第4章 闇からやってくるモノ③

「……面倒なことになるわね」


 オフィーリアは心底忌々しそうに顔を歪ませた。もっとも面倒なのはこの件の裏にいる“女”の始末ではない。その“女”を捕らえた後にクラトスがどのような行動に出るか。それを考えるだけで頭が痛くなる。


 全て、あの2人のせいだ。そもそも街の結界も、オフィーリア1人でしようと思えば張り直すことはできるのだ。

 こんな非常時に他人を責めるのは時間の無駄と分かってはいるが、それでも腹が立つものは腹が立つ。


 苛立ちを隠せない様子でそんなことを考えていると、目的の場所が見えてきた。

 トレゾール邸から少し離れた上空で動きを止めると、しばらく遠くから屋敷をじっと見つめる。見た限り、屋敷に仕掛けてある結界には異常がないし、中の傀儡人形も正常に動いている。


「……杞憂きゆうだったかしら?いくらあの人が関わっているとはいえ、トレゾールは王宮よりも警備が厳重だし…」

 そう呟きかけて、ふと気がついた。トレゾールから2軒離れた建物の陰に、人の影があることに。どうやらトレゾールに向かっているらしい小柄な人影。フードを深く被って顔を隠しているつもりらしいが、オフィーリアはその正体にすぐに気がついた。


「…あの子……」

 驚いているような声を零すと、オフィーリアは心底楽しそうにニヤリと笑った。

 …それはまるで、その人物がこのままトレゾールを暴くことを、望んでいるかのようだった。




「……よし、誰もいないわね」

 小さな声で確かめるように呟くと、できるだけ物陰に隠れながらトレゾール邸に近づいていく。先ほどまで避難のために教会に向かう人々の波に飲まれそうになったが、ここまで来ると流石さすがに人は1人もいなくなっていた。


 そんな空っぽな道を身を隠しながら歩くセレナが警戒しているは、言うまでもなく上空の魔獣たちと、それを処理するオフィーリアたちだった。


 周りを警戒するように見回す彼女の目的は、ニコラオスだった。


 今回のこの騒動に本当に彼が関わっているのか、何故関係のない他人を巻き込むような手段をとったのか、本人に聞いて確かめなければと思ったのだ。


 昨日知った限りで、彼がこの街に入った目的は“禁術の書”を手に入れることだ。

 セレナは彼が帰った後、書庫の本棚を一通り調べてみたが、どの棚にも“禁術の書”戸いう題名の魔法書はなかった。“禁術と犯罪”という歴史書はあったが、そこに記されていたのは禁術を悪用した歴史上の大罪人の話ばかりで、どう考えてもニコラオスが求めているものとは思えない内容だった。そもそもその大罪人がどんな禁術を使ってどんな罪を犯したのか、という詳細は濁されていて、本当の歴史かどうかも怪しい。


 王宮の書庫になかったということは、他に考えれる場所は大賢者オフィーリアの屋敷か、賢者の中で最年長であり、大賢者でもあるSilverシルバーlightライト、《灯火》の屋敷のどちらかだ。

 だが、《灯火》は20年近く前から体調不良を理由に屋敷に引きこもっており、張り直しの儀式の時以外はどんな緊急時でも屋敷から出てこない。そのためニコラオスが侵入するなら、警備担当としてマギーア部隊と共に前線に立つオフィーリアの屋敷だろう。


 トレゾールの近くまで来ると、カーテンが開いている窓から遠目で中を覗く。しかし、目に見える範囲でおかしな様子はない。


 まだ来ていないのだろうか。やはり考えすぎだったのだろうか。

 そもそも屋敷の主人が不在とはいえ、オフィーリアの魔力で動く傀儡たちが守っているトレゾールに侵入するのは、簡単なことではない。セレナは一応オフィーリアの血縁だが、たとえ血縁でも今トレゾールに足を踏み入れたら間違いなく傀儡人形たちに捕らえれることだろう。流石に手荒な真似はされないだろうが。


