夜の巡礼
浅里絋太
迷い猫
迷い猫 1
さざなみに 洗われしだけ 骨の浮く
その
漣果さまは薄い紫色の着物を着ていた。小首をじっと波に向けて、やや低い声を転がすように、またはうなるように、それをうたった。後れ毛が風になびいていた。
僕は横で、そんな漣果さまを見上げていた。
――漣果さまのことを思いだすとき、いつもあの、砂浜の光景を思い浮かべる。
記憶はさざなみのようだ。
とめどなく寄せては返し、真実を少しずつ、あらわにしてゆく。
真実のはじまりは、ある雑居ビルでの生活のときかもしれない。あのとき、僕の運命が動きはじめた。
◇ ◇
当時は新宿の雑居ビルの一部屋に隠れ住んでいた。かび臭い古いビルだ。
あるとき九州で、偶然見つけた山小屋に住みついたときなどは、ずいぶんと居心地がよかったものだ。
夜になると窓からは飲み屋や夜の店や消費者金融の看板が見えた。照明はつけなかったが、それでも、窓からの光でそこそこ明るかった。
部屋の中には大きめのベッドと、本棚があった。あとは漣果さまの化粧台があり、それ以外はなにもなかった。
僕は本棚からある本を取りだして、それを看板の光で読みはじめた。
その本には、人間の歴史について書かれていた。古代から現代にかけて、人間はなにを発明し、どのように増えていったのか。そんなことが書かれていた。
「記憶を取り戻したければ、なにか、本でも読めばいいかもね」
そう言って、漣果さまがどこぞからいくつかの本を持ってきてくれたのだ。僕では買い物も簡単にはいけないからだ。
僕の見た目は人間でいう小学生くらいだったから、なかなか不便はしていた。うかつに出歩くと警察や店のひとに捕まるし、妙なひとにつきまとわれたりする。
すると、場合によって死者がでる。
漣果さまは人間に見つかるのを嫌がった。だから、トラブルなどが起こると相手はひっそりと片付けられた。呪術や化け物じみた力によって。
少し腹が減ってきた。
本を置いて立ち上がると、僕は窓へと近づいた。――あまり窓に近寄るんじゃないよ、と漣果さまは言っていたが、実はさほど気にしていなかった。雑居ビルに子供と女が住んでいたとしても、誰も気にしない。人間はお互いのことに興味がない。それにはとうに気づいていた。
窓の外をじっと観ていると、ぬるい夜気が肌にまつわった。背が低いから窓の下がよく見えないが、裏通りの喧騒が聞こえてきた。がなるような歌声が。人々の会話の声が。
それに、ふと、猫の声もした。のびのある、かわいらしい声だった。
僕は頭の中で、街の雑踏を想像した。そこでは人々が行き交い、争い、笑いあい、猫が眠っていた。
僕は都会というものを、もっと見たかった。しかし、漣果さまからは外に出てはいけないと言われていた。
やがて、窓の外に細長い白い布が飛んでいるのが見えた。
その布は、うねるように夜風をぬい、看板を迂回し、窓の方へ近づいてきた。
やがて、布は窓の中へ入りこんでくると、床に折り重なるように着地した。
その直後、布から白い粘土のようなものがあふれてきた。粘土は上へ上へと伸びていき、やがて女性の裸体を形づくっていった。そして、薄紅色の生地がいつのまにか現れて、着物となり、裸体を覆った。
「待たせたねえ。しかし、街のにぎやかなこと」
と、漣果さまは言った。鈴が低く鳴るような声だった。
「そうは思わないか? 幸次郎……」
僕は少し考えてから、答えた。
「にぎやかだと思います。それに、もっとよく、見てみたい」
「ふん、見る価値などなかろうよ。それより、菓子を食べるがいい」
そう言って、漣果さまは着物の懐に手を入れ、白い巾着袋を取りだした。巾着袋には朱色の口紐が絡んでおり、金糸の装飾がされていた。
漣果さまが紐をゆるめて、袋を傾けると、その手のひらに、白く小さな菓子が二つこぼれた。それにまだ、袋の中には入っていそうだ。
その菓子のことを、漣果さまは雪片と呼んでいた。真っ白な、少しざらざらとした見た目をしている。一センチ四方くらいの大きさだが、質感や大きさや味には、それぞれ違いがある。
人間にも、個体によるさまざまな特徴があるのと同じように。
僕は雪片をひとつ、漣果さまの手のひらからつまみ上げた。そして、口に運んで味わった。
口の中で雪片は甘く広がった。少し苦みを感じたが、ささいなことだった。それを飲みこむと、腹を中心に体があたたかくなった気がした。
僕にはずっと雪片が必要だった。
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