第2話 劉禅転生
気がついたら、私はこの世に生まれていた。
六十五年に渡る劉禅の人生の記憶を持ったまま、赤ん坊として存在していた。
前世での誕生時の記憶はさすがに残っていないが、目の前に若々しい姿の父上がいて、母上が私を抱いている。
建安十二年の春、劉禅が生まれたとき、劉備は四十七歳、甘夫人は三十一歳である。
大きな耳を持った父は溌剌とした笑顔を浮かべ、色白の美貌の持ち主として有名な母がやさしく私をあやしている。
「この子を妊娠していたとき、北斗星を飲み込んだ夢を見ました」と母が言った。
「それでは、阿斗と名づけよう」と父が答えた。
阿斗は私の幼名。
劉禅が劉禅に転生したと見るしかない状況だった。
嬰児はふつう思考力を持たないが、前世の記憶を持つ私は特別のようだ。
この頃父が拠点としていた荊州新野の状況を、冷静に観察することができた。
歴史を知らない人のために、かいつまんで状況を説明しよう。
劉備は荊州へ赴く前、中国北部に大きな版図を持つ袁紹に庇護されていた。
袁紹が新興の曹操に攻められたため、劉備は危機感を覚え、汝南に逃れた。
後漢末期の天下分け目の戦いとでも呼ぶべき「官渡の戦い」で袁紹は曹操に大敗し、その命運はほぼ尽きた。
曹操は汝南をも攻め、劉備は敗走して、荊州の劉表を頼った。
劉表は劉備を歓迎したが、側近の蔡瑁が父を危険視した。
蔡瑁は劉表を言いくるめて、父を田舎城の新野へ追いやった。
それが私が生まれた頃の劉備の状況である。
劉備の配下には、一騎当千の武将である関羽、張飛、趙雲がいる。その他、麋竺、糜芳、孫乾、簡雍らが従っていた。
このとき兵力はわずか二千。
数年後に父は荊州、益州を獲り、蜀の国を打ち立てるのだが、新野にいるこの時点では、想像もしていなかったにちがいない。
転生した私だけが知っている。
ただし、ひとりだけ、劉備を国主へと押し上げる策を持った人がいた。
諸葛亮孔明である。
私が誕生してしばらく後、父は三顧の礼をもって、彼を帷幕に迎え入れた。
この頃魏の曹操は、中国の北部と中央部を制して、強大な力を持つに至っていた。
南部には、曹操に対抗し得るぎりぎりの兵力を有する呉の孫権がいた。
西部に、少しばかり力の空白地帯があった。すなわち荊州と益州である。
荊州の劉表と益州の劉璋はともに野心に乏しく、天下を奪おうとするような動きはしていない。
荊州と益州を獲って天下を三分し、曹操と孫権に対抗せよ、と劉備に献策したのが、諸葛亮である。
父は諸葛亮と水魚の交わりと呼ばれる親密な交流をした。
「私にとって孔明は、魚にとっての水のようなものだ」と言って、諸葛亮を軍師として重用し、劉備と義兄弟の盃を交わしている関羽と張飛を嫉妬させた。
諸葛亮は劉備に、老境にある劉表から荊州を奪い取るように、と秘かにささやいている。
荊州の状況を見てみよう。
劉表の子、劉琦と劉琮は異母兄弟であり、不仲であった。
長男は劉琦である。しかし、劉表の妻の蔡夫人が、実子の劉琮を劉表の後継にしようとたくらんでいる。蔡夫人の弟の蔡瑁が共謀している。
荊州は不安定であった。
劉備にその気がありさえすれば、獲るのは不可能ではなかった。
だが、このとき父は、恩のある劉表から荊州を奪取しようとは考えなかったようだ。
劉備はわかりにくい人物である。天下取りの望みは持っているようであるが、その動きは鋭いとは言えず、野心を剥き出しにしたことがない。漢の高祖劉邦を模倣して、臣下の上に悠然と立っているように見えるが、水魚の交わりをしている諸葛亮の言いなりになるわけでもない。
人を魅了する大きな器量の持ち主であったことは確かだが、曹操が右へ行くならわしは左へ行くであろうという以外、劉備に定見はなかったのかもしれない。
なにはともあれ、この時期に父が動かなかったことは、諸葛亮を失望させたにちがいない。
一方、強大な兵力を有していた袁紹を官渡で破り、北部を安定させた曹操は、中国南部をうかがっている。
呉を獲ろうと思っているにちがいないが、その途上にあるのが荊州である。
建安十三年、曹操は自ら十五万の大軍を率いて、荊州へ向かって南下した。
このとき、劉表はすでに病没しており、跡目争いに勝利した劉琮が家督を継いでいた。
劉琦は諸葛亮の助言に従って、後継をあきらめ、江夏郡の太守となっている。
曹操軍の圧力に耐えかね、劉琮は戦わずして降伏した。
新野にいる劉備は孤立したが、長年の宿敵である曹操の下へ降るわけにはいかない。曹操に反抗するのが、広い天下の中での劉備の存在価値のようになっている。
父は身ひとつで遁走した。
諸葛亮、関羽、張飛、趙雲らが劉備を追って逃げる始末だった。
糜夫人、甘夫人と私はなんと置き去りにされた。
劉備のふたりの妻は、懸命にあとを追った。
母上は私を抱きかかえての逃避行を強いられた。
趙雲が私たちの不在に気づいて、取って返してくれなければ、死ぬか曹操軍の捕虜になっていたにちがいない。
だが、前世の記憶を持つ私は、趙雲が救出してくれることを知っている。
一歳の私は、清涼な雰囲気を持つ美貌の英傑、趙雲が来るのを母の腕の中で待った。
背後に曹操軍が迫っている。
助けられるとわかってはいても、恐怖心を抑えることはできなかった。
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