逆さごと
車イスで生活をしている老母と、七十近い次女が、離れて暮らす長女の訃報を受け取ったのは、初雪が降った朝だった。
テレビのニュースでは、雪が降りしきる原爆ドームが映し出され、何十年ぶりかの大雪警報が再三に渡って流れている。石油ストーブだけでは底冷えするような気がして、エアコンの電源も入れようかと迷っているところに電話が鳴った。はいはいはいと電話に出た次女は、いつものように明るく対応していたが、少しして受話器を押さえたままストーブに手を翳している母に呼びかけた。
「お姉ちゃん、亡くなったんじゃって。どうする?」
「ほんに? そがいなこと・・どうする言うても、あんた、行くしかないじゃないの」
「東京まで?」
次女はあからさまに嫌な顔をした。
それもそのはず。東京までの交通費はばかにならない。さすがに、とんぼ返りするわけにもいかないので、宿泊代もかかるだろう。東京の物価は高いのである。いくら香典がないとは言っても、痛い出費なのだ。更には、車イスでの不自由な移動。齢九十五にさしかかる母に負担がかかり過ぎる。それら全てを担うのは、次女だ。なので、彼女はなるべくなら行きたくなかった。幸か不幸か雪は明日にかけて降り続く予報で、新幹線だけでなく空の便にも既に影響が出ているようだ。どう考えても近日中に動くのは難しそうだ。
「仕方ないじゃろ。じゃけえ、うちは、あがいなとこ行くなって止めたんじゃ」
母は眉間に皺を寄せて、広げた手を擦り始めた。最近、よく痺れるのだ。
「げにね。たいぎいじゃの」
「大変じゃ。あの子が自分勝手なばっかしに」老母は深い溜め息をついた。
電話は長女にヘルパーを派遣していた介護事業所からだった。身体障害者として生活保護を受給していた長女の火葬は、市でやってくれるのだと言う。ただ、現状として火葬場の空きがなく、順番待ちなのだそうだ。火葬待ちの日にちを利用して、納棺と葬儀を兼ねた簡単なお別れを行おうと思うので、良かったら参列して欲しいという内容だという。
「でも、どがぁして行く?」
いかにも行く前提の言葉とは裏腹に、次女は、どうにか行かずに済む方法はないかと必死に模索している。
「二日後じゃったら、雪も落ち着くかもしれんね」
老母はニュースの天気予報を睨みながら、難儀なことじゃ、と呟いて小さな溜め息をついた。
「先のこたぁわからんわ。たちまち、様子見て連絡することにするよ」そのほうがええ、と次女はまるで自分自身に言い聞かせるようにして、再び受話器に向かう。老母は、窓の外で風に舞い踊る細かい雪に目をやった。
あの子が、とうとう死んだのだ・・
老いた母の脳裏に、呱々の声を上げて少しして脳性小児麻痺の宣告を受けた長女のことが思い描かれた。
寝たきりだった長女が、唯一動く腕の力で、始めて自力で移動したことが思い出される。あの時、この子はなんて生命力が強い子なのだろうかと我が子ながら驚嘆した。その生への執着心のままに成長し、車イスに乗れるようになる頃には、旺盛な自立心から一人暮らしを始めた長女。生活で必要なできることを増やし、自ら仲間を作り、恋人を作り、同じような境遇の男性と結婚まで成し遂げた。けれど、突然、最愛の夫を捨てて東京に出て行ったのだ。今思い返してみても、どうしてなのかわからない。どうして、長女は、あの不憫な身の上で得られる限りの幸せと安定した生活を捨ててまで都会に出ていったのか。
次女は、お金だと言う。手当ての額が少なくなったから、まだ減額になっていない東京に行ったのではないか。つまり、守銭奴故に、愛する伴侶も故郷も捨てたのだと。その見方はあながち、間違っていなさそうである。長女は、金品に対して人並み以上の損得勘定が働いた。
