春よ、来い
よるさんじ
第1話
どの季節が好き?
そう訊かれたら、私は真っ先に春と答えるだろう。長く冷たい冬が終わり、暖かな日の光が差し込む。風は春の香りを運び、鳥は春の訪れを祝福する。そんな春はどこか私を落ち着かせてくれる。いつからそんなに好きだったのかと訊かれれば、物心ついたときからだ、と胸を張って答えられる。
しかし、小学校にあがってから春が好きな理由が変わった。気づいたときには変わっていた。引っ込み思案で地味だった私は、いつしか鳥のさえずりに耳を傾けなくなった。四季の感じられない教室の中で、いつも息をひそめてじっと春を待っていた。
新しい年になり、一つ学年があがり、新しいクラスが始まる。クラス替えは誰にとってもビッグイベントで、誰と同じクラスかで一年が決まると言っても過言ではない。
私は毎年期待していた。
今度こそ、私と気の合う子がいますように。
今度こそ、私のようなおとなしい子がいますように。
今度こそ、友達ができますように。
今度こそ、今度こそ、今度こそ。
しかし、毎年私の期待は裏切られた。もともと友達をつくるのが苦手だった私は、毎年新しいクラスで浮いていた。そしてまた毎年のように来年の春を待ち望んでいた。今回のクラスもまた外れた。でもきっと来年は……。教室の中、一人で席に座って春を想像するのは案外楽しかった。そのとき私の頭の中に思い浮かぶのは、つぼみをつけた桜の木でも冬眠から目覚めた熊の親子でも雨が降ったあとに辺りに立ち込める土の匂いでもなかった。新しいクラスが書かれた大きな紙の前に立ち尽くす私の後ろ姿だった。
小学生の私にとって、春とはクラスを、自分を、リセットできる季節なのだ。それが、私が春を待ち望んでいる理由だった。あの歌に会うまでは。
あれは小学六年生の冬のことだった。クラスの担任の先生が産休をとり、その間だけ別の学校から若い女の先生がやってきた。彼女はとにかく明るく元気で、生徒からの人気も高かった。私とは正反対の世界に住む人だったのである。
ある朝のことだった。今までにないような大雪が夜の間中ずっと降り続け、目を覚ましたときには、辺り一面真っ白だった。その光景を見た途端、私は唐突に学校に行きたくないと思った。そして両親が既に仕事に行っていたのを良いことに、その日初めて学校をさぼった。
その夜は当然のように、両親にさんざん叱られた。母は泣きながら、なんで、なんで、と私を責めた。そんな母に私は何も言えなかった。本当に、ただ何となく、学校に行きたくなかったのだ。ただ、それだけ。そんな私の言葉は最後まで口から出ることもなく、母が泣き止むのを待つしかなかった。
結局その日は一睡もできず、ランドセルを背負って、いつものように学校に向かった。学校に着くと早速あの若い女の先生につかまった。そして生徒指導室に通された。まさかここに入る日が来るなんて。私が入ってもじもじしていると、先生はいきなり私の目を覗き込んできた。私が驚いて思わず後ずさると、先生はふふっと笑って、一言
「きれいな目ね」
と言った。私がぽかんとしていると、先生は急に真面目な顔になり、
「どうして昨日無断で学校を休んだのかしら」
と訊いてきた。とうとう来たかと思ったが、この先生は私がどう答えても決して怒らないのではないかと強く感じた。きっと、さっき突然おかしなことを言った先生なら、私の声を受けとめてくれると思ったからかもしれない。私は腹を決め、まっすぐに先生の目を見つめた。
「はっきりとした理由なんて私もわかりません。昨日の朝、雪がたくさん積もっているのを見て、とにかく学校に行きたくないと思ったんです」
私が一息に言い終えると同時に、先生はにっこりと笑って言った。
「あなたは雪が嫌いなのかしら」
「雪は嫌いかどうかわからないけど、冬は嫌いです」
「あら、私と一緒だわ」
先生はそう言ったあと、しばらく間をおいて、私に尋ねた。
「じゃあ、春は好き?」
もちろん好きだ。好きだけど普通の好きとは違う気がする。私は春が好きな理由を自分の言葉でつっかえながらも先生に話した。毎年クラスで浮いてしまうこと。来年こそは、と期待してしまうこと。誰かに自分のことを話したのはこれが初めてかもしれない。先生は最後まで馬鹿にせず、真剣に私と向き合ってくれた。そして聞き終わったあと、こんな歌を教えてくれた。
石ばしる 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも
「この歌はね、岩の上をほとばしる滝の上の蕨が萌え出づる春になったことだなあっていう意味なの。春の到来を歓んで詠んだ歌らしいわ。あなたの見る春も面白いけど、春の景色って本当に素晴らしいわよ。これからはもっと春を身体で感じてね」
そう言って、先生は教室の外に出た。最後に私を振り返り、
「中田さんの話、とても面白かったわ。声初めて聞いたけど、なかなか良いわね」
と今日とびっきりの笑顔を向けてくれた。私は、笑顔を向けてくれたことも、私の話を面白いと言ってくれたことも、私の声を褒めてくれたことも、全てが新鮮でとても嬉しかった。
先生のあの笑顔が、誰もいない寂しい冬を一人で過ごしていた私に、暖かな一筋の光を差し込んでくれた。さらには春を呼んでくれた。大人になった今でも、その光はまだ心の中できらきら輝いている。
先生が部屋から出て行ったあと、ふっと春の香りをかいだ気がした。外を見ると、昨日はあんなに積もっていた雪が跡形もなくなくなっているのに気づいた。窓ガラスにそっと手を置くと、昨日まではあんなに寒かったのが嘘のように、熱を感じた。春の気配が濃い。ねえ、先生、春を身体で感じるってこういうこと?
どのくらいの間そうしていたのだろうか。気づけば始業のチャイムが鳴っていた。私は慌てて教室に向かって走った。廊下を走るなんて何年ぶりだろう。たまには先生に怒られるのもいいかもしれない。
私の汗ばんだ髪を風が揺らす。だんだん教室が近づいてきた。がらっと扉を開けると、さっきまで一緒にいた先生と目が合った。
「中田さん、遅い!」
先生に謝り、窓際の私の席に座る。
耳をすますと、微かにウグイスの声が聞こえた気がした。
春よ、来い。
春よ、来い よるさんじ @kakusigoto
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