第4話 赤壁遠望

 長坂の戦いの後、歴史の主舞台は赤壁へと移る。

 曹操は荊州の大半を手中に収め、次にその目を呉へと向けた。

 建安十三年冬、魏と呉が激突し、赤壁の戦いが勃発する。

 この頃、劉備と呉の総帥孫権は、魯粛の仲立ちで手を結んでいた。

 しかし、魏との決戦を孫権から任された呉将周瑜は、劉備を警戒し、その介入を嫌った。

 劉備軍は江水南岸の樊口に留まり、戦いを遠望する形となった。


 樊口の西に夏口があり、さらに西に赤壁がある。

 周瑜が陣を張った赤壁は江水南岸であり、北岸は烏林である。

 曹操は烏林に大軍を集めた。

 水軍八十万と号したが、実数は三十万程度であろう。それでも、長坂の戦いのときの二倍の兵力である。

 周瑜が率いる兵は三万にすぎない。

 曹操が袁紹を破った官渡の戦いのように、後漢末期の画期的な戦役となった赤壁の戦い。

 常識的に考えれば、寡兵しか持たない周瑜が勝てる戦いではなかった。

 曹操は負けるとは思いもしなかった筈であり、周瑜ですら必勝の信念を持てなかったにちがいない。

 前世の記憶を持つ私だけが、驚異の勝敗を知っている。


 夜になると、劉備は甘夫人の在所へやってくる。

 私は懸命に口を動かし、両親との意思疎通を試みる。

「ちちうえ……ははうえ……こんばんは……」

「おお、なんという賢さだ。もう話せるようになっておる」

「阿斗はわたしに似ず、本当に頭がよいようです。あなたに似たのでしょう」

「なにを言うか。わしは学のないあほうだ。たまたま臣下に恵まれ、ここまで生き延びておる。運だけはいいからのぉ。阿斗はおまえに似たのじゃろう」

「ちちうえ、うつわがおおきい……。にげあしがはやい……」

「逃げ足か、こいつはまいった。わしが曹操から一目散に逃げたことを、阿斗は知っておるようじゃ」

 父は私を抱き、頭を撫でた。

 劉備はしゃべれるようになった私との会話を喜び、夜毎来るようになった。


 赤壁の戦いとは、いったいなんだったのであろうか。

 この戦役は、歴史を意外な方向へと導くことになる。


 初戦の水戦で、操艦に勝る呉軍が、魏軍を退ける。

 その後、江水を挟んで、長い睨み合いがつづく。

 動かない魏の大軍を、周瑜は攻めあぐねる。

 火攻めをしたいが、冬のこの地域の季節風は北から南へ向かって吹く。敵艦が燃えれば、その火は味方艦に燃え移ってしまうのである。

 火攻めの準備を整えたとき、偶然にも風向きが変わり、周瑜は大勝利を得る。かなり運がよく、彼は勝つのである。曹操にとっては不運で、多くの将兵を失うことになった。


 問題は、曹操がこの戦いで死ななかったことである。

 広大な版図を持つ彼には、再起が可能であった。

 赤壁戦後も、魏はまだ呉より遥かに大きく、強かった。はっきりと言えば、呉は大勝利を収めたのに、領土をほとんど拡大できなかったのである。

 呉が優勢になるためには、敵の総大将であり、稀有な将才を持つ曹操を殺しておかなければならなかった。

 周瑜は勝ったが、あと一歩詰めが甘かったと言えるであろう。

 そこまで望むのは、彼にとって酷かもしれないが。


 もうひとつ問題がある。

 歴史を少し先まで見なければならないが、赤壁の戦いで利益を得たのは、孫権ではなく、劉備であったということである。

 赤壁の戦いの後、周瑜は北伐を敢行したが、曹仁が守る江陵が堅く、落とすのに一年間もかかったのである。しかも落城後ほどなくして、周瑜は病没してしまう。

 孫権も北伐し、合肥を攻めたが、蒋済の策にはまり、撤退することになる。

 赤壁の戦いで呉が得た利は、曹操の勢いを一時的に減衰させただけにすぎなかったのである。


 一方、劉備は呉が停滞している間に、荊州南部の四郡を得た。

