太陽の雪原

あおいそこの

汰葉

とてつもなく寒いこの世界での愛の物語。


「汰葉くーん!」

「はあーい」

「外行ってお茶でも飲みませんかね」

「3秒で冷えますよ」

「そうかもね」

そう笑った先輩の後に続いてコートを着る。コートというよりも完全に装備だ。これを着ないで外に出たら一瞬で凍傷にやられてしまう。夏でも平均気温が零下を下回る。吹雪が起きる日には外に出たらまず呼吸が出来ないほどだ。

僕たちが臨時で生活するこの場所は北極の観測基地。ニーオルスン基地。最近出来た日本の基地で職務に励んでいる。大陸ではない北極の氷や、気象。環境やアザラシやホッキョクグマなどの生物。北極を観測するための場所。文字通り。

生活基盤も、施設も何もかもしっかりしているから生活するのに苦はほぼない。室内に至っては快適だ。

今回僕がやって来たのは所属する生物保護局の中でも極地に住む生物の生態を観察するためにやって来た。はるばる日本から船で長旅をして到着したのはつい3日前。施設の中を見て回ったり、まず人が環境に慣れるところから始めたから本格的な調査は今日からになる。

「癒月(ゆづき)先輩は寒いところ平気なんですか?」

「いや、大っ嫌いよ。でも雪は好きなの。雪はね…ふわっふわの…雪だね!固いし!超絶寒いし!どうしたらこんな場所が生まれるのっていうくらい不思議だわ!もう!」

「情緒不安定なんですか~?1か月だけじゃないですか。楽しみましょうよ。動物園でしかお目にかかれない子たちに会えるんですよ!流氷とかも見れるし」

「汰葉くん、観光ではないよ?」

「分かってるつもりですが?」

「あ、お2人さーん!探しましたよ。そろそろ出発です。車に乗りましょう」

「あら伊織ちゃん。わざわざありがとう。今行くわ」

そして凍える外の世界のさらに外を知りに行く。仕事以外の時間にも本当は散歩をしていたい。けれど夜になって散歩をすることは自殺行為だし、不用意に外に出ると誰にも見つけられないような場所で死ぬ可能性があると基地が禁止している。ずっと外の冷気にさらされていると寒すぎてコンタクトが目の中で凍ったりするらしい。喉にも影響がありそうだし。体中の水分が凍りそう。実際そうかは分からない。

けれどこの人類の知り得ないことがまだまだ広がっているこの場所との距離感は仕事で測ってから。それから攻略対象として仲を深めていきたい。

口まで覆うネックウォーマーのせいで呼吸が少し苦しい。そのせいなのか、尊すぎる光景に呼吸を思わず忘れてしまっているのか。人工物の見当たらない場所に乗り出すために、原始的な方法でサンタかのように駆けだしていく。トナカイの引くソリに乗って。

プレゼントをもらうのはサンタ側なのに。

「汰葉くん!よそ見ばっかりしてると落ちるわよ」

「あ、すいません…」

「美しいのは分かるわ。でもまずはお仕事よ」

「はい」

僕たちの目指すはホッキョクグマの生態調査。獰猛で人間が簡単には近づけない相手。襲われたらひとたまりもないことは容易に分かる。どうやって生活しているのか。どうやって餌をとっているのか。ボスはいるのか。子供の存在。メスの役割。オスの役割。すでに解き明かされていることも少なくない問題をもう一度見直すことで今、新しい何かが見つかるかもしれない。道が開くかもしれない。


僕が極地と出会ったのはBGMのように点いていて当たり前に目に入ってきたドキュメンタリーをまとめた番組だった。北極ではなく、南極調査隊。その時にやむを得ず置いて来るしかなかった犬の奇跡の生還物語を見て、南極の厳しさを知った。地理に疎かった僕は北極を存在としてしか認識していなかった。でも名前の付いた場所として認識するようになった。

「いつか北極に行きたいなあ」

馬鹿みたいに描いた夢だった。

ペンギンとワイワイ遊べる場所を想像していた。アザラシが寝っ転がっている姿を見て呑気に笑えるような場所だと思っていた。一歩海に出たらひとたまりもない場所だなんて微塵も脳内にはなかった。

弱肉強食の本当の意味を知らずに描いた夢を僕はひっそりと、たまに堂々と抱いて思春期という大きな壁も一緒に乗り越えてきた。

二分の一成人式では。

「僕の将来の夢は、北極でいろいろな生き物がどうやって生きているかを調査する人になることです。テレビで見た極地の過酷な環境で生き抜く生き物に感動したからです。」

綺麗な言葉でまとめた。言い回しを先生に聞いた記憶がある。

中学校の自己紹介カードには少しだけかっこつけて。

「生き物の生態調査を出来る仕事に就きたいです。出来れば北極や、南極など極地の生き物を調査できる人になりたいです」

言葉が洗練されている。

その夢は変わらず大学を卒業しても持ち続けていた。どんな学部に進めばいいのか分からなかったから役に立ちそうな獣医学部がある大学に進学。一浪した。

そこで動物の生態に詳しくなり、北極の生態調査チームに入れるように努力した。個人で行くためにはバイトじゃ到底賄えない額を稼がないといけないし、そんなこともあろうかと貯金した金も一気に吹き飛ぶ計算になった。日本に帰ってきても生きていけないくらい。だから僕は手っ取り早く生態調査の求人に目を付けた。

