春の章
男はこっちを見た。暗がりで表情はよくわからない。男は何かを話したが、辺りに轟く海鳴りのような音でかきけされていく。僕がこくんと頷くと男は財布から一万円札を取り出し僕の手に握らせた。さあいけと言う風に大通りの方へあごでさす。「ママは?」寒さなのせいなのか喉まで出かかった言葉がつまったように息苦しく、恐ろしく逃げてしまいたかった。だけどこの大きな影から、蛇に睨まれたカエルのようなというのだろうか僕は目をそらせなかった。
こんばんは。運転手と目が合わないように奥に詰めて座った。こんな時間に何でここにいるの?きっとそう言われる。豆粒も弾きかえさんほど張った座席のクッションがいっそう拒まれたように感じた。行き先を告げる。運転手さんがパネルを操作している間、期待しないわけではなかった。雪にしっとり濡れたママが乗り込んできてくれるかもしれないと思った。そしていつものように香水とお酒の香りに包まれながら寝息をたてるママを横目に流れていく街灯を眺めていたかった。そんな願いも束の間、タクシーは走り出した。慌てて外の方を見ると遠くで男に引きずられているママがいた。強引に引っ張られていた腕を振りほどき僕の方をみた、だが雪に足をとられ前のめり崩れ落ちそのまま膝を抱えるようにして座りこんだ。いつの間にかママの髪の毛はぐしゃぐしゃになっていて、ブランドの真っ白なコートもはだけていた。呆然としているうちに車は遠ざかり豆粒のように小さくなり、ネオンのライトで飽和した街はついに見えなくなった。
のちにあの男は数年前に病気で死んだことと僕が産まれる前に不倫をして行方が分からなくなっていた。父であったことを知った。
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