第2話


 この家に兄と二人になって、もう五年がたつ。

 五年の間に、私は中学生になり、兄は成人して三年が経っていた。


「これからは、自由や」


 二人っきりになった部屋をながめて、兄は言った。私の手を固く握りながら。

 夕日が赤くて、部屋も兄も、何もかも赤く照らしていた。

 しゃがみこみ、私を抱きしめるとほおずりした。


「お兄ちゃんが、さとを守ったるからな」


 私はうなずいて、兄にしがみついた。


 それからの生活は、驚くほど穏やかだった。

 もう鬼におびえることもない。殴られることもない、逃げなくてもいい。

 非日常が、ずっと続く不思議さを、毎晩布団の中で抱きしめていた。

 ときどき、しみついた恐怖があふれて泣くと、兄は布団を這って移動してきて、私のことを抱きしめてくれた。


「大丈夫や。もうなんも、怖いことなんかない」

「お兄ちゃんがおるさかい、大丈夫」


 抱きしめて、私が眠るまでずっとあやしてくれた。

 

 私には、兄がいる。それだけで、なんとなく落ち着いた。


 せやけど、兄ちゃんは、どうなんやろか。

 私は兄の顔を見る。

 兄の彫りの深い顔は、少し青ざめていた。


「兄ちゃん、疲れてるな」

「いつも疲れてるわ」


 兄は笑った。箸をふらふらと泳がせる。


 兄の様子がおかしくなりだしたのは、私が中学一年の終わり頃からだ。

 いつも笑っていたのに、黙り込むことが多くなった。

 嫌っていたお酒を飲むようになって、日増しに量が増えていった。

 家に帰ってきても、会話がない。

 背を向けて座り込み、買ってきたお酒を黙々と飲んだ。


「兄ちゃん」


 初めのころはわからず、よく兄の背にすがった。

 だが、兄は岩のように動かなかった。静かに落ち込んでいくような、暗い影のような気配を背負っていた。

 それが、拒絶だと知ったのは、背中で手を押し返されてからだった。


「ごめん」


 兄は私を抱きしめて謝った。


「ごめん。ごめんな」


 私は兄の背をさすった。兄の声が震えるのを初めて聞いた。ただ、不安でおそろしかった。

 それからは、私は声をかけなくなった。


「せやけど、あのままやったら兄ちゃん、壊れてまう」


 お酒は嫌いだ。鬼が出るから。

 お酒は不安だ。鬼を殺したから。

 嫌いなお酒を、兄がずっと飲んでいる。私にとっては不安でしかなかった。


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