「汰葉ってどうして北極に行きたいの?」

付き合っている瑞城(みずき)に聞かれた。

「動物園で人はこぞってホッキョクグマを見るでしょ?」

「そうだね。いることが珍しいからね」

「そういうことだよ。珍しくない環境ではどう生きているんだろう、って知りたいから」

「へえ。それで彼女放ってお勉強三昧ですか」

「ごめんって…」

「いいよ、私全く気にならないし。汰葉が将来の夢へ没頭してるから私もゲーマー目指すって名目でゲームしてても何も言えないじゃん?」

「それはそうだけど…ちょっとは汰葉を見てあげてください」

「そっくりそのまま返そうじゃないか!」


そうやってあまり構ってあげられないけれど気持ちいいまでの笑顔で送り出してくれた彼女を日本において僕は北極へ旅立った。


まさかそこでホッキョクグマを拾ってくるとは彼女は思ってもいなかっただろう。プロゲーマーへの道を歩んでいる会社勤めの彼女はツーショットを見て「可愛い」とのことだった。けれどその後に日本で保護動物として育てることを告げた時にはどういうことか、説明を求められた。

僕も驚いている。

どうしてこうなったのか。北極探検の期間も終わりに近づき、帰国まで時間がなくなっていた。こっちでの生活にも慣れ、寒さにはまだ慣れないけれど雪の白さがそこまで眩しく感じなくなっていた。そんな時の探検でのことだった。

「あ、癒月さんあれって!」

「え、どこ?私視力悪いから分かんない」

「あの小高い山の方ですって。群れからはぐれちゃったクマですかね」

英語でそっちの方に向かうように頼んで方向転換にバランスを崩しそうになる。

ソリが止まって雪原に降り立った。伊織さんが言っていた通り小さな小さな生後1か月も経っていないかもしれないホッキョクグマがいた。白い毛がところどころ赤色に染まっている。

「どうしたんでしょうか。怪我してますね」

「これって触ってもいいですか?」

「近づくことも人間には許されないわ。ここで生まれたなら、ここで死んでいくべき」

「でも、怪我してる!」

「基地には連れていけないわよ」

「保護動物…として日本に連れて帰りましょう!いつか、北極に戻しにくればいい」

「許可が必要だし…」

簡単に許されることではない。生態系を崩しかねない行為だから。簡単に連れて帰れないことはきっと伊織さんも分かっている。

「それにそもそも日本へ連れて帰る手段がないわ。私たちは飛行機を乗り継いで、さらに船に乗ってここまで来たし。飛行機に乗せたらそれこそこの子は死んじゃうわ」

「全部船で帰るとか…?」

「税関ナメないてないでしょうね。ホッキョクグマです、なんて言ったら即刻警察呼ばれて何かしらの法律違反で逮捕よ」

「伊織さん手当だけにしましょう」

「そうね。それくらいは、チャーリーにも許してもらいましょう」

チャーリーとはソリを動かすプロだ。気さくに話しかけてくれて、僕たちの拙い英語を理解しようと頑張ってくれる。日本語を教えてくれ、と言われてみんなが笑顔になって引き受けた。北極のことに詳しいチャーリーも生物への過度な干渉はいけないと、分かった上でなにも言わないでいてくれた。少し気まずそうな顔をして大きな山の方を向いていた。

「これでいいかしら。包帯は使ってないし、傷口の消毒と汚れを拭きとっただけ」

「伊織さん。そんな物惜しそうな顔したってダメっすよ。この子と僕たちは住む世界が違うから」

「でも…こんなに小さいのに。きっと明日にだって死んじゃいますよ」

「明日また生きてたら考えなさい。そういうことは」

弱肉強食だ。それが如実に見えた瞬間だった。ファーストペンギンのように一番最初に海に飛び込む勇敢なペンギンも食べられる可能性があるから勇敢と言われる。そのペンギンが食べるのもペンギンよりも生態系のピラミッドの下位に属する生き物。陸の上ではホッキョクグマが最強なはずのクマが襲われた。

予想外のことが起こる人生、生物の生を目の当たりにすると残酷さも知るけれど、そこで起きる愛情のロマンスも知る。親子愛や、恋人のように相手を大切にしあうような愛情も。生きるためにシャチが氷の下に潜り込んでアザラシを氷の上から落とすことも残酷だけれど何頭かのシャチの協力と思えば愛の物語にも思えるのだ。