 その後数年かかるが、蜀郡の成都を首府とする益州をも獲って、蜀の国を成立させるに至るのである。

 呉がうまく動いていれば、生まれなかった国だった。

 魏と呉の失策により、南北朝時代になる流れだったのに、三国時代が到来するのである。


 樊口にいる私は悩んでいた。

 赤壁の戦いで曹操が大敗した直後に、温存されている劉備軍が壊乱している魏軍を討てば、曹操の首を獲れるであろう。

 この時点で曹操を殺すことは、果たして是か非か。


 このまま前世の記憶どおりに歴史が進めば、蜀漢国は生まれるが、二世皇帝の私の時代に魏に滅ぼされてしまう。

 蜀の大敵はやはり曹操であり、諸葛亮の宿敵となる魏将の司馬懿なのである。

 曹操を殺す絶好の機会を見逃してよいものか。


 しかし、前世の歴史のとおりなら、この後、劉備は龍に乗ったかのごとく伸長するのだ。

 曹操を殺すという歴史的な大事件を起こせば、その利は孫権に転がり落ちることになるかもしれない。

 私は悩み抜いた。


 今宵も劉備が甘夫人の在所へやってきた。

「ちちうえ、しょかつりょうにあいたい」と私は言った。

 そして、赤壁の戦い決着の前月、劉備、諸葛亮、劉禅が話し合うことになったのである。

 冬でも諸葛亮は羽毛扇を持っていた。


「しょかつりょう、こんばんは」

「阿斗様、お言葉が上手になられましたね」

「孔明、この子は天才なのだ。わしとは賢さが天地ほどもちがう」

「主よ、人の上に立つ者にとってなにより大切なのは、器量です。単なる賢さではありません」

「それはわかっているが」

 父は私の頭を撫でた。この頃、劉備は親馬鹿になっていた。

「しょかつりょう、そうそうはまける。しゅうゆがかつ」

「なんですと。それは私も願っているところですが、本当にそうなるのですか」

「ひぜめがせいこうする。そのとき、ちちうえがぐんをうごかせば、そうそうのくびがとれる」

 劉備と諸葛亮は顔を見合わせた。


「形勢がわかっていないと、出ない言葉ですね。阿斗様は本当に天才かもしれません」

「だからそう言っておろう」

「ちちうえ、しょかつりょう、そうそうがしななければ、てんかさんぶんのけいはせいこうする。そうそうがしねば、てんかはどうなるかわからない」

 劉備は笑い、諸葛亮は腕を組んだ。


「とりあえず阿斗様の話を信じることにしましょう。さて、いまのうちに曹操を亡き者にしておくべきなのでしょうか」 

「どうかのぉ。曹操はわしの宿敵で、長年の友人のようでもある。死ねば快哉を叫ぶことになるか、寂しく思うことになるか、にわかにはわからん」

「主の感情はこの際どうでもよいのです。曹操が憎いという私の感情も。利がどうであるかを考えなければなりません。曹操が生き延びたとしても、敗戦によってその力は大きく減り、主は荊州と益州へ進出することができるでしょう。しかし、魏は滅びるわけではなく、後に大敵となって、主の前に立ちふさがることはまちがいありません」

「そうだのぉ」

「曹操は殺しておきたいです。しかし、いま主の兵力は乏しく、彼を討ったとしても、大笑いするのは孫権になりそうです。戦後の利を得るためには、曹操にはいましばらく生存してもらい、呉を睥睨させていた方がよいでしょう」

「そうだのぉ。天下三分が成るのであれば、曹操とは堂々と対決して、破りたいものじゃ」

 劉備と諸葛亮はにやりと笑い合った。

 赤壁の戦いを遠望しつづけ、曹操はあえて殺さないという方針が決まったのである。


 江水を挟んだ戦いが終わり、曹操は北へ逃げ帰った。

 周瑜が北伐を始めたが、江陵で曹仁に押しとどめられるという局面が出現した。

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