幸せはお金では買えないと、いくら諭しても変わらなかった。産まれたばかりで高熱を出して苦しむ長女を、金がないからと、すぐに病院に連れて行けず、それで自分はこんな体になってしまったのだと、或は貧乏に対しての怨恨から来るものかもしれない。
お金さえあれば、なんとかなる。なんとでもなる。長女はそう勘違いしてしまってはいないだろうか。
一家揃って満洲から引き上げてきてからは、決して裕福ではなかったが、特に短命だろうと言われていた寝たきりの長女に関しては、望むものは極力与えられるようにと、僅かな手持ちの品を質に入れて心を砕いてきたつもりだ。時には次女に我慢させてまで。
それなのに、一体どうしたことか。
「お姉ちゃんは、よくどはげじゃ」
母に窘められた次女が、吐き捨てるように毒突いていた。だが結局は、優先させていた長女ではなく、ずっと我慢させていた次女がこうして世話をしてくれる。
長女は障害があるから仕方ないと言えばそれまでだが、それにしても、若い頃には派手な恰好と化粧をして男性にチヤホヤされ、あれやこれやと高価な贈り物をもらったと自慢したりと、良く言えば人生を謳歌しているようであり、悪く言えばやりたい放題だった。
父親譲りの顔立ちの次女は長女より地味な印象で、その容姿に違えることがない堅実な人生を歩んでおり、例えるなら庭で咲き誇る薔薇と秋風に揺れる道ばたのコスモスくらい違う。
長女は、自慢された次女の気持ちなど考えたことはなく、常に自分が誰より一番可哀相な存在であり、優先されるべきであると認識していた。他人が思い遣って優しくして譲ってくれるのは当たり前のことであり、自分は当然そうされるだけの努力をして生きてきたという自負もあるので、いくら周りが忠告をしても、四面楚歌と思い込んででもいるのだろうか、ことごとく攻撃と取って拒絶し、一切聞く耳を持たなかったのだ。
考えてみれば、とっくに親元を離れて自立している娘が放縦な生き方をしていることについて、いくら娘の体が不自由だからといっても、その原因が金を工面できなかった自分たち親にあったのだとしても、いつまでも介入すべきではないだろうし、気にするべきではないのかもしれないと、母はいつしか長女のことを割り切って考えるようになっていた。
いくら心配していても詮無いこと。長女は自ら望んで飛び立っていったのだ。
そうなると、巣に残った次女のことをなにかと気にかけてやりたくなるのが親心。思えば、母自身も障害のある哀れな長女の手前、遠慮して健常者の次女にそっけなくしていたような気がする。
可哀相なことをしていたと今更ながら後悔するとともに、次女との時間を取り戻すかのようにして、母と次女は急速に親睦を深めていったのだ。
そんな次女が、温厚な性格をした男性を見つけてきて結婚した時には心底安堵した。孫を抱きながら、ようやく人並みの母としての幸せを噛み締めることができた。
夫が亡くなり、老年になり足腰が立たなくなり、怪我をして入院して車イスの生活を余儀なくされた時にも、我慢強くじっと側に付き添っていてくれる娘の存在を心強く思うと同時に信頼してもいる。
老婆は窓から不満顔の娘に視線を滑らせると、また一つ溜め息をついた。
「この人、いっつも、歯を気にして生きてたわよねぇー」
芸能人のようなキレイな歯並びを満遍なく見せて笑う遺影を眺めながら、中年女性が呟いた。
小柄太めのドワーフを思わせるその女性は、訪問介護ヘルパーとして彼女の家に通い続けて十年のベテランだ。花を飾り付けていた丸っこいシルエットの若い介護士が、あー確かにーと彼女の言葉に答えた。
「歯磨きに関しては、くっそほど細かかった。生活保護受けてたのに、わっざわざ大阪の歯医者まで通ってたしね。インプラントにしてさ。あれって、アリなの? インプラントって高いじゃん」
