第6話
「結婚したい」
六年前の、あの日の言葉を思い出す。確かにそう言った。そして僕らの道は分かれた。
あのころ僕らは二人きりでよかった。二人さえいればよかった。「けれど」なのか、「だから」なのかわからないけれど、ただ、彼女とともに行く道が、僕には見えなかった。そもそも存在していなかったのだと、あの時、思い知らされたのだ。
今日、結婚式が終わり、二次会を断って帰路につこうとした時、ふいに僕はどうしようもない思いにかられた。
僕は酒に酔った身体で、家から離れたみどり公園の向こうを目指した。風にふかれて、頬が冷たかった。それでも、春はすぐそこに来ているのだ。
僕は、むき出しのコンクリートに、緑のドアの、あのマンションの前までたどり着いた。明かりがついているのを確認すると、どうしようもない寂しさがよみがえった。
あのドアを開ければまだ、君が出迎えてくれる、そんな気がした。
――おかえり、しん君――
けれど君の姿を思い描いた瞬間に、君の声と笑顔は、ばらばらに分解されていく。
僕は息をのみ、そうして思い出す。
あの日、去っていったのは君の方だった。
「結婚したい」
君との四年目の春――今から六年前の春。君は、僕にそう言った。
「しん君。私、結婚するの。だから、さよならだね」
そして僕の元から、去っていった。バイト先で知り合い、それから親しくなった男と、君は結婚するのだと言った。
「私と結婚したいんだって、私じゃなきゃだめだって、どうしてもしたいって言ってくれたの」
「でも、だからってそんな急に――」
怒りや当惑、悲しみが大きな痛みとなって僕を襲い、それから、ひたすら呆然とさせた。それでも、君を引き留める言葉を今一つ持てない、作り出せない自分にも、僕は気づいてしまった。それは、おそらくその裏切りのせいじゃなかった。僕はその事に唖然としてしまった。
「しん君。私、しん君とずっと結婚したかったよ」
「そんなこと、一言も」
「言えないよ。私から、言えない――そんなこともわからなくなっちゃった?」
君は目に涙をためて、そう言って笑った。疲れた、悲しい笑みだった。君はそうして、僕の元から去っていった。決して最後まで、涙をこぼさなかった。
君は、僕のもとから去っていった。でも、本当に、そうだったのだろうか。その疑問は、時折強い波となって、僕の胸を叩く。
とりわけこんな、幸せな日に。
コンクリートのマンションの、暗い緑色のドアの前。
酔いの醒めた僕の目の奥で、君の残像はばらばらに散り、夜の外気に消えていった。それはひどく乾いた砂の落ちる音に似ていた。
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