「じゃあね…」

伊織さんが手を振ってよたよたと足元のおぼつかないホッキョクグマに別れを告げる。あの小さいクマが北極の冬を一晩でも乗り越えられるかは気になったけれどさっき言った言葉に嘘はない。僕ら人間とホッキョクグマのあの小さい子は住む世界、住める世界が違う。

その日の晩も伊織さんは気もそぞろに夕ご飯を過ごし、寝る前の時間もぼーっとしていた。

「伊織ちゃん、子グマのことをまだ考えているの?」

「そうです…まだ気になるんですよね…」

「群れに見つかることを祈るしかないわね。でも明日、変わらない場所にいたら群れの近くまで誘導しましょう」

「いいんですか!」

「命が失われるかもしれないことは私だって気にするわよ」

「癒月さん!!」

その会話を端目に聞くくらいの気分の浮き具合でいうと僕も伊織さんもそこまで変わらなかったと思う。僕もホッキョクグマのあの子の行く末が気になって夜しか眠れなそうだった。夢にまで見そうだった。むしろ夢に見たかった。夢の中だけでも一緒に遊んだりしたかった。


翌日

時間よりも早くに目が覚めたのはなんだか騒がしかったから。足音がして、物騒な単語が聞こえたりもした。銃とか、殺すとか。そんな。聞きなれない単語に耳が過剰に反応して適当に着替えてから部屋を飛び出した。

「汰葉くん、なにがあったの?」

「分かりません。でも、外みたいですね」

「私たちも出ましょう」

「伊織さんは?」

「それが見当たらないのよ」

寝坊癖がある人だからまだ寝ているのかもしれない。事情によっては起こしに行けばいい。癒月先輩と外へ急いだ。

そこにいたのは小さい

「昨日のホッキョクグマ…」

「どうやってここまで?」

昨日乗って駆け回ったソリの近くを見るとまだくっきりと跡がついていた。多くのソリが一緒だった。天候が安定してい吹雪いていないから跡が消えることなく残っていた。それをたどってやって来たのかもしれない。

「あの子…賢い子ね」

「そうですね」

「あれ!伊織ちゃん、何やってるの。あの子!」

日本語と英語が入り混じりながら殺さないで、と訴えかけていた。襲い掛かるようなことがあれば自衛のために、と構えているだけで本気で撃つつもりではないと思う。

「癒月さん。汰葉くん。この子、どうにか私たちの後を追って来たから追い返すなんてことしませんよね」

「日本に連れて帰りたいのはやまやまだけど…」

昨日言っていたように色んな法律に止められそうだ。潤んだ瞳でこちらを見つめる伊織さんに僕が答えられることは無い。なんの権限も無いから。

「何をしてる?」

英語でそんな声が聞こえてきて癒月先輩が間髪入れずに答えた。

「人間に懐いてしまったホッキョクグマを日本に持って帰ってはダメですか?」

「人間に、懐いた?干渉したのか?」

「傷を負っていたので手当をしました。でも元いた場所に放置して置いてきたんです。けれどソリの跡を辿ったのかこの基地までたどり着いたようなんです」

「銃を下ろせ。子グマだ。そこまで慌てるんじゃない」

動物を連れて帰ることはそう頻繁に起こることでは無い。絶滅危惧種だったり、人工的な保護が必要な場合。繁殖などちゃんとした目的が無ければ本来の居住区域に留めておき、自然に淘汰されるのならそのまま。流れるように生きて行って、死んでいくの本能以外の法がないこの場所での決まり事。

「日本に連れて帰って、大人になったら戻しに来い。一時的な保護、としよう。これは断じてひいきとかではないからな。本来であれば厳重に審査した上で行われるはずのことだ。人間を知ってしまったし、子グマだ。自然界の放り出すのは残酷だろう」

「ありがとうございます!!」

「さっさと手続きをして来い」

「はい!」

こうしてホッキョクグマは日本に連れて帰られることとなった。帰国まで残り3日のことだった。

「クマクマちゃーん、もうちょっとで帰国だよ。君にとっては長い長い旅行かな」

「伊織さん、クマクマちゃんって」

「名前は日本に帰ってから決めよう?だって君もちゃんとした名前で呼ばれたいでしょ?」

「ユキちゃんとかでいいじゃないですか」

「もー!どうして勝手に決めるの!気に入ってるみたいだし!」

「気に入ってるならいいじゃないですか。ほら、ユキちゃん」

どこにでもよくある名前をつけた。いつか手放す時が来て、愛着が湧いていたら困るから。死なないように。それだけをユキちゃんに僕は施せばいい。


そして帰国の日。

ユキちゃん(仮)は動物用のコンテナに入れられて運ばれた。飛行機ではなく、船によって日本に帰ることになった。揺れは少ないけれど、飛行機よりもはるかに時間がかかる。その疲労はどのくらいになるか想像が出来なかった。

施設に連れて行って検疫など、いくつもの検査を済ませてから特別に作られた場所にユキちゃんを放した。伊織さんがその役をやりたいと散々騒いでいたけれど長旅のせいで体調を崩してしまった。なのでその役は僕がすることに。小さくて抱き上げるのも苦労しないホッキョクグマの赤ちゃんを降りの中から出した。