 あわよくばトレゾール邸に忍び込んで、20年前の出来事に関する情報や書類を探してみようと考えていたのだが、彼が来ていないのならば仕方ない。


 そう思って引き返そう、セレナは踵を返す。と、その時。

 脳を貫くような魔獣の奇声が聞こえて、セレナは声をした方を振り返った。

 セレナの目の前に映ったのは、大きく口を開けてこちらに襲いかかる魔獣の姿だった。


「……っ!!」

 息を呑む彼女の脳裏を掠めたのは、“死”。

 逃げなければと考えるよりも先に、足がすくむ。どうやって切り抜けようかと考えるよりも先に、目の前が真っ白になる。


 人間は本当の恐怖に直面すると、声を上げることすら出来なくなるのだと聞いたことがあったが、本当にその通りなのだと、そんな呑気なことを考えていた。


 その時、セレナを我に返らせるような男の声が、彼女の耳に響く。

「伏せろ!」

「——っ」

 その声の主について考える間もなく、セレナは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


 その刹那、地面が大きく揺れたと同時に、セレナに襲いかかってきた魔獣は地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなっていた。その様子をじっ、と見つめてから、セレナは肺が空っぽになる程大きく息を吐く。


 助かった、と思ったと同時に、セレナの上を焦燥感に満ちた怒号が降り注いだ。

「お前、何考えてるんだ!」

 今まで人から大声で怒鳴られたことがなかったセレナは、思わず身体をビクッと震わせる。声の方を見上げると、彼女の背後に仁王立ちで立っていたのは、ニコラオスだった。


 昨日のあの子供のような笑みとは一変、眉間に皺を寄せ、青筋を立て、慌ててやって来たせいか、あるいは怒鳴り声を上げたせいか、息を切らせてそこにいた。

「ニコラ…」

「どうしてこんなところにいる!護衛もつけずに、1人で!死にたいのか!?自分の身も守れないくせに、軽率な行動をするな!!」


 セレナの呼びかけを遮り、ニコラオスは興奮した様子で捲し立てた。その言葉全てが正論すぎて、セレナは反論することもできずに彼の怒号をただ受け止める。

「……ご、ごめん。確かに、その通りだった」

 ニコラオスに叱咤されて、セレナは一気に冷静になった。


 先ほどまでの自分は、何をしてでも真実を知らなければという思いだけで城を飛び出したため、自分に降りかかる危険については頭からすっぽり抜け落ちていた。

 だが、実際に感じた命の危機。それに対して何もできず、声を上げることすらできなかった無力な自分。ニコラオスが来てくれなければ、今こうして息をすることすらできなかったのだという事実が一気にセレナの上に降りてきて、セレナは目頭が熱くなった。

 かと思うと、まるで川の氾濫のように大量の涙を流す。ニコラオスは損な彼女の様子に思わずギョッとした。


 先ほどまでの焦燥と怒りも忘れて、オロオロと慌てた様子でセレナを見下ろす。抱きしめて慰めるべきか、赤の他人に触れられたら不快だろうかと考えて、行き場のない手が宙を掴むように揺れる。

「お、おいなんだよ。泣くなって。怒鳴ったりして悪かったよ。言いすぎた」


 ぎこちない手つきでセレナの頭に手を置くと、軽く撫でる。彼の手は、テオスの敵であるにも関わらず本当に優しくて、本当に彼女を案じているのだと錯覚してしまうほどに温かかった。

 ニコラオスに撫でられて少し冷静になったセレナは、手のひらで涙を拭いながら首を横に振る。


「違うの。怒られたからじゃなくて……なんか、急にホッとしちゃって。襲われそうになった時、本当に怖かったはずなのに、声も上げられなくて……ニコラオスが来たあともずっと現実味がなくてぼんやりしてたんだけど、生まれて初めて本気で怒られて、あぁ、本当に助かったんだって思ったら……」

「……」


 本当に怖かった、本当に死ぬかと思った。


 でもそう感じられるのも、今ここに生きているからで。もしあのまま死んでしまったらその恐怖ごと、自分はこの世から消えてしまうわけで。


 襲われた恐怖と、助かってよかったという安堵の気持ちが一気に溢れ出して、手のひらで何度拭っても抑え切れないほどの涙となってこぼれ落ちた。


 ニコラオスはしばらくしてから小さくため息を吐くと、セレナの手を掴んで立ち上がらせ、そのまま自分の胸に抱き寄せた。

 突然の彼の行動に、セレナの涙はピタッと止まる。それでもニコラオスが、彼女を離すことはなかった。


「…ニ、ニコラオス、何して……」

「…俺の周りには、たかが魔獣に襲われただけでギャーギャー泣くような奴なんていないから、こうするしか慰める方法が思いつかないんんだよ。嫌なら昨日みたいに“抵抗”すればいい。ま、俺に同じ手は2度も通じないけどな?」

