第30話 定軍山の戦い

 夏候淵は曹操軍の最古参の武将のひとりである。

 対董卓戦のときからいた曹仁、曹洪、夏侯惇、夏候淵。

 四人とも、いまは大幹部になっている。


 夏候淵軍が陽平関を抜け、定軍山に接近しているとの報を受けた夜、私は魏延、趙雲とともに焚き火を囲んでいた。

 渓流で釣った岩魚に塩をかけ、竹串に刺し、焚き火にかざして焼いている。

 この岩魚は私が釣ったものだ。

 馬超に教えられて以来、釣りが好きになった。

 三人で塩焼きをかじった。


「夏候淵を討ちたい。人材好きの曹操にとっては、痛手となろう」と私は言った。

「敵の総大将です。簡単には討ち取れませんよ」と魏延は答えた。

 まあそうだろうな、と私も思った。

 趙雲は、黙って岩魚を食べていた。


「十八万の大軍が、箕谷道を縦列になって進んでいます。定軍山の麓は広々とした原野です。ここに敵軍を半ば引き込み、敵陣が整わないうちに攻撃しようと思います」

「定軍山に籠もるのではなく、決戦するのか」

「戦わなければ、兵は強くならない。乾坤一擲の勝負をしなければ、敵を撃滅できない。亡き黄忠殿に教えられたことです」

「勝負をかけるのならば、勝算がほしい」

「勝算ならあります。趙雲大将軍に働いていただきたい」

 魏延は、趙雲に作戦を語った。

 趙雲はうなずき、「若君、これはとても旨い魚ですね。もう一匹いただいてもよろしいですか」と言った。作戦とはなんの関係もない言葉。彼には気負いがない。自然体。

「好きなだけ食べてくれ、子龍」

 私は新たに岩魚を火であぶった。

 昼間に十匹ほど釣っていた。

 火が魚の皮を焼き、少し焦げて、よい匂いのする煙が漂う。

「いい香りがする。私も食べていいですか」と言って、馬岱が寄ってきた。

 李恢はそばで屹立し、周囲を警戒していた。


 魏延が九万の兵を率い、定軍山麓に鶴翼の陣を敷いた。

 鶴翼は、敵を包囲する陣形である。

 九万が十八万を包囲するのは無理があるが、敵は狭い道から原野に入ってくる。全軍が揃わないうちに攻撃するから、鶴翼でよいと魏延は考えたようだ。

 私は最前線には出させてもらえなかった。

 要塞化した定軍山にとどまり、戦いを見ていてほしい、と魏延から言われた。

 私は素直に従い、李恢が指揮する親衛隊とともに、中腹にいることにした。

 見晴らしのよい場所を選び、山麓を見下ろした。


 夏の朝、敵の騎馬隊が原野に突入してきた。

 五千ほどの騎兵。率いているのは、張郃であろうか。

 騎馬隊は停止し、後続の歩兵隊が進軍してくるのを待った。

 夏候淵の中軍が続々と山麓に侵入してくる。三万、四万、五万と膨れあがっていく。

 敵が六万ほどになったとき、魏延の鶴翼の陣が、包囲攻撃を仕掛けた。

 張郃の騎馬隊が中央突破をしようとして、突撃してきた。

 魏延軍はいったん停止して、大量の矢を降り注がせた。

 敵騎兵はたまらず、反転した。


 鶴翼が、再び進撃した。

 魏延の包囲陣が敵兵を打ち倒していく。

 緒戦は順調であった。

 いまのところ、山麓で多勢なのは、益州側なのである。

 寡兵の夏候淵軍を圧倒し、敵軍を削っていった。

 しかし、魏軍はなかなかの精鋭だった。

 総崩れにはならず、踏みとどまって戦っている。

 しだいに敵軍の方が多勢になっていき、魏延軍を押し始めた。

 鉦が鳴り響いた。

 魏延軍は撤退を始めた。南鄭方面へ退いていく。

 夏候淵軍は追撃してきた。

 十八万の大軍が、九万を追う。


 敵軍が縦列になって、定軍山麓を進んでいるとき、ドドドドドというすさまじい馬蹄の音が湧きあがった。

 定軍山にいた趙雲の騎馬隊が動いたのだ。

