がついた。円に沿って並ぶ数字を指すようにして、小さな三本の棒が並んでいる。
「ねぇ、これ数字が丸く並んでるよ。数字ってものを数えるためにあるって言ってたけど、これは何を数えてるの?」
「えっとね、それは時間を数えてるの。前に言ってたよね、私達は時間に合わせて過ごしてるって」
「うん、覚えてるよ。わたしには難しくて、よく分からなかったけど。時間って、数字で数えるんだね」
腕時計を見つめているアオイは、なぜか少し寂しそうだった。ずっと前から共にいるアレアには、表情に乏しいアオイも、よく見れば少しずつその顔つきを変えていることが分かる。感情はきちんと表情に現れているのだ。
どうして寂しそうなのかとアレアが尋ねようとしたところで、アオイが口を開く。アレアは口を閉じ、出しかけていた言葉を飲み込んだ。
「実はそれ、もう壊れてるから時間を数えられないの。でも、アレアには時間なんて必要ないでしょ? だからそれ、アレアにあげたかったの」
その言葉を聞いたアレアは、怪訝に思って眉をひそめた。
ビー玉、ハンカチ、帽子、色鉛筆――その他にも色んなものを、今までアオイから受け取ってきた。その度に初めて見るものに心を躍らせ、それをもらって、何度も眺められることを喜んでいた。
アレアの気持ちは今回も同じだが、アオイがこうしたものをアレアに渡すときにはいつも、「同じものをいくつも持っているから大丈夫」と言っていた。それに対して、この腕時計を渡す理由は普段と違う。
「そう、なんだ。時間が数えられなかったら、アオイはこれ、いらないの?」
アオイは一瞬息を止めて、アレアの手に乗った腕時計に視線を向けた。
「……うん、いらない。私は、アレアみたいに海の中では生きられないから」
小さな声が、二人の鼓膜を震わせる。アレアは、すぐに返事をすることができなかった。
アオイはわずかに羨望の混じった声を誤魔化すように、アレアの言葉を待つこともなく、すぐに話題を切り替えた。一瞬の違和感は、他愛のない会話に飲み込まれ、しだいに薄れていった。
「あっ、私そろそろ行かなきゃ。しばらくしたらまた戻るから、待ってて」
「うん、待ってるね」
太陽が空の一番高いところに登ったところで、アオイはそう言って入り江を出て行った。ぎりぎりお互いの姿が見えるところで手を振るアオイに、アレアが手を振り返す。すぐにアオイの姿は岩の奥に引っ込んで、見えなくなった。
再び一人きりになったアレアは、海の中に体を沈め、手首に巻き付けた腕時計を眺めた。かつてアオイからもらったハンカチは海に入れると色が変わってしまったけれど、腕時計は海の中でも変わりなく銀の光を放っている。
波に揺られながら、アレアはアオイと過ごしたひとときに思いを巡らせていた。アレアにとって、アオイと話しているときだけが、心の底から楽しいと思える時間だった。それ以外の時間といえば、何一つ変化のない海の底に漂うだけで、つらくも苦しくもないけれど、ただひたすらに退屈だった。
アオイただ一人だけが、アレアの話し相手だった。たった一人だけ、それも海ではなく陸で生きる人間であっても、アオイがいるからこそ、アレアは笑って生きていられるのだ。
それゆえに、最近憂いを帯びた表情を見せることが多いアオイのことが気にかかっていた。もともと表情豊かというわけでもなかったが、一緒にいるときにふと見せるアオイの笑みは、溢れた幸せによって自然に形づくられていて、アレアはそれを見るのが大好きだった。だから、その笑顔が減ってしまうのはひどく悲しかったのだ。
「アレア! アレア、いるなら出てきて!」
突然、叫び声に近いアオイの声が耳に届いた。ただごとではない様子のその声に、アレアは慌てて海の上に浮かび上がる。
海の中から現れたアレアの姿を見て、少し離れた海辺に立っていたアオイはほっとしたように息をついた。ここまで走ってきたのか、その頬は紅潮しており、息を切らして荒い呼吸をしている。
驚いて目を見張ったアレアがアオイのもとに向かうよりも先に、アオイは服が濡れるのも厭わずに海に入り、波をかき分けてアレアのもとへ走った。呆けていたアレアも我に返って、すぐにアオイの側まで泳ぎ寄る。
「アオイ、どうしたの? 何かあったの?」
「……誰かに、会ってないよね?」
「誰かって、アオイ以外の人にってこと? 誰にも会ってないよ」
