第12話 益州

 私が向かおうとしている益州の刺史は劉璋季玉。延熹五年生まれ、五十歳。

 領民思いのやさしい性格との評判があるが、戦が下手で優柔不断。乱世向きの領主ではない。

 幸い益州は周囲を山岳に囲まれた盆地で、守りやすい天然の要害だ。これまでは比較的戦乱に荒らされることなく、独立を維持できていた。

 だが、曹操が天下の大部分を手中にし、独立勢力が荊州の劉備、揚州の孫権、涼州の馬超、益州の劉璋、漢中郡の張魯などと残り少なくなってきたいま、座して待っているだけでは、滅びは近いと言わざるを得ない。


 劉璋は益州内に敵を抱えている。

 益州北部の郡、漢中を領有している張魯だ。


 劉璋は父劉焉の死後、益州の統治を引き継いだ。そのとき、漢中郡にいた張魯が叛いた。劉璋は見せしめとして、張魯の母盧氏と弟張徴を殺した。その後劉璋軍は数回、張魯軍と戦ったが、いずれも引き分け。劉璋は張魯を倒すことができなかったのである。

 そのため、劉璋は張魯討伐を同じ劉氏一門である劉備に依頼した。

 だが使者の法正は、乱世では暗愚であるとも言える劉璋を見限っていて、劉備に劉璋に代わって益州を治めるよう秘かに頼んだのである。

 法正は、益州の重臣張松、孟達も仲間であり、彼らも劉備に従うと伝えた。

 劉備は益州を獲ろうと決意したが、私はまず漢中郡を奪い、その後に益州全土を征服しようと父に献策した。

 そして、私は張飛、趙雲、龐統、魏延と三万の軍勢を率いて、益州へ向かうことになったのである。


 張魯は漢中郡の支配者であるとともに、五斗米道という宗教の教祖である。信者に五斗の米を寄進させている。張魯はその米を自分の享楽のためには使わず、漢中の民のために役立てているようだ。この乱世では珍しい善き領主であると言えるであろう。

 五斗米道教団では、一般信徒の上に祭酒という高い地位の者が何人かいる。張魯は祭酒たちに助力させて、教団を統率している。


 劉禅軍は船団に乗って江水を遡った。

 益州巴郡の首府江州で下船し、兵糧などの積荷を降ろし、野営した。

 漢中郡を探っていた女忍隊の長、忍凜が情報を持って、江州へやってきた。

 私と張飛、趙雲、龐統、魏延、法正は天幕内で忍凜と会った。


「報告いたします。教祖張魯は平和的な人物で、争いを好みません。劉璋と戦っていたのは、信仰を守るためと思われます。劉璋は五斗米道を弾圧していたのです」と忍凜は言った。

「そうですか」と私は答え、目で話のつづきをうながした。

「漢中軍の兵力は約五万人です。兵士はすべて五斗米道の信者で、張魯が死ぬまで戦えと言えば、そうするでしょう。恐るべき軍団です。ただし、張魯は軍事にはあまり関心がないようで、漢中軍の中心人物は、張魯の弟張衛です」

「なるほど、興味深いお話です」

「張魯は漢中郡の中心地、南鄭城にいます。約三万の兵に守られています。張衛は南鄭の西にある陽平関に、二万の兵とともに駐留しています。陽平関は難攻不落とも言われている要衝です」

「わかりました。ありがとう、忍凜。引きつづき、漢中を探ってください」

「はい」

 忍凜は退出した。魏延は腕組みをして、考え込んでいた。


 劉禅軍は江州から陸路で益州広漢軍の涪県に進出した。

 劉璋は成都から涪城に出て来ていた。私は不安そうな表情をした益州刺史と会見した。

「初めまして、劉備の太子、劉禅です。このたびは父劉備の命を受け、張魯を討伐するために参りました」

「益州刺史の劉璋だ。わしは劉備殿自らが来てくれると期待していた。失礼だが、あなたのような幼児を寄こすとは、正直言って落胆している。劉禅殿に張魯が倒せるだろうか。五斗米道軍はかなり厄介な敵であるぞ」

