こぼれる、
小槻みしろ/白崎ぼたん
前編
マグカップを手に、蛇口をひねる。
勢いよく落ちる水が、マグに注がれた。いっぺんに手首が重くなる。底にこびりついたココアが溶け、うすまって縁からあふれ出た。
マグを持っていた手も、うす甘い液体に浸食された。しだいに鼻先から、甘い匂いがきえていく。マグの縁と手首から勢いよく水が、流れ落ち、安っぽい銀のシンクを叩いた。下品な音――私は自分の感慨を、とおい意識の奥で聞いていた。
――ひな。
耳の奥で声がこだました。甘い甘い、あずきみたいなにおいのする……母の声。
「ひなはいい子ね」
母は、そう言って私の頭をなで回した。猫をなでくるように、私の体を抱きしめた。
母は、本当は男の子がほしかった。
「女の子は嫌、おろすわ」
私ができたときに、そう父に泣きついたのだと、父方の祖母が私に教えた。
「ひなは私の味方よね」
母は祖母に何か言われるたびに、そう私に確認した。
祖母はよく母に、
「これだから育ちの卑しい人間は」
と言った。そのときの祖母は、目をむき口をゆがめ、おそろしい顔をしていた。
「ひなはかわいいわね、美人さんね」
たびたび母は、私の顔をほめた。囲むように両手で、私の顔を包みながら。
私は母にちっとも似ていなかった。
直毛で一重、薄墨のような眉に薄い唇の母。
くせっ毛で二重、睫も眉も濃い、厚い唇を持った私。
「本当にあばずれの顔をしてるね」
私の顔を見るたび、祖母は言った。あばずれの意味も知らない頃から、ほめられていないことくらいはわかっていた。
祖母は私をけしてかわいがりはしなかった。嫌うほどの関心もなかった。邪魔な置物、そんな扱いだった。
母はそんな私を、ことさらかわいがった。
「女の子なんて大嫌いと思っていたけど、あなたはとてもかわいい。産んでよかった」
とたびたび言った。
「こんなに愛してるのよ」
と私の頬をなでて言った。母からはいつもしめった、あずきみたいなにおいがした。
母は疲れたときも泣いたときも、怒ったときもそう言った。怒ったときはどうして? と最後に付け加えた。
「ママは、ひなをこんなに愛してるのよ、なのにどうして?」
母は私に、ピンクの服を着せて、
「これはすごく高かったのよ、雛のために買ったの。ねえ、うれしいでしょ?」
と何度も何度も聞いた。ピンクは母の好きな色で、あこがれの色だった。何かのネジが外れたように、服や髪留めを買い込んでは、鏡の前で、私に着せかえた。
「ひなはしあわせね、こんなにママに愛されて、大事にされて」
母は鏡越しに、にっこりと私に笑いかけた。
母は、私をかわいがっていた。
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