7. トールハンマーの猛威

「ねぇ、本当にこっちでいいの?」


 蒼はしがみついている腕が疲れてきて、不機嫌に聞いた。


「うーん、何も見えてきませんねぇ……」


 ムーシュはバサッバサッとはばたきながら辺りを見回すが、どこまでも続くうっそうとした森と青々とした湖が見えるばかりだった。


 と、その時、いきなり空が掻き曇る。それはルシファーが現れた時と同じ不吉な暗雲だった。


「ヒェッ! またなんか来るよ!」


 蒼は真っ青な顔で不気味な暗雲が渦巻く空を見上げる。


「えっ!? こ、これは……?」


 禍々まがまがしい紫に輝く巨大な輪が現れた瞬間、空気そのものが震えた。それはルシファーが現われた時よりも遥かに壮大で、二人は恐ろしい予感に青ざめる。


「な、何が来るの?」


「わ、わからない。こんなバカでかい魔法陣なんて見たこともないわ」


 空間そのものが歪むような超巨大な魔法陣の中心には、幾何学的な美しさを持つ六芒星が浮かび上がる。続いてルーン文字が次々と形を成して、一つ一つが陣の力を増幅させていく。その圧倒的な禍々しいエネルギーに二人は戦慄した。


「に、逃げよう! 全力で!」


「ひぃぃぃ!」


 ムーシュはあらん限りの力を振り絞り、翼をバサバサとはばたかせる。しかし、空を覆いつくす魔法陣の圏外には到底届きそうになかった。


「湖だ! 湖に飛び込もう!」


「えっ!? と、飛び込むと濡れちゃいますよ?」


「何言ってんだ! 攻撃食らうよりマシだって!」


「わっかりましたーー!」


 ムーシュは湖めがけて必死に羽ばたいた。


 そうこうしている間にも魔法陣のルーン文字はどんどんと書き足され、完成が近づいている。


「くぅ! ダメだ、間に合わないよぉ!」


「じゃあ、きずなのヴェールを張りますよ! 主様、気持ちをあたしに合わせてください」


「き、気持ちを合わせるって?」


 この緊急事態に難しいことを言うムーシュに、蒼は泣きべそをかきながら答える。


「『ムーシュは素晴らしい』、『ムーシュは素敵だって』思ってください」


「マ、マジかよ!?」


「いいから早く!」


 蒼は頑張って復唱してみる。


「ム、ムーシュは素晴らしい?」


「なんで疑問形ですか!」


 全然絆のパワーが立ち上がらないことにムーシュは怒る。


「いや、いきなり心にもないこと言わされる身になってみろっての!」


「思ってください!! 結界が張れないじゃないですか!」


 その時、頭上を覆っていた魔法陣が不気味にヴォンとまたたいた。


 へ?


 蒼が空を見上げると、魔法陣は音もなく収縮しはじめ、紡いだエネルギーを一点に収縮していく。


「や、ヤバい! くるぞ!」


 刹那、目もくらむような閃光が世界を覆い、激烈な熱線が数十キロメートルにわたる範囲を灼熱地獄へと変えた。森は一斉に燃え上がり、元いたあたりは大地が溶け、オレンジに輝く溶岩と化していく。


「ぎゃぁぁぁ!」「くわぁ!」


 熱線はムーシュの背中を直撃し、翼も服も燃え上がり、肌は一瞬で焼けただれた。


 あまりのことに意識を持っていかれるムーシュ。森の上空で二人は飛ぶ手段を失ってしまい、真っ逆さまに落ちていく――――。


「うわぁぁぁ! ムーシュ、ムーシュぅ!!」


 蒼は慌ててムーシュの頬を叩いてみるが、何の反応もない。


 それにもし気がついても燃えた翼ではもう飛べないのだ。蒼は絶体絶命のピンチに気が遠くなる。


 いやだよぉーーーー!


 蒼は真っ逆さまに落ちながら爆心地の方をにらんだ。すると、燃え盛る森の向こうで何やら白いまゆのようなものがどんどんと大きく膨らんでいるのが見える。


「な、なんだ……?」


 嫌な予感がして繭を見つめていると、それはどんどんと膨らんで蒼たちの方に迫っている。


「お、おい……。まさか……」


 直後、繭の白い表面が蒼たちに到達し、激烈な衝撃が二人をはじき飛ばした。それは爆発の衝撃波だったのだ。


 ぐはぁ!


 吹き飛ばされながらグルグルと宙を舞う蒼。キーン! という甲高い音が脳に響き渡り、鼻の奥から血の匂いが広がった。


 次の瞬間、激しい衝撃とともにジュボッという音が響き、身体の自由が奪われる。


 ぐ、ぐぉぉぉ……。


 容赦なく鼻から入ってくる水。そう、そこは湖水の中だった。


 必死にもがく蒼。


 透明度高く青く澄み渡る水に幾千もの泡が舞い、渦を巻きながらゆったりと水面目指して浮き上がっていく。


 混乱してバタバタしていた蒼だったが、何とか状況を理解すると立ち直り、水面へと目を定めた。可愛いもみじのような手を使って水をかいていく……。


 ぷはー! ゲホッゲホッ!


 顔を出した蒼は思いっきり息を吸い込み、せき込んでしまう。


 何とか生き延びたことに安堵した蒼だったが、ムーシュが見当たらないことに気づいた。


「あ、あれ? ム、ムーシューー!」


 大やけどをして気を失っていたムーシュ。一緒に湖に落ちてきたとしたらまだ湖の中だ。ヤバい……。


 蒼は大きく息を吸うと急いで顔を沈め、水中をうかがう……。


 透明度は高いが、それでも見える範囲は限られている。いくら探してもムーシュらしき姿は見えない。


 くっ!


 蒼は乳歯をギリッと鳴らす。ムーシュがいなければ自分は即死だった。ムーシュは命の恩人である。例え言うこと聞かないおチャラけた悪魔でも、今では失いたくないたった一人の仲間だった。


「いやだよぉ! ムーシュぅぅぅぅ!!」


 パチパチと燃え盛る森の中の小さな湖に、蒼の叫びが響き渡った。

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