「僕の名前はね、汰葉っていうんだよ。よろしくね。君のお名前は?」

ユキちゃんという名前があるけれど不服そうなら今すぐにでも変えようと思っていた。

「君のお名前は…ユキちゃんにしよう!」

それでいい?というように首を傾げると鼻を近づけてきた。

「ユキちゃん、よろしくね」

ユキちゃんは僕たちのメンバーの一員となった。翌日鼻をすすりながらやって来た伊織さんに名前の候補をものすごい数書かれてあるルーズリーフを顔面に突き付けられた。そしてユキちゃんになったよ、と癒月先輩たちが言うと新種の生物みたいな鳴き声を上げていた。どうして先に決めちゃったの!?って。

ユキちゃんがそれを選んだんですよ。って言ったらそうか分からないだろ、って肩をめちゃくちゃ揺らされた。

毎日ユキちゃんの体調の変化に気を付ける。あげたご飯の量、食べたご飯の量。長距離の移動だったからそれのストレスも軽減するために奔走した。傷が膿んだりしないようにさらに丁寧にケアをする。

最初は警戒心が見えたけれどだんだんと唸ることもなくなって、撫でさせてくれたり、名前を呼ぶと反応してこっちに駆け寄って来てくれるようになった。ご飯をくれる人に懐くというのはやはり本当のようで僕に一番懐いている。甘える仕草を僕にはするけど他の職員にはしない。

「どうしてよ…私に懐かないのはどうしてなの…」

「僕に言われましても…」

「私もご飯あげてるのに」

「伊織ちゃんはおやつでしょ。動物はご飯をくれる人を好きになるのよ」

「私ご飯当番になる」

「汰葉くんのじゃないとご飯食べないわ」

僕以外の職員があげたところ何も食べなかったことがあって、それ以来ずっと僕がご飯の当番をしている。

「可愛い子ね、ユキちゃん」

「そうっすね」

大人になったら別れなければいけないし。大人にならなくてもお別れは来るかもしれない。人間よりもはるかに強い力を持つから。同じ場所にいたらホッキョクグマの愛情表現で人間が切り裂かれることもあるかもしれない。

ご飯や、言葉をあげて。同じ時間を過ごした。ボールを転がしたり、お風呂に入れたり。傷の経過を確認して完全に治った時には訳が分からない顔をしているユキちゃんを抱き上げてくるくると回った。

そんな時間がいつまでも、いつまでも。終わると分かっていて、一緒にいるのはなんて残酷なんだろう。残酷な人間ではありたくないから次の1秒が、その次の1秒と全く同じであればいいのに。

「ユキちゃユキちゃユキちゃユキちゃユキちゃユキちゃユキちゃ」

ってなるのはホラーか。

ユキちゃんの誕生日が来た時にまた同じ年をやり直せたらいいのに。誕生日ケーキに吹き消すろうそくの数が永遠に変わらなければいいのに。ユキちゃんはケーキが食べられないから僕のケーキだけど。


「遅い。すごく遅い。実に遅い」

ロマンチックなことを考えていたメルヘン脳とは変わり変わって玄関で正座をさせられています。

「君は、私のメールを読まない常習犯だな」

「はい。弁解の余地もありません」

「今日は連絡もなく遅くなりおって。特別な記念日だったら右ストレートでもおかしくないぞ?」

「その場合は甘んじて…」

「嬉しい報告があるのにロマンもなにも消し去りやがって」

「え、なに?」

「企業ゲーマーのアジア大会。出場決定しました!」

ゲームの会社に入ってその中でも腕を着々を上げて選抜チームに入ったことは聞いていた。ゲームには詳しくなくて言われる内容も難しくて覚えていないのが正直なところ。そういえば大会がある、と言っていた気がしないでもなかった。