 揶揄うようにそう言ってから、クックッ、と小さく笑う。


 不器用ながらもセレナを安心させようとしてくれている彼の心が伝わって、セレナは今までに感じたことのないような気持ちを感じた。


 この気持ちは、一体何だろう。

 婚約者のクラニオに抱きしめられている時とは違う。クラニオは婚約者である前に従兄いとこなので、家族に抱きしめられているような安心感はあれど、それ以上の感情を抱くことはない。けれど、ニコラオスは違う。


 安心感は確かにあるが、それとは別の、ざわざわとして苦しいような、痛いような心の疼き。彼が触れている部分が、まるで地獄の業火に焼かれているかのように熱い。

 けれど、それでも、このまま離してほしくないと思っている自分がいた。


 初めての、感覚。

 この感情、この気持ちは、まさか……。


「…落ち着いたか?」

 頭の上から聞こえるニコラオスの声に、セレナはハッと我に返った。先程までの優しい態度とは打って変わって、彼は半ば乱暴にセレナの肩を押し除けて身体を離す。

 先ほどのざわざわとした感情が消えて、名残惜しいような、もどかしいような感情が彼女の心を占める。もう少しこのまま彼に抱きしめられていたら、このざわざわとした感情の正体が分かったかもしれないのに……そう思いかけてセレナは「何を言っているんだ」と心の中で否定する。


 王族や貴族の女性は、夫や家族以外の異性にみだりに肌を触れさせたりはしない。「このまま抱きしめられていたい」だなんて、周りに知られたら痴女と勘違いされるだろう。


 セレナは頭を振って先ほどまでの考えを振り払うと、ニコラオスの顔を見上げる。彼の顔からは、既に怒りの色も焦燥の色も消えていた。

「……あの、ありがとう。助けてくれて」

「…別に。顔見知りに目の前で死なれるのは後味が悪いと思っただけだ。お前のためじゃない」

 ニコラオスはそう言うと、ふい、とセレナから目を逸らす。彼のそっけない態度にセレナはムッとして何か言い返そうと口を開きかけたその時、彼の耳がわずかに赤くなっていることに気付いた。


 セレナは彼のその反応に、思わずクスッと笑う。先ほどセレナを抱きしめた時や、昨日彼の魔法を褒めた時もそうだったが、彼は少々天邪鬼な気があるらしい。


 と、その時。セレナはふとここに来た目的についてを思い出した。

「そうだわ、ニコラオス。今朝従兄様から聞いたの、今回の襲撃は、誰かに仕組まれたものだろうって」

「……」

 セレナの問いかけを聞いて、ニコラオスは逸らしていた視線を再びセレナに向ける。彼の瞳は、まるで全てを悟っているかのような、この後に彼女が尋ねてくるであろう言葉を知っているかのような雰囲気を漂わせている反面、わずかに罪悪感に満ちたような色が滲んでいた。


 ……これ以上、聞く必要はなかった。


 知り合って間もないが、彼が嘘をつけない性格だということは何となく分かる。やはり今回の一件には、ニコラオスが関わっていたのだ。


 セレナの心に、煮えたぎるような怒りと、同じくらいに強い悲しみが湧き上がる。セレナは拳を握り締め、声を荒げた。

「…どうして……。あなたたちが憎んでいるのは私の父上なんじゃないの!?それなのに、罪のない街の人たちまで巻き込んで、こんな危険な真似をするなんて……っ!!」

「……仕方ないんだ」

 セレナの怒りの叫びに、ニコラオスは諦めたような声でそう答えた。


 謝ってくれるとは思っていなかったが、それでも少しは申し訳なくするかと思った。瞳に映っていたわずかな罪悪感の色は、既に消えている。


 期待していなかった彼の返答に、セレナは思わず「え…」と声を漏らす。ニコラオスは淡々と言葉を続けた。

「俺だって、こんなやり方が正しいとは思えない。今回の件は、俺の母が勝手に始めたことで、俺が計画を知った時には既に事が起きていて止めようがなかったんだ。……それに母さんがそうしなければと思ったのなら、俺はできるだけ母の力になりたいと思っている。女手一つで俺を育ててくれた人だ。裏切れない」


 そう語るニコラオスの声には、心からの後悔とやるせなさ、その反面で自分を育ててくれたという母親への尊敬と愛情に満ちていて、聞いているセレナさえも心を締め付けられるような思いになった。

 ニコラオスは、血を吐くような思いで言葉を続ける。

「ディアヴォロスの連中も、目的のためならば手段を選ばない野蛮な考えの持ち主ばかりだ。そんなのは間違ってるって思っていても、俺1人の力じゃどうにもならない。たった1人の反対意見なんて、誰も耳を貸さない……」