「よかった」
アオイは今度こそ本当に安心した様子で息を吐き、顔を伏せた。そのまま動きを止めたアオイに、アレアは少し迷ってから、そっと手を伸ばした。海水に浸かって冷えた手を掴むと、アオイは驚いたように顔を上げる。
「……熱く、ないの?」
「今は冷えてるから大丈夫だよ」
海の中で暮らすアレアにとって、人間の肌の温度は熱く感じられる。普段よりも冷えたアオイの手は、冷たいとまでは感じられなくても、心地よい温かさだった。
ためらいがちに握り返された手から、わずかに血の流れる拍動が伝わる。いつもは気遣ってアレアに触れないようにしてくれているため、その温度を感じられるのは新鮮な気持ちだった。
「……ねぇ、アレアはずっとここにいるの?」
「うん、そうだよ。そのつもりだよ」
「じゃあ、一つお願いしてもいい? 私以外の誰かがもしここに来ても、絶対に近寄らないでね」
真剣な顔つきでまっすぐに目と目を合わせ、アオイは言う。でもその手は小さく震えていて、祈るようにアレアの手を両手で包み込んでいた。
「……アオイが言うならそうするけど、どうして?」
「……私の、私の周りの人は……みんな、アレアがここにいるんじゃないかって、気づき始めてて、それで」
「それで?」
途中で口ごもったアオイにアレアが先を促すも、なかなか続きを話そうとしない。何度か口を開けたり閉じたりを繰り返した後、アオイは首を横に振った。
「ごめん、詳しくは言えない。でも、きっと仲良くはしてくれないと思うの。だから、隠れて。お願い」
「……うん、わかった」
アレアが頷くと、アオイはぎこちなく笑った。
ありがとう、と一言だけ残し、アオイはアレアの手を放した。そのまま入り江を出て行ったアオイは、その日、入り江には戻ってこなかった。
アオイと別れてから、いつものように日は沈み、夜がやってきた。
暗い闇に覆われた静かな海の中、半ば眠りにつきかけていたアレアは、海の外から聞こえる声に眉根を寄せた。これは、アオイの声ではない。しかも、複数人が集まっている様子だ。
訝ったアレアは海底から上昇し、そっと海面から目だけを出して辺りの様子を窺った。すると、入り江の海岸、アオイしか足をつけることのなかった岩の上に知らない人間が立っているのが目に入る。その側には小さな船らしきものの影も見えた。
そして、次の瞬間。強い光がまっすぐ海の上を走った。その光はすぐにアレアのところまでやってきて、あまりの眩しさに目を細めた。夜の間、こんなに明るい光があるはずがないのに。
月明かりよりも明るいおかしな光の出所で、黒い人の影がうごめいた。
「いたぞ!」
「早く捕まえろ!」
静かな海に響き渡った声に、アレアはたじろいだ。あの人たちは、何をしようとしているのか。
分からなくても、アオイに言われたことははっきりと覚えていた。約束通り、逃げなければいけない。海に潜って逃げようとしたところで、聞き慣れた高い声が、夜の淀んだ空気を貫いた。
「やめて!」
アオイの声だ。海に潜るのをやめて顔を上げると、船に乗り海へ進み出そうとしていた三人の人間も後ろを振り返っていた。
「どうして、アレアを捕まえようとするの。あんな話を信じるの?」
白いワンピースとそこから伸びる白い足が、月明かりに照らされて薄らと浮かび上がっていた。この暗さでは、アレアのもとからその表情を窺うことはできない。
「……アオイ。なぜお前はあんな化け物と――」
「違う! 何も知らないのにそんなこと言わないでよ!」
人間の低い声を遮ったアオイの声は、泣き出しそうに歪んで聞こえた。アオイは動きを止めていた舟に乗り込むと、船べりから身を乗り出して叫ぶ。
「アオイ、どうしたの? この人たちは、何を……」
「アレア、逃げて!」
気がつけば、人間たちはアオイを無視してアレアのもとへと進み始めていた。アオイのことは気になったが、逃げてと言われたのに無視するわけにはいかない。沖の方に向かって泳ぎ始めたとき、背後から聞こえる騒ぎ声と、船の上を歩く足音が増えた気がした。
「あ」
これまでと違い、小さいアオイの声がした。勝手に口から溢れてしまったような、呆然とした声。
思わず振り返ったアレアの目に映ったのは、傾いたアオイの体だった。半分船の外に出ていた体がくるりと回転し、普段地についている足裏が空を向く。