「時止まってる?」

「あ!おめでとう!」

「あ、ってなんだよ。あって」

「瑞城に怒られるかと思って」

「なんで?この温厚で優しい私が君を?怒る?」

瑞城はこういう奴だ。

「連絡返すのも遅くなってたし、まともにデートも行けないでしょ。最近」

「それについては全く怒ってないよ。私のこの嬉しい報告をしたかったのにいない、ことに対してのイラつき」

「いろいろごめんだけど、おめでとう。すごいね、頑張ってアジアトップになってきてよ」

「ん。練習で当たったり、オンラインでやるとめっちゃ強い人ばっかなんだよね」

首に頭を押し付けられる。瑞城の照れ隠しだ。長い髪の毛が無造作にまとめられていて縛られていない髪の毛が首筋に当たって少しむずかゆい。

「よって、汰葉、君にはユキちゃんを目一杯可愛がるという任務を授ける」

「うぃっす?」

「私のこと気にしてたらラブラブ出来るもんも出来ないでしょ」

「ユキちゃん、クマだけどな」

「いいんだよ、クマと恋でもして来いよ」

「僕の相手は瑞城さんだけですけどね!」

「暇なら結婚して?」

「いいよ?」

いつものおふざけかと思っていた。お手、と言われて出した手の上にはしっかりとした重さは軽いが、重みはあるものすごく感じる箱が乗せられた。

「え、ちょっと、瑞城さん?なにこれ」

「私以外に目移りすんなよっていう牽制的な?ほらほら、私がプロポーズしてやんよ」

かっこいい彼女がかっこいい妻になる瞬間だった。指輪の箱を奪い取られて、ひざまずいた瑞城が箱を開く。

「私だけのタイヨウになってくれますか?」

「もちろん…です…」

「さー、酒でも飲むぞ!祝杯だ!」

「何を祝ってだよ!」

「分からないけど、何でもいいだろー!」

こうして僕は独身じゃなくなった。今時の考え方ではないかもしれないけれど男として、結婚してください、って言うのめちゃくちゃ憧れてたのに…と少し恨んだ。それ以上に心の中は嬉しいの感情で埋め尽くされていたから気にならなかったけれど。

「ユキちゃん、汰葉のこと狙ってたら悪いことしちゃったね女同士の争いは怖いよー」

「やめて、僕のために争わないで」

「モテる男は辛いね」

翌日、二日酔いで出勤すると怒られたけど左手の薬指の印を祝福された。ユキちゃんに会う時は誤飲が起こっても怖いし、固いものは危ないので貴重品としてしまっておく。


ユキちゃんを拾ってきてから約半年が過ぎ去った。小さい頃の可愛さは面影になりつつある。けれど僕の中でのゆきちゃんは今でも変わらず出会ったころと変わらないユキちゃんのまま。

「ユキちゃん、僕ね、結婚したんだよ」

動物の世界に結婚っていう明確な定義はないだろうから結婚から説明をする。

「好き同士の2人がね、これから先もっともっと一緒にいられますように、っていう同じ決め事っていうか。自分たちだけじゃない大きい存在にも、2人でいていいですかー?って認めてもらうんだよ」

そう考えたらユキちゃんと僕も結婚しているのかもしれない。あら、日本では重婚は罪なのに。

フンや、汚れた草を掃除している時に1人で話していた。『モモ/ミヒャエル・エンデ』の道路掃除夫のベッポのように。終わりそうにないと思う量の草や、汚れを片付けなければいけない時に思い出す。

「一度にその空間全部のことを考えちゃいけない。ユキちゃん、分かる?次の一角のことだけ。次のひと呼吸のことだけ。次のひと掻きのことだけを考えるんだよ」

振り返るとボールで遊んでいてひっくり返っていた。急に反転した世界に驚いて目を丸くしている。動物園で見る動物は案外表情が薄いんだな、と思うけれどよく見てみると表情が全てを物語っている。同じ言葉を持たない分、それにユキちゃんはあまり鳴かない分。表情がすごく豊かだ。

「ユキちゃんも、いつか、戻ったら大切な人が見つかるといいね」

そう言ったら足に何かがぶつかった。ピンク色のビーチボールくらいの大きさのボールだった。ユキちゃんがここに始めて来た時にそのボールだけは自分から手を伸ばした物。それ以来ずっとお気に入りのよう。

「遊ぶのはちょっと待ってね」

瑞城にはよく鈍感、と言われるけどもしかしてユキちゃんも僕にそう思っていたりするのかな。振り返るとつまらなそうな顔をしてボールを取りにやって来た。

「ごめんって。すぐ片付けるからね。そうしたら一緒に遊ぼう」

それでも、そうじゃないんだよ。って顔をしている。

これは僕が鈍感なのか?ユキちゃんのアピールが下手なのか?


「最近ユキちゃんの自己主張が激しくなってきたんですけど、上手く応えられてないっぽくて不満げなんですよね…」

「恋人の悩みか」

「遊んでーとかじゃないってこと?」

「おそらくは遊んで、だと思うんですけど」

数少ない友達に伝えるよりも先にユキちゃんに結婚を伝えた日のことを話した。

「それは嫉妬ではないでしょうか!」

「伊織さんは相変わらず元気ですね」

「汰葉さんが彼女さん?奥さんと結婚することを聞いて妬いちゃったんですよ!きっと!」

「でもホッキョクグマだよ?人間の習性とは程遠いよ」

「今ホッキョクグマ馬鹿にしたでしょ!ユキちゃんのこと馬鹿にしたでしょ!この鈍感!」

ぽかぽか殴られならがモニターでユキちゃんの方を窺う。ころり、と横になって眠っている。さっきご飯をあげたからお腹がいっぱいになったんだろう。今日はたくさんご飯をあげる日だ。いつか野生に戻すことが目標だから餌は不定期に量を少なくする。おやつはもっと頻度が少なく、さらに不定期にあげている。