「——っ」


 セレナは彼の言葉に、自分と共通するような何かを感じた。


 セレナは幼い頃から、神族こそが絶対の正義で、それ以外は排除すべき悪だと、耳にタコができる程言い聞かされてきた。

 だが、実際に魔族や半端者たちが悪事を働いたのをこの目で見た事があるわけでもない、ましてや自分の傍には兄のように優しく見守ってくれていた“交ざり者”がいるのに。何故彼らを悪と決めつけなければならないのか。歴史書のたった数ページにしか記されていない悪行だけで、果たして彼らの何がわかるというのか。それをずっと疑問に思っていた。


 だが、その疑問を口にするたびに、周りの大人たちは皆口々に同じ言葉を言った。



 ——そんな疑問は今すぐに捨てなさい。



 考えることを放棄させ、ただ自分たちが信じる“真実”だけを、幼いセレナに叩き込もうとしてきた。

 幼い子どもの純粋な疑問にすら、誰1人耳を貸さない。疑問に思うことすら許さない。


 この世界には、そんな人間たちが溢れている。

 だから誰もが、記された歴史に疑念も持たず、数々の矛盾に目を瞑って、自分たちにとって都合の悪いことは全て揉み消してきたのだ。


 セレナは何も言えずに俯いた。


 確かに彼の言う通り、大勢の意見にたった1人で立ち向かうのは無謀だ。彼が不満と疑念を持ちながらも、それを押し殺して大勢に従い、目的も理由も何も考えずに流されざるを得ないような状況になっている気持ちも分かる。彼が唯一何かのために動くとすれば、それは彼を愛し、彼を1人で育てたという母親のためだけだろう。

 彼の気持ちも、分からなくはない。セレナも、もしカレンが何かに困っていたとしたら、どうにかして力になりたいと思ったことだろう。


 ……けれど。

 それは本当に、生きていると言えるのだろうか?


 そんな事を考えていると、遠くの方から魔獣の奇声が聞こえた。振り返って見ると、どうやら最後の一頭が討伐されたらしく、マギーアの騎士が誇らしげに剣を空に掲げ、その周りで複数名の騎士たちが歓喜の声を上げていた。

 それを見て、ニコラオスはふぅ、と息を吐く。


「魔獣が全滅したみたいだ。結局何も調べられなかったけど、仕方ない。一度退くか」

 そう言うと、彼はセレナに背を向けて立ち去ろうとした。

「ま、待って!」

 セレナはハッと我に返ると、咄嗟に手を伸ばしニコラオスの服の袖を引っ張って引き留めた。


 突然の彼女の行動に、ニコラオスは驚いて振り返る。先ほどまで俯いていたセレナは、何かを決意したかのようなまっすぐな目でニコラオスを見つめた。「どうした」と尋ねようと口を開きかけるニコラオスを遮って、セレナは力強く言い放つ。


「私に、魔法を教えて!!」

「……は?」




 一連の流れを建物の上から見下ろしていたオフィーリアは、ニコラオスの顔をじっと見つめた。

 魔法で魔族の姿をしているが、あの青年は半端者。それも、昨日ロワ宮に忍び込んだ魔族寄りだろう。


 昨日の出来事を一部しか視ていなかったオフィーリアだったが、セレナが何かしらの理由で侵入者を庇って父親に報告しなかった、ということは知っている。親しげに話す彼らの様子から見て、恐らくオフィーリアの知らなかったところで彼らは多少なりとも心を交わしていたのだろう。


 自分の服にしがみつくセレナの様子に戸惑っている青年。その男の面影に、オフィーリアの脳裏にとある情景が浮かんだ。


 半端者の赤子をその腕に抱き、愛おしそうに話しかける神族の女の姿。

 彼女はオフィーリアのよく知る人物であり、この一件にも絡んでいると思われる“裏切り者”だ。

 “裏切り者”はその赤子を心から愛し、たとえこの世でたった1人になったとしてもその赤子を守ってみせるとオフィーリアに誓っていた。


「……そう、あの子が……」

 納得するように口の中で呟くと、心底楽しそうに、かつ冷酷な笑みを浮かべた。

 ……兄にこのことを知らせずにいれば、彼らはこのまま逢瀬を重ねるだろう。


 心の中でそんなことを考えているオフィーリアは、まるでそんな展開になることを期待しているかのようだった。

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