 趙雲は逆落としをかけ、夏候淵軍の横っ腹を切り裂いた。

 魏延軍が反転し、敵軍に突撃。

 敵の行軍が乱れ、見ていてはっきりとわかるほど、味方が優勢になった。


「これは、勝ったか?」と私は隣にいる李恢に話しかけた。

「勝っているように見えます」

 私は走り出したいような気持ちになったが、李恢は落ち着き払って、私の横に立ち、微動だにしなかった。


 夏候淵軍は算を乱して逃げた。

 益州軍は掃討戦に移った。

 逃げる兵は討ち、降伏する兵は受け入れている。

 夕方には戦は終わり、定軍山麓には、益州兵と捕虜、死体しか残っていなかった。死骸の大半は、魏兵のものであろう。逃げ延びた敵兵もいるだろうが、かなりの数を討ち果たしたようだ。夏候淵軍は、すでに影も形もない。大勝利。


 私は親衛隊とともに、山を下りた。

 魏延が益州兵に指示し、武器を捨てた捕虜を一か所にまとめさせていた。すさまじい数。数万の敵が降伏したようだ。


 馬岱が私に近づいてきた。首級を持っている。

「夏候淵の首です」と彼は言った。

「よくやってくれた。陽平関での守備、敵将の首。そなたが戦功第一である。大きな褒美を与えねばならんな」

「欲しいものがあります」

「言ってみよ」

「約束。劉禅様が曹操と戦うときには、必ず私と兄貴を連れていってください」

 馬岱が言う兄貴とは、馬超のことである。

「必ずそうするであろう」


 魏延に話しかけた。

「お疲れさま、文長。素晴らしい指揮だった」

「ありがたいお言葉です、若君」

「張郃と徐晃がどうなったか、知っているか」

「徐晃は乱戦の中で死にました。張郃は騎馬隊をまとめ、撤退しました。見事な逃げっぷりで、追い切れませんでした」

「夏候淵と徐晃を討ち取ったのだから、上出来だ。そなたが名軍師であるということは、この戦いで明らかになった」

「さらに精進する所存です」

 魏延は微笑んでいた。彼にもっと力を発揮する場所を与えたい、と私は思った。


 趙雲はひとりの若い武将を捕らえ、私の前に連れてきた。

「私の槍に屈せず、立ち向かってきました。見どころのある若者です。殺すのが惜しくなり、捕らえました」

 私は武将を見つめた。

 趙雲が虎だとしたら、狼のような男だと感じた。眼に野生的な光がある。

 私はこの男を知っている。前世で、蜀軍を背負って立っていた。

 あえて知らないふりをした。

「名前は?」

「姜維……」

 姜維伯約は、ぶっきらぼうにつぶやいた。

「姜維、私は蜀の副総帥、劉禅だ。私に従うか?」

「子どもになど従わない。だが、趙雲様には従う。槍で負けたのは、初めてだ……」

「姜維、私に従うということは、劉禅様にも従うということだ。この若君は、私の主なのだからな」

 姜維は、鋭い瞳で私を見た。

「我は軍人。それが指揮系統ならば、従います。しかし、どういう方が主なのか、知っておきたい。劉禅様は、どのようなお方ですか」

「姜維、おまえは捕虜なのだぞ。若君を知ろうとするなど、十年早い」

「かまわない、子龍。その問いに答えよう」と私は言った。相手は姜維なのだ。話をする価値はある。


「私にはたいした才はない。だからせめて、才ある人を使う才を磨きたいと心がけている」

「才ある人を使う才……。我に才があれば、使ってくれますか」

「もちろん使う」

 姜維は、ふっと笑った。

「子龍、この男はしばらくあなたに預ける。使い物になるようだったら、いつか私のもとへ連れてきてほしい」

 趙雲はうなずいた。

 夏候淵を倒したことより、姜維を得たことの方がより大きな幸運かもしれない、と私は思った。 

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