あの時ユキちゃんは僕に何を伝えたかったんだろう。

「そりゃあ気まぐれだろーう」

「情緒がないね。相変わらず」

「否定しろ?こんなメルヘン脳ちゃんはそこそこいませんぜ」

「メルヘン脳ちゃんはそんな話し方しない」

奥方様は本日ゲーム合宿に行かれました。帰ってくるのはもう少し後になるそうなので久しぶりに大学時代の友人と飲んでいる。女好きの男だ。自称メルヘン脳。

「クマちゃんなんでしょ?する行動何もかもに意味があると思ったら疲れちゃうよ。気まぐれだ。遊んでやれ」

「でもさ、人間みたいに言葉で意思表示が出来ない分、行動に表すと思うだよね」

「ユキちゃんは鳴かないの?」

「鳴かない」

「じゃあそうかもな。付き合って半年だったら知らないことがあっても無理ないと思うぜ。それに同棲じゃなくて通い婚スタイル。もっと通って知っていけばいいんじゃないの?」

「通い婚って…」

グラスに残ったレモンサワーを飲み干した時、氷が鼻の下に当たって冷たかった。

「俺はユキちゃんがお前のことを相当好きと見たぞ」

「それは、分かる」

「モテてますってか!?瑞城さんは大学でも美人で有名だったよなぁ…お前みたいな鈍感日本代表です、みたいな奴と。あぁ、おーいおい」

「ユキちゃんにご飯あげたりしてるから、その感情だよ。別にそれ以上でも以下でもない」

「お前日本代表どころじゃねぇよ。もうオリンピック出ろよ…e-スポーツじゃねぇ。ob-tuseだよ!」

おぞましいものを見る目で見られた。丸でこの世のものではないものを見るような。それにそこまで鈍感だって言われると傷つくものは傷つくんですけど。ちょっとした反抗の意を込めて屁理屈を返した。

「オブトゥース。イントネーションとしてはトゥを上げるんだね」

「そういうこと言ってんじゃねぇよ!」

まだ若手にジャンル分けされるとはいえ翌日も仕事を控える社会人なので2軒目に行くことはなく、1軒目の居酒屋で解散した。酔いを醒ますために一番近い駅の1つ奥まで歩いた。


鈍感

鈍感

obtuseも鈍い、という意味。

これでもユキちゃんのことはよく見てるつもりだし、比較していいかは分からないけど瑞城のことも見せてくれている面は見ている。


・ユキちゃんは怒ると壁の方に向かってふて寝をするけど、僕が入ってくる音は分かるみたいでボールを転がす。


・瑞城は怒ると一切の表情が消え失せて、冷蔵庫から何の前触れもなく取り出した僕のジュースを飲む。翌日謝られる。


・ユキちゃんは嬉しいことがあるとボールを抱きしめたり、僕の足に絡みついてきたり、腕で何かを抱きしめようとする。


・瑞城は嬉しいことがあるとえへへ、ぐへへ、って笑いながら近寄ってきてまた僕のジュースを飲む。翌日謝られる。


その後に尋ねたり、したりする行為が鈍感で鈍いのか?それに気づけないことももしかしたら鈍いのかもしれない。

ジュースを飲まれても、ちょっと強くボールを当てられても怒りは湧いてこない。それは優しさ、ともみられるだろうけど執着がない、と思われるかもしれない。

僕的観察日記は今日も今日で続いていく。


ユキちゃんと出会って1年が経過。

「ユキちゃん、だいぶ大きくなったねー抱っこはそろそろ腰に来るね…」

足に絡まる時の威力も最初の方に比べたら段違いに変わった。爪も伸びて、鋭くなった。行動の中に傷つけないように気をつけている感じがした。だから決して僕たちに痛いことはしなかった。でも僕は優しくない時があった。

戻す日が近づいているのは分かっていたから言葉を投げかける回数を段々と減らして、ご飯も現実味を増やした。君のため、貴方のため、を謳う悪人が消えない理由が分かった気がした。

愛しているから。

愛してしまうから。

大切に思いすぎてしまうから。

人はちょっとばかし、鈍感になって、馬鹿になる。

円満な今が一生続けばいいのに。たまにロマンスの悲劇に襲われて、それは結局は愛を確かめ合う苦難になって。養分になって腹一杯だね、って笑い合う。それを求める僕は今までもこれからも鈍感を抱えていくんだと思う。

「汰葉くんは人に対しての感情が大きいね。とってもいい事だよ」

「汰葉さんって全部を大切にしますね!そういうとこ好きですよー」

「お前のいい所は受け取りまくるけど鈍感なところだな!」

「汰葉は私のことめちゃくちゃ愛してんだろうな、って思えるから好き」

色んな人に言われる。僕はちょっとばかしの鈍感だねって。

「抱え込んだらいつでも吐き出しにおいで」

「疲れちゃったらすぐ休むんですよ!」

「鈍感が剥ぎ取れた時が心配だよ」

「私の愛が必要なのかは分からなくなる」

失って気づくって馬鹿な文言に後悔をするくらいなら重いと思われたって伝えた方がマシだろ。未練がなるべく残らない道を選びたい。末永く務められたら嬉しいグループも、出来れば長く続いて欲しい関係性も、離婚の可能性を考えたくない夫婦の形も。成立するのは僕が鈍感だからなのかもしれない。


