つかの間の

「…ふぅ。」

目が覚めると隣には兎田くんがいた。紫苑はまどろんだ目で窓の外を見やった。



春が過ぎた。紫苑はあの家から引っ越して、今は兎田くんと同棲している。リスカもODもしていない。全てが順調に進んでいる。兎田くんと付き合ってから紫苑は順風満帆な日々を送っていた。

んぐぅ、と隣でまだ夢の中の兎田くんが間抜けな声を上げる。紫苑はふっと笑って兎田くんの頭を撫でた。するりとベッドから抜け出して、歯を磨いてリビングに戻ってきても兎田くんはまだ寝ていた。

スマホを取り出して、SNSをぼーっと眺める。まだ休日の早朝だからか、TLは静かだった。ふぅ、とスマホを置いた紫苑はこちらを見ている兎田くんとばちりと目が合った。

「…起きてたの。」「まぁ、ちょっと前から。」「ふは、言ってよ。」「…や、あまりに犬飼さんが綺麗だったから。」「…っ、あっそ。」

この男は素面の真顔でこんな気障な台詞を吐く。これは付き合ってから知ったことの一つだった。照れてるんですか~とにやつく兎田くんに、早くご飯作って、と目をそらしながらぶっきらぼうに呟いた。


これでいいんだ。そう言い聞かせる自分がいる事に紫苑は驚く。自分は何か忘れている気がする。黒くて汚い、でも大事な何かを。

けれどそれを考える事は意図的に避けていた。思い出したら今の幸せな日々を失ってしまう気がして、心がブレーキをかける。この先は進んではいけない、と。それに逆らうほど紫苑も馬鹿じゃない。


兎田くんがご飯何がいいですか、と後ろから抱きしめてくる。ほら、大丈夫。自分は幸せだ。

紫苑はまた自分に言い聞かせて、なんでも、と抱きしめ返した。



今日は兎田くんの大学も、紫苑のバイトもない完全な休日。2人の時間を楽しもうと、兎田くんが取り出してきたのは。

「…トランプ?」「俺と賭けましょ。勝った方のお願いを聞くっておまけ付きで。」「…いいよ。」「っし。やった。」

何故兎田くんがそんな事を言うのかは分からなかったが、とりあえず頷いてみる。子どものような笑顔を見せる兎田くんが愛おしいと素直に思った。

「ババ抜きでいいですか?」「2人じゃつまんないし、すぐ終わるでしょ。」「じゃあ…スピード!!」「もっと早いよ。」

2人で笑いながらトランプを取り出す。ふとした時に触れる兎田くんの手は男らしくごつごつとしていた。この大きな手に頭を撫でられるのが紫苑は好きだったりする。

「あ、神経衰弱でいいじゃん。」「それだ。」

ぱちんと気障に指を鳴らす兎田くん。本当に気障だなぁ、と紫苑は思う。無意識だからこそ許されることではあるのだが。

全てのカードを裏返しにして並べ、じゃんけんをする。紫苑は後攻、兎田くんが先攻だ。

俺こーゆーのあんまやらないんすよ、とカードを捲る兎田くん。その所作1つ1つが綺麗だと思った。

「…犬飼さん、順番ですよ。」「んぁ?」「ぼーっとこっち見てどうしたんですか?ODでもしました…?」

ぼうっと見ていると、心配そうな顔を近づけてくる。そんなに信用ないか、と苦笑しながらも、そのまま事実を伝えてやる。

「別に、見とれてただけ。」「…え、」「…。」

揶揄ってくるかと思えば、兎田くんは真っ赤に顔を染めた。その意外な反応にこちらまで照れてくる。

お互い気恥ずかしくなり顔を背けた。沈黙が流れる。こういうのを天使が通る、とか言うんだっけ、と心の隅で思った。

「…捲るね。」「…あ、はい!」

沈黙も恥ずかしくて勢いでぺらりと捲ったカードはハートのエース。このカードをもう1枚出せる気がしない。ふぅ、と息をつき紫苑が捲ったカードは。

「…え、すご。」「…まじか。」

紫苑の手にはつんと澄ましたハートのエース。

悔しそうな顔をしながらも、すごいすごい!と褒めてくれる兎田くんを撫でたくなった。

くぅぅ、と呻きながら兎田くんの引いたカードは、あろうことかジョーカー。

「…まじか。」「…。」

ぼそりと呟けば、目の前にはじーっとこちらを見てくる兎田くん。なに、と聞けば真面目な顔が綻んでふわりと笑った。

「犬飼さん、前まで絶対『まじか』なんて言わなかったじゃないですか。」「…あ、」「俺といることで犬飼さんが変わっていくの、なんかすげー嬉しいです。」

無意識に言っていたことが尚更恥ずかしい。頬杖をつき、ぷいと顔を背けて紫苑は、気恥ずかしい奴、と呟いた。かわい、と聞こえた低い声は無視をする。けれど耳が赤くなったのは隠せなかったようで、兎田くんが机に突っ伏した。

可愛すぎだのなんだの言っている。そういう所が気恥ずかしいと言っているのが分からないのか、と紫苑はため息をついた。

「早く引けば。出してよ、ジョーカー。」「煽ってくるのも可愛い…。」

かわいいかわいいうるさい、と目の前の可愛い男を紫苑は机の下で軽く蹴る。

引きます引きます、とカードを見透かすように選んでいる兎田くんを眺めた。

確かに、前はこんな風に軽口なんて叩けなかったなぁ、と思う。

前は酷かったなぁ、と苦笑した紫苑の動きが止まった。

〝前〟っていつだ?

きっと兎田くんと付き合う前の事なんだろう。前に付き合っていた人とか。でも全く思い出せない。名前も顔も、声も何もかも。誰とも付き合っていなかったのかも、と思うほどに綺麗に忘れていた。

思い出そうとすると、心臓を掴まれたような感覚に陥る。

まるで身体が思い出すのを嫌がっているような気味の悪い感覚。

思い出してはいけない何か。そう、紫苑は何かを忘れている。大切な、でも思い出すと辛い何か。その〝何か〟とは何なんだろう———。

そんな紫苑の思考を遮ったのは、兎田くんの悲鳴だった。

「なに、え、」「ジョーカー!!!!出しましたよ!!!!!」

途端に、自分が今何をしていたか思い出す。紫苑は嬉しそうにジョーカーを見せつけてくる兎田くんにぎこちなく微笑み返した。

「すごいじゃん。」「え、めっちゃ嬉しいです。うわぁ。」

目の前の幸せに縋り付いて、紫苑は心の中にある黒いもやもやをもみ消した。

これは思い出してはいけないものなのだから。

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