おにいちゃんへ

1.ヒンメル/宿屋【天の巣】



 宿屋――別にそんなものを使わずとも体力は勝手に回復するこの世界で、どうしてそんなものが存在するのか?


 ここはNPCたちの憩いの場でもあり、ゲームの世界で実際に寝てみたい……そんなプレイヤーの願いを叶えることもできる場所だ。


「えへへ……なんだか緊張しちゃいますね」


 年季を感じさせる木造の、ベッドと簡単なテーブルが置かれているだけの狭い部屋。

 フィンが入ったベッドの傍に腰掛けて、私はゆっくりと息をついた。


「ちゃんと眠れるのか?」


「だいじょうぶです。でも、ちょっともったいないから……ほんとうは寝たくないんです」


「大丈夫さ。私たちはもう仲間だ。明日でも明後日でも、この先またいつだって会える」


「そう……だといいですね」


 励ますつもりで言ったのだが……フィンの表情には影が出来てしまう。


「おにいさんには妹さんがいるんですよね」


「ああ」


「いいなぁ」

 

 その目は優しく微笑んでいる。

 

「妹が欲しいのか?」


「ちがいますっ。フィンはおにいちゃんが……」


 そう言い掛けて、はっとしたように口を塞ぐ。

 おにいちゃん? それならフィンにも病気を心配してくれる立派な兄がいたと思うが……。


「えっと、その。おにいさんが本物のおにいちゃんだったら良いなぁって」


 そう言って笑顔を作る。しどろもどろな口調から、何か事情があるのだと察する。


 こういう時に気の利いた言葉の一つも思い浮かべることが出来ない。私には話題を逸らす選択肢しか残されていなかった。

 

「何はともあれ、明日には帰れるな」


「……はい」


 先程から彼女はどこか覇気がない。別れが寂しい……というより、別の要因があるような気がしてならないのだ。


 やはり体調が優れないのだろうか。薬の材料こそ揃ったが、これなら調合まで済ませておくべきだったかもしれない。


 しかしフィンは首を横に振る。


「いいえ。病気のことは……その、いいんです」


 ……気付けば少し震えているフィン。その頭をそっと、最初に出会った時の様に撫でる。


「……フィン、そんなにいい子じゃありません。だからもっとわがまま言ってもいいですか」


「ああ」


「おにいちゃんって、よんでも……いいですか」


 無言で頷く。


「えへへ。ほんとうに、やさしいですね」


 するとフィンは身体を起こし、ゆっくりとこちらに力を預ける。


 私は小刻みに震える肩を両手で支えて、今にも崩れ落ちてしまいそうな小さな身体をゆっくり受け止めた。


「…………おにいちゃん」


 その声は酷く寂しく――そして、懐かしい感じがした。


 それとほぼ同時に背中に感じた強い熱。一瞬だけ感じたそれは、心地良いとも悪いとも表現できない不思議な感覚を思い出させる。



 ……気付けば頭がぼんやりと揺らいでいた。はっきりしない思考の中で、ただ優しく儚げな声が、どこか寂しそうに耳元で呟く。


「ごめんなさい……」



2.デスティニー号



 翌朝。丁寧に整えられたベッドの上で、私一人だけが目覚めた。


 フィンがいない。確かに置いてあった薬の材料は消え、残されたのは一通の手紙……すぐに既にログインしていたスイちゃん・ミカンさんに連絡を取った。


 彼女はきっとスライズにいる。私たちは帰路を急いだ。

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