冷たい考え方に触れてきた人生だった。お世辞にも家庭環境はいいと言えず、そのせいで自分に対しての余裕が無いから周りのことなんて気に出来なくてクラスで浮くことが多かった。冷たい家の中で冷たい海に出会ってから変わった。夢に描いていたことが現実になって、夢に描かれることが現実になった。

満たされている日々の中でどうしようもない感情に襲われることがある。孤独感みたいな。誰からも忘れ去られてしまったんじゃないか、というような。

そういう時はひどく何かを痛めつけたくなる。自分にしろ、周りにしろ。そして生きていることを実感しようとする。生きている意味になろうとする。冷たい人が、冷たい考え方を容赦なく、躊躇いなく外側に見せてしまうのが僕は嫌いだったから。そういう人にならないように。いろんなものから距離を取った。

瑞城であれ、友人の誰かであれ、あのグループからも。

ユキちゃんを育てる環境は基本的には寒かった。嫌な時でも、ちょっと体調を崩すくらいでもしなければいけないのが仕事だ。それに代わりのいない役をやらせてもらっている分そう簡単には休めない。自分の中でも冷たい周期を隠せるのはユキちゃんといる時だった。癒月先輩や、伊織さん。その他の職員には気づかれないようにするけど、どうしてかユキちゃんにはなんでもかんでもベラベラ話してしまう。

言葉が分からないし、ってそういう人間の優越感に浸っているだけか。

「ユキちゃん、結局は人間ってこんな奴なんですよ」

君の寒さで僕の冷たさが誤魔化される。ありがとう、誤魔化してくれて。ごめん、誤魔化すのに使って。

最近はそれも変わってきて言葉が伝わっているんじゃないかって思うようになってきた。こっちおいで、と言ったらゆっくりと向かってくる。元から名前を呼べば自分の名前だけに反応した。どうしたの?遊んでくれるの?って。可愛らしい瞳をウルウルさせながら。


君にとっての幸せと僕の考える君の幸せが交わるようにと願うだけ。

君はいつか自分の名前さえも忘れてしまうことが幸せなこと。同じだけの力で遊べる相手がいることが幸せなこと。呼ばれなくても本能を見せて向かって行けることが幸せなこと。

けれど僕が別れたくない、と思う。辛い、と思う。それは許してよ。

「ユキちゃんの北極に戻す日程が決まった」

「ついに来ちゃったか…」

「覚悟の上ででしょ。その日はまた北極に行くから各々準備してくるように」

「了解です」

「何か質問は?」

「ないでーす」

「ないです」

「ん、じゃあ今日の仕事に励むように!」


あと1か月だって。


出会ってからはもう2年になる。ホッキョクグマは2年経てば大体大人になる。母親クマの子育ての期間も大体2年間。もうユキちゃんは立派な大人。抱っこは出来ないし、ボールより小さかった頭も、大きく口を開いたら噛めるくらい大きくなった。いっそのこと大きくならなかったらよかったのにね。傷が治らなきゃよかったのにね。

「そう思うのは人間の欲目だね」

「汰葉さん?ポエマーになるのはやめてください」

「伊織さんだって別れたくないでしょ?」

「そりゃあ。でもユキちゃんは北極に本来はいるべき動物なのも分かってるつもりだし…」

「ですよね」

ちょっと馬鹿で、鈍感で、馬鹿になる。

冷たい気分になりそうだ。結婚してから初めてかもしれない。見せることは、まだ怖い。

「ただいまあ」

「おかえり。今日は、実に普通の時間に帰って来たね」

「なんだそれ」

瑞城の顔に違和感と、冷蔵庫を見た時に僕のジュースがなくなっていたのを見て何か嫌なことがあって不機嫌なことに気づいた。

「なんかあったの?」

「・・・別に」

「じゃあ僕のジュース飲まないで」

「ごめんじゃん」

「気にしてないけど」

「予選リーグ突破しそうになったんだけど、私が凡ミスして。ダラダラ負けていっちゃって。準々決勝にも行けなかった」

アジア大会って結構規模が広いんだな、と場違いなことを考える。僕は人生で困ることがあるんだけど、多くは相手が何に怒ったのかが分からない時の沸点。そのなだめ方。ごめん、と無責任に言ってもそうやって謝るだけ、とか。何に対して悪かったか分かってないでしょ、とさらに温度を上げてしまう。そうならないように今までは静かにしていた。

僕だって。

毎日無機質に生きているわけじゃない。感情があるのは言わずもがなだし、普段我慢をしているわけじゃないけど表に出すとめんどくさいから出さないだけ。分かりづらいって言ってみたり、その方が安心。どっちだよ。

