第2話 南方ボクシングジム
住宅街の外れにあるそこは、
隙間風が寒そうな外観、正面の扉なんかは曲がっていて開くのかどうかも怪しい。そして屋根の上には、自作したであろう『南方ボクシングジム』と色褪せた文字で書かれた看板が風でガタガタと揺れていた。
「……えっ……?」
「私の家です! さ、東谷選手どうぞ遠慮なくあがって下さい!」
そう彼女は言うと、曲がった扉をよくわからない方向に開けて、中に入るよう
俺は目をしぱしぱと
あれ? なんか違くね? と、自分の妄想想像とはかけ離れた別の何かの思惑がそこにあった。
「ささ! どうぞどうぞ!」
無理矢理に彼女に手を引かれて、俺はそのオンボロの小屋みたいなボクシングジムへと入った。
中は……なんと言うか想像通りにぼろい内装で、がらんとした部屋の中心にはロープがたるんだ四角いリングと、その隅には蜘蛛の巣がかかったサンドバッグ、ほこりまみれのグローブが散乱している。
オイオイオイ、なんだこれ……これが……家?
あまりにもそれは、こんなかわいい子が住む場所とは思えなかった。窓から差し込む光は部屋全体を舞うほこりを映し、どこかカビ臭い湿気のある香りが漂っていた。
「ごめんなさい、ちょっと今ちらかってて……」
「う、うす」
そんなレベルでは無いだろと思ったが、心に閉まう。いったい彼女は俺をここに連れてきてどうするつもりだと考えたその時、背後から人の気配がして俺は振り向いた。
「おお、洋子。帰ってたんか」
「あっ、お父さん! ちょうどいい所に!」
現れたのはアルコールの匂いを漂わせて、酒瓶片手によろよろと歩く腹の出た中年であった。
ハゲた頭は脂ぎっていて、鼻下と顎は針のような無精髭で剣山のようになっている。そしてなんと言ってもその左目には黒い眼帯をつけており、どこかで見たボクシング漫画のセコンドのような風体である。
「お父さんあのね、すごい人を連れて来たの!」
「ん? ま〜たおめえ、どこぞの馬の骨を──」
どうやら似ても似つかぬが、彼女の父親らしいその中年は俺をじっと見ると、片目をぎょろりと輝かせた。すると、のしのしと近寄ってきて俺の肩を両手でがしりと熊のような分厚い手で掴んだ。
「うわっ!? なにすんだ!」
俺は反射的に叫ぶと、酒臭い中年はその掴んだ手にさらに力をこめる。
「おめえ……何をしてやがった? こんな立派な筋肉、そうそう只者じゃあるめえ。しなやかだがそれでいて力強い、まるで密集したゴム……才能と努力の研鑚だ……!」
彼女の父親は興奮するように俺の体を眺め、掴んで確認するように筋肉をなでまわす。
「どわっ! やめろぉ!」
「こいつは逸材だ……! 洋子ぉ!」
「お父さんこの人なら……!」
男に、それも知らないオッサンに自分の体を触られる俺はその掴まれた手を引き剥がす。
「なにしやがる! 俺はそんな趣味は無え!」
俺は一喝すると、彼女とその父親は並んで俺の前に立ち、こう言ってきた。
「お願いします東谷選手! うちのボクシングジムを助けて下さい!」
「このジムを助けられるのは、おめえしかいねえ! 頼む! プロボクサーになってこのジムを救ってくれ!」
──突然である。俺は彼女らの言ってる事に困惑した。
ついさっきまで自分は彼女とよろしくするつもりであったプランだったのに、その突如起こった青天の霹靂のような言葉の前に妄想は瓦解した。
「は……はあ? プロボクサー……って、俺はプロ野球選手だっての! も、元だけど……」
情けない話しだが自分でプロ野球選手と言った後に、そういえばもう違ったのだと気づき訂正する。
「……東谷選手、私は
彼女は真剣な目で俺を見て言う。そしてその言葉に俺は確信をつかれると、心が震えた。そうだ、俺は
「私達は東谷選手がやった事に善悪をつける何て事はしません。どうですか、野球そのものを辞めろなんて言いませんが、プロボクサーを目指して自分の中の違う可能性を開花させて見る気はありませんか?」
彼女は悲しげながらも、まっすぐとした瞳で懇願する。
「いやあ……んな事いきなり言われても……」
「このジムはなあ……わしら家族の魂の場所なんだ。それが恥ずかしい話だが、土地の所有権問題や経営詐欺にあってこのジムはもう風前の灯火なんだ。頼む、わしと、洋子と、先立った妻のためにも助けてくれねえか……!」
どうやら事情が飲み込めてきた。このジムがこんなオンボロで、彼女達が困っているその理由、そして現れたガタイの良い俺……。
頭の中で、思考が渦巻く。野球に捧げた人生、困ってるかわい子ちゃん、戻れぬ野球界、あがきようの無いオンボロジム、俺がするべきは……?
「……俺にはいつか絶対必ず、戻らなきゃいけねえ所があるんだ。ボクシングなんざやってる暇は……」
ひねる頭、普段考えなく生きてきたのでこの突然の事に俺は参っていた。助けたいのは山々だ、腕っぷしにも自信あるし、球界の暴れん坊と呼ばれて喧嘩だって負けた事は無い。
だとしても、今まで野球一筋に生きてきた自分自身をどこか置き去りにするようなこの選択肢は、自分にとってはかなり難しい。
そんな渋い顔をした俺に、彼女の父親は肩を組んで俺に耳うちをしてきた。
「おめえ、うちの洋子のケツを追ってここまで来たんだろ」
ギクリと、胸を貫く一言。
「い、いやあ……別に……」
「わかる、わしも男だ。おめえの気持ちはよーくわかる。自慢じゃないがわしの娘は上玉中の上玉よ。……どうだ、もしおめえがプロボクサーになって活躍してわしらを助けてみろ、何があったか知らねえが今よりはおめえの立場は好転する筈だ。それによ、なにより洋子はおめえに"ホの字"だろうなあ……」
その瞬間、東谷に天啓走る──!
脳内に溢れ出す妄想……それは己がプロボクサーになり、あわや世界チャンプになったりしたとしてこのジムを立て直し、大金持ちへと昇華、涙涙の野球界への華々しい復帰、そして洋子ちゃんと……結婚…………ッ!
──この間0.6秒、描いた
「やりやす」
自分の口から出たのは簡単な一言、されど欲望にまみれている。
「よく言った!!」
どこからともなくオッサンは契約書を出すと、俺は光の速さで署名した。
「やったあ! 東谷選手ありがとうございます!」
「へへ……っ、そこまで頼まれちゃあ断れねえぜ。それと、俺の事は東谷じゃなくて気軽に『
未来の嫁さん(予定)のためにと、東谷は鼻をこすり胸を張る。
「わかりました! ええと……じゃあ……ケンちゃん!」
心の中で"ぬはは"と笑う、かわいい女の子に名前で呼んでもらうのは健康に良い。
「ジョー!」
「ジョーじゃねえ! "ケン"だ!」
オッサンが小躍りしながら俺の肩を叩きながら言った。
「すまんすまんつい、嬉しくてな。わしの紹介がまだだったな、わしは
「ジョーじゃねえって! クマのオッサン!!」
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