「お任せください。必ず漢中を制圧してみせます」

「劉禅殿に戦の経験はあるのか」

「これが初陣です」

「わしは心配だ。あなたが負けると、漢中軍は勢いに乗って、成都まで押し寄せてくるかもしれん」

「劉璋様は張飛と趙雲の名をご存じですか」

「音に聞こえた将軍たちであるな」

「私の下には、その張飛と趙雲がいるのです。その他に、龐統や魏延という知謀の士もいます。ご心配は無用です」

「うむ、龐統殿や魏延殿の名も知っておる。劉禅殿の陣営は強力であるようだな。頼む、漢中を落としてくれ」

「はい」

 ここまで話してようやく、劉璋の表情から不安が消えた。


「法正殿には、今後とも我が軍に協力していただきたいと思っております。漢中への同行を許可してください」

「かまわん。法正を劉禅殿の部下と思って使うがよい」

「法正殿から、劉璋様がさらなる軍事的なご助力をしてくださると聞いております」

「孟達という将軍に一万の兵を授け、荊州軍とともに漢中を攻めよと命じてある。孟達を劉禅殿の指揮下に置いてよい」

 孟達の名を聞いて、しめた、と思った。劉璋を見限っている将軍だと、法正から聞いている。

「ありがとうございます。これで兵力は四万になります」

 私はほくそ笑みを隠し、うやうやしく劉璋に平伏した。

 内心では、孟達を取り込む気満々である。


 その夜、龐統が涪城内の私にあてがわれた部屋へやってきた。

「劉禅様、進言したいことがあります」

「なんですか、お聞きします」

 龐統は暗い目をしていた。

「今夜にでも、劉璋殿を暗殺なさいませ。そしてすぐに、成都へ向かって進軍するのです。非常に少ない犠牲で、益州を手に入れることができるでしょう。上策だと考えます」

 前世の記憶を思い出した。龐統は劉備に同じ献策をし、父は拒否したという話を聞いたことがある。

 私は首を振った。

「士元、その策は受け入れられません。暗殺が上策とは、私には思えません。それをやると、私はだまし討ちの劉禅と呼ばれてしまうでしょう。乱世でも、最低限の信義は必要です」

「わたくしたちは、いつか益州を攻撃するのです。いまやれば、必ず死者を減らすことができます。信義がそれほど大切ですか。できるだけ犠牲者を出さないことの方が大事ではないですか」

「そうかもしれません。しかし、劉璋様とは正々堂々と戦って、決着を付けたい。暗殺なんてできません」

「劉禅様、正々堂々など、戦争にはありません」

 龐統は真剣だった。信念を持って語っていることが伝わってきた。

「士元、進言してくれたことには感謝します。しかし、それはできません。私にはどうしてもできないのです。お許しください」

 私は龐統の目を見て、しっかりと言った。

 彼は微笑んだ。

「あなたはよい人だ。しかし自分の手を汚さずに、乱世で勝ち抜くことはできません。そのことは憶えておいてください」

 私はうなずいた。

 龐統は部屋から出ていった。


 翌日、孟達に会った。龐統と同い年の三十三歳である。

「あなた様が荊州軍の総帥なのですか」

 彼は私を見て驚いていた。幼児なので、初対面の者は皆、戸惑うのだ。

「はい。なにか不満でもありますか」

 私の後ろに、張飛と趙雲を立たせていた。

 孟達は勇将ふたりを見て圧倒され、「不満など微塵もありません」と言って、私に頭を下げた。

「孟達将軍、我が軍の一翼としてしっかり働いてください。武功があれば、父劉備に報告します」

 私の言葉を聞いて、孟達の目が光った。彼は劉璋に叛き、劉備に臣従したいと思っているはずだ。

「劉禅様に従い、全力で戦います」

 孟達子敬。前世では、蜀を裏切り、関羽を死なせる一因をつくった。

 油断せず、うまく使わなければならない男である。

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