今までの感情が契約満了で吐き出される。

「なんか言ったらどうなの!?」

「残念だったね、とは思うけど。僕は詳しくないし、余計なこと言っちゃ悪いよなと思って次があるじゃん、なんて言わなかったんだよ!僕だって嫌なことがあった日があるし、それを見せたくなる日だってあるのに!ジュース飲むことはマジで気になんないけど、勝手にキレるのだけは勘弁してよ」

結局こうだ。人間は学んでいるように見えて、何も学ばない、同じ過ちを繰り返す。それをさらに繰り返して、螺旋が途切れることを人は学習と呼ぶのだろうけど。

執着がない、鈍感。その器に人の「便利だなコイツ」がたまっていって。知らず知らずのうちに僕の不満もそこに混ざり始める。そのバケツのありかは分からなくて、いつ爆発するかも分からない。溢れて爆発した時に、一方的に思われて大体関係が終わる。

口から飛び出た冷たい言葉が空気を凍らせた。

悪いと思っていなかったから謝りたくなかった。子供の喧嘩みたいに仲裁役が来てくれたらよかった。事情を聞いた上で両方とも等しく悪かったね、って言ってくれる役。

「私、もう寝るわ…晩御飯、あっためて食べて」

「・・・うん」

結局は同じ寝室に入る。世間ではありふれたことってこの関係性が納得するように僕は仕向けなければいけない。

翌日どんな会話をしたかも、朝ごはんに何を作ったか、味はどんなだったかを思い出に残せない。そんないつも通りの朝を過ごしてそのまま仕事に向かった。

僕が何かを報告するのはいつもユキちゃんが一番最初。

「大切な人とね、喧嘩しちゃって。悪かったな、とは思えないんだよね。感情が爆発することっていつなんどきでもあることじゃん?僕は今まで爆発させなかっただけで、感情自体はきっとため込む習性があって」

ご飯をあげたり、部屋を掃除する時は檻で仕切られた場所にユキちゃんを入れて行うようになった。傷つけないことは分かっている。でもその方法を持っているだけで犯罪者みたいに、敬遠する。ただ生まれ育ってきただけでも。恐れる。

怖くないと言えば嘘だけど、人が自分のことを恐れることを覚えておくべき。自分の身を守るために傷つくことがないように。人に近づかないように。

「帰るの気まずいんだよね。でも帰る場所って言ったらあそこくらいしかないし。帰るんだけどさ。ユキちゃんも家に帰るまでは僕の愚痴に付き合って」

小さい檻の中で首を傾げて、低い声を漏らした。道具を片付けて部屋を出る。ユキちゃんを解放する。


様変わりしたユキちゃんに関するエトセトラを考え始めるとキリがない。体重や、身長の外見の変化だけでも数えきれないのに。人懐っこくなった、とか。ボールが好き、ご飯はこれが好き。もうそれは全ていらなくなってしまう。

君のためにつけた記録も。君のためだった写真も。いつから義務感のように僕のためになっていた。

ああしていればよかった、と思うことはない。十分にしてあげられていた、と思うから。今船の底の方のコンテナに入れられているユキちゃんに最後にひどいことをしてお別れだ。

船で何日もかけて北極に向かう。

出会ったころの冬と変わらない風景が広がっていた。前回とは変わった基地長に歓迎された。早くに済ませた方がいい、と着くなりお別れのセレモニーを行った。基本的にホッキョクグマは単独行動だけど数頭いるところを見つけられた。そこまでソリで引っ張って行く。近くにユキちゃんを降ろした。

「汰葉くん、危ないよ」

「最後なので、許してください」

背中に手を当ててあっちへお行き、と少しだけ押した。

言葉はかけない。それがここに残していくことよりも残酷だと思う。さよなら、がないだけもしかしたらまた会えるかもしれないを期待させる。次に来る時は僕のこと、人間のことなんて覚えていないんだろうけど。

僕の顔を見上げたユキちゃんには笑顔を返した。がおー、ってあやしていた時の笑顔。口をパクパクと動かしてがおー、を伝えた。

白い毛の背から手を放してゆっくり数歩ずつ後ろに下がる。涙を流すと頬が凍ってしまうから流さない。人間の感情の揺れ動きが人間よりも伝わってしまう相手に悲しいとバレてしまうなら泣かない。もう会えないから泣かない。もう会えないなら泣かない。

いじめられんなよ。


行きよりもはるかに短い時間で日本に帰ることが出来た。

悩んでいた時間が嘘みたいにあっさりとお互いの納得が傍にあった。

伊織さんは結婚を機にグループから抜けた。もう北極に行くことはない。僕も余程の仕事がなければいかないと思う。出来ればホッキョクグマ以外の動物の生態調査がいいな。流氷とかでもいい。


いじめられんなよ。


【完】

あおいそこのでした。

From Sokono Aoi.

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太陽の雪原 あおいそこの @aoisokono13

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