第3話 プロボクサーへの道
──ボクシング……それは拳と拳の殴り合い。パンチのみのルールはもっともシンプルで、世界的にも人気高い格闘技である。
「さあてと……今日からプロボクサー東谷を目指して、とっとと成り上がってやろうじゃねえの」
俺は息巻いてボロボロのボクシングジムの前にいた。昨日、契約書を書いたあの瞬間から俺の新たな伝説が始まったのだ。
必ず、必ず俺はいつの日か野球界に戻るべく、この下積みをこなすのだ。
「おはよーーございやす!」
朝っぱらから勢いよく曲がった扉を開くと、そこにはジムを掃除する愛しのあの子がいた。
「あっケンちゃんおはよう! 今日からよろしくね」
「へへっ、おはよう洋子ちゃん。まかせてくれ、一日でも早く俺がこのジムを全国に名を轟かす有名ジムにしてやんよ」
ださいジャージ姿で俺はキメ顔で言った。
「おっ来たなジョーよ。逃げずに来るとは関心関心」
「ケンな。俺は逃げるなんてだせーマネしねえよ。男なら乗りかかった船なら沈むまで仁王立ちよ」
よくわからない決めセリフを吐くと、俺は腕をぐるぐると回して準備体操をする。
クマのオッサンは昨日とは違い、酒焼けた声だがアルコールの抜けたシャキッとした顔で、朝から張り切ってるようだ。
「よおし、それじゃあジョー……じゃなくて拳坊。さっそくだがトレーニングと行こうじゃねえか」
クマのオッサンが俺にそう言うと、縄跳びを渡してきた。
「あん? 縄跳び?」
「まずは基礎体力からだ。ちょっとおめえを測ってやる。縄跳びと反復横跳びと……そこの木の
どうやらオッサンは、俺を筋肉だけの男だと思っているらしい。
「オイオイ俺はさっさとボクシングをやりたいんだっての……ま、見せた方が早いか──!」
俺はため息をつくと、すぐさま縄跳びを始める。
「見てやがれクマのオッサン! 洋子ちゃんも俺の身体能力、とくと味わってくれ!」
俺は軽く三重飛びを数十回ほど見せ、次に反復横跳びを流れるようにこなし、極めつけに懸垂を片手ですごい早さでやってみせる。
「すごい……! さすが元プロ野球選手!」
「ほう……基礎体力、および筋肉はもうかなり出来上がってるな……よし、拳坊! おめえの身体能力はよくわかった、まずは簡単なボクシングの基礎を教えてやる。いいか、こう構えて……」
オッサンが俺にレクチャーをしようとするが、
「ちょっと待ってくれよ。回りくどいのは嫌いだ、俺けっこう腕っぷし強いぜ? こう、なんつーか必殺パンチみたいなの教えてくれりゃ簡単に勝ってやるって」
へへへと、俺は自慢の腕の力こぶを見せてアピールする。
「はぁー……おい拳坊、それつけてちょっとリングに上がりな」
あきれた様子でクマのオッサンは、俺にリングロープに垂れかかってるボクサーグローブを着けるよう示唆する。
年季の入ったボロついたグローブを着けると、意気揚々とリングに入って俺は軽くジャンプする。
「へへっ待ってましたって。それで、どんなパンチを教えてくれるんだ?」
「馬鹿言うんじゃねえ。これからおめえにボクシングの厳しさってもんを教えてやる。さあ、そのグローブでわしを殴ってみろい、一発でも当てられたらおめえの勝ち、何でもお望みの練習させてやるよ」
オッサンは首をコキコキと鳴らすと、両手に着けたグローブをばすばすと打ち合った。
「あ? おいおいオッサン、そんな体で頑張って腰をいわせねえのか?」
「問題ねえ。四の五の言わずにかかってきやがれい」
リングの中央で二人は構える。元プロ野球選手の俺と違って、オッサンはその小太りしただらしない肉体をさらけ出している。
「け、ケンちゃん……あの──」
「大丈夫だって洋子ちゃん、ちゃんと加減するからよ」
洋子ちゃんは何か言いたそうだったが、俺は茶番をさっさと終わらせるため、オッサンの方を向いてさっそく右のパンチを繰り出した。
「らあッ!」
偽りの無いまっすぐな右のストレート、拳がオッサンの腹に当る──その直前、オッサンは俺のパンチを読んでたかのようにひらりと身を
「んなろぉ!」
そのだらしない肉体からは想像つかぬ身のこなしに一瞬驚いたが、俺は続けて左のパンチを繰り出すと、これもひらりと躱される。
「どうしたどうした、そんなもんか?」
「……だらあッ!」
俺はこめかみをぴくぴくとさせて苛つきながら、オッサンに何発もパンチを伸ばすが、そのことごとくが避けられる。
まるでそう、それは風になびく"旗"のよう。こちらがいくらパンチを出そうが、自身の体の動きで出る風圧にオッサンは軽やかに舞うだけ、暖簾に腕押しの如く手応えが無い。
「はァーっ、はァーっ……!」
「肩で息してるな、もうおしめえか?」
加減と言う言葉はすでに忘れていた。始まって3分も経ってないが、全力で動き回りいたずらに体力を消耗する俺は、体中から汗を出しながら
それにくらべてオッサンはまだまだと言った感じだ。
「くっ……そ……! なんで、当たらねえ……!」
「拳坊、これがフットワークだ。ボクシングってのは腕力だけじゃねえ、ましてや棒立ちの喧嘩でもねえ、『殴る』と言う行為の中にいくつもの技術が詰まった"至高の殴り合い"だ」
そう言って、オッサンは軽いステップで俺との間合いを一気に詰めると、右腕を細かく回して俺の腹にアッパーを入れた。
「ぐっ……は……ッ!」
「痛みを体で覚えろい! この痛みがおめえが今後覚える武器になるパンチだ!」
内蔵をえぐられるような衝撃、痛みというよりも苦しみが勝る、後味の悪いものが腹部からこみ上がる。
これでもガキの時から喧嘩は多い方だ、何回も顔面や腹を殴られたし殴ってもきた。そしてこの腕っぷしの強さで勝ってきたんだ。
しかし、このオッサンのパンチは今までに喰らったことのない、重く硬い鉄の棒で突き刺されたかのような攻撃であった。
「ぐ……う……!」
「ケンちゃん大丈夫!?」
とっさに洋子ちゃんがその場で片膝をつく俺に近寄る。なんてパンチだ、吐き気がするこの苦痛はなんとも言い難いものがある。
「ケンちゃんあのね、お父さんは元プロボクサーなの。今はあんな体型になっちゃったけど、昔はすっごく強かったのよ」
俺は苦痛に歪む顔で地面にうずくまる。完全になめていた、これまでの常識は、俺の今までの喧嘩自慢は所詮は素人のものだった。
「これが、ボクシン……グ……!」
「拳坊、わかったか。これこそがボクサーってやつのパンチだ。わしのような小太りのロートルでもこれぐらいの動きはまだできる……これからおめえにはわしの技術をたらふく覚えてもらう! こんな痛みは序の口だぞ、ついてこれるか!?」
オッサンは地面に伏す俺に一喝する。この道の険しさは、どうやら一筋縄ではないようだ。
「おんもしれえ……! やって、やんよ……!」
膝を震わせながら、俺は立ち上がる。上等だ、こちとらこんな苦痛は野球の練習でも味わってきた。
今、この時ばかりの俺はボクシングに興味も微塵も無い。だが、男としての矜持が──己の根底にある魂を震わせるように強がった。
これより、俺の波乱のプロボクサーへの道が本格的に始まろうとしていた。
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