アオイの後ろには一人の人間の手のひらがあり、アオイはその手によって突き飛ばされたのだと、アレアはゆっくりと理解していった。
船から滑り落ちた体が、だんだんと藍色の水面に近づいてゆく。
じゃぼん、と音がした。ゆっくり動いているように見えた出来事はその実一瞬のことで、海の上に落ちたアオイは、すぐに沈んで見えなくなった。
「アオイ!」
こちらに迫っていた舟のことも忘れ、アレアは海の中に潜り、先程とは逆の方向へと泳いだ。その先には、静かで重苦しい藍色の中に浮かんだ白が、眩しさを失ってただ揺らめいている。アオイが身にまとうワンピースだ。
普段は気にすることもない水の重さが鬱陶しい。早く、早く。その手を掴み、引き寄せる。アオイの口から漏れた空気が泡となって、目の前に立ち昇った。
そうしてアオイの体を腕に抱えたところで、海の上から何かが降ってきた。咄嗟に避けると、さっきまで二人がいたところに鋭く尖った銀色の石のようなものが見えた。長い木の棒の先につけられていて、船に乗る人間が振り下ろしたもののようだ。
アレアにとっては初めて見るものだったが、これだけ尖ったものが勢いよく体の上に降ってくれば怪我してしまうのは明白だった。
アオイを抱えたまま急いで泳ぐ。船もかなりのスピードで追いかけてきていたが、アレアのスピードには追いつけなさそうだった。
ある程度船から離れたところで、アレアは水面に浮かび上がり、アオイの顔が外に出るようにした。人間は海の中では息ができないから死んでしまうと、ずっと前にアオイから聞いていた。
「アオイっ、大丈夫? 死なない?」
「げほっ、大丈夫、これくらいなら。それより早く行って!」
数回咳き込んだものの、しばらく海中にいたアオイが無事だったことにアレアは安堵した。
今度は顔だけを外に出したまま海の中を進んでいった二人だったが、途中で何かに体が引っかかり、その動きが止まった。
「わっ、なにこれ」
「これ、網? あいつら、いつの間に……」
憎々しげに呟いたアオイは、まずアレアの体に絡まった網をほどきにかかるが、その間にも船はこちらへと迫ってきている。
「ほどけた! アレア、ここの網下げるから早く先に行って!」
「でも、アオイはどうするの?」
濡れて重くなったアオイの服は網に絡まってしまっていて、アレアのときよりもほどくのが大変そうだ。それに、アレアに掴まっていなければ、濡れた服を身にまとった状態のアオイは浮いていられないだろう。
「私は海に逃げられないけど、アレアなら大丈夫でしょ? いいから早く!」
アオイはそう言うと海に潜り、網をかき分け始めた。アレアがこのまま迷っていては、せっかくアオイが逃がそうとしてくれているのにそれを無駄にすることになってしまう。
アレアは数秒逡巡したのち、アオイの方に向き直って網をほどき始めた。
「……はぁっ、ちょっと何してるの! それじゃ追いつかれる、でしょ」
通り道を作るために潜っていたアオイが顔を出し、息を切らしながら言い募る。だが、アレアも心に決めたことを譲るつもりはなかった。
「アオイをあの人たちの来るところに置いていけないでしょ! 大丈夫、わたしがちゃんと連れて行くし、間に合わせるから!」
アレアが海中から叫ぶと、アオイは虚を突かれた様子で口を閉じた。
アオイはアレアばかりを逃がそうとしていたが、アレアだってアオイを助けたかった。アオイの笑顔を奪う地上には戻らせたくはなかった。
「よし、ほどけた! 行こう!」
船はもうすぐそこまで迫っていた。無理やり網を押し下げて通り抜けられる隙間を作ると、二人はお互いの体をしっかりと掴み、共にその先へと進んでいった。網をくぐり抜けるぎりぎりのところで、アレアの尾ひれをかすめて銀の鋭い光がよぎったが、とうとうそれがアレアの体に突き刺さることはなかった。
二人は、広い海の先へと逃げ出した。
アレアの泳ぎでぐんぐん進んでゆけば、アオイの暮らす村があった島はあっという間に小さくなって、見えなくなった。ちっぽけな船だって、もちろんもう見えない。
二人は顔を見合わせて、口元をほころばせた。やがて顔いっぱいに広がった笑顔は、やわらかな月明かりに照らされて、何よりも明るく輝いていた。
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