「そこは、あたしも謎だったわー大阪の歯医者が、どう申請出してんのか知らないけど、それって不正受給の部類なんじゃね? って思ってた。生保で高額なインプラント代まで出るなら、みんな挙って生保申請するわよー今度、役所の担当者と話す機会があったら聞いてみようかなって思ってるわー」
事務所の電話が鳴り始めた。ドワーフ女性は慌ててすっ飛んでいった。介護事業所内にある狭い会議室を使ってのささやかなお別れ会なので、手の空いている職員が準備をしているのだ。
入れ違いに、車イスに乗った事業所長が入室してきた。
五十代後半にさしかかるであろう女性だ。
障害者の介護派遣事業署では、障害を持った人が責任者になっていることがよくある。障害を持っている本人が、こうしたいああしたいと思って事業所を立ち上げる。もちろん、誰でもできることではない。けれど、前向きに貪欲に学ぶ姿勢や、諦めずに取り組み続けることで実現するのだ。役所関連や法的な知識、経営のノウハウ、経理や各種申請の方法、人材を雇い派遣する際に派遣される側と利用する側に発生する諸々の決まり事や手続きなど、介護事業所の経営は一筋縄ではいかない。利用者、ヘルパーどちらからのクレームも多い。それでも、自分と同じ困っている障害者を一人でも手助けしたい一心で、がんばっている。ここの事業所長はそんな一人だった。一人息子の自立を機に、五十近くなってからの独立は並々成らぬ努力があったろうと推測されるが、穏やかな性格をしている事業所長からはその片鱗すら感じられない。
所長は、先程の職員と同じく遺影をじっと眺めている。
「この人・・東京が嫌いなのに、なんで東京に来たのだろうね」
あー確かにーと若い介護士が、再び所長の言葉を拾う。
「いっつも東京の悪口言ってましたもんね。こっちの医者はヤブだとか、ご飯もマズいとか、人が冷たいだとか。外出して飲食店に入った時とかに唐突に言い出すから気まずくって。正直、勘弁してって感じでしたね。もういないから言えますけど、そんなに嫌なら関西帰れよ!って、私ずーっと思ってましたもん」
「噂だと旦那さんを捨てて単独で出てきたんだってね。関西よりこっちのほうが優遇されることが多いとでも思ってたのかしらね。だとしたらお気の毒なこと」と、所長は眼鏡をゆっくりと押しやりながら、冷ややかに言い捨てると静かに退室していった。
さすがに、知り尽くしている人の言葉の重みは違うなと若い介護士は思った。
それにしても、障害者という種類の人達は、健常者よりも疑り深いのはなぜなのだろう、と彼女は常々疑問を抱いている。障害者同士では、表面上の付き合いに止めているらしいのだ。和やかに笑って話をしていた顔同士が、ちょっと横を向けばビックリする程冷たい横顔になっているのをよく見かける。お互いに麻痺や障害がある者同士、共感して親しく付き合えそうなものなのに、なぜか、相手より自分の方がと優越をつけたがっているようなのだ。だから、ヘルパーはそんな悪口も聞く羽目になる。あの人は、あんなことを言っていたけど見栄っ張りだ、とか。あの人は、ああ見えてケチだ、とか。どうでもいい。要するに暇人なのだろう。だから、そんなことばかり思うのか、そんなところにばっかり目が行くのか、どっちだかわからないが、どっちでもいいし、勝手にやれよと辟易する。実際、若い介護士は、利用者からのそんなくだらない愚痴ばかりを聞かされることがストレスで、体重がぐんと増えたことを気にしていた。
若い男性の介護士が、幽霊のようにブラブラと手を振りながら入室してきた。
「この人、すげーテレビショッピングしてたおばちゃんだろ?」開口一番そんなことを言う。正解だ。
「そうそう!テレビショッピングのCMの情報をくっそ信じてた!金があるから無駄遣いしまくりで」
「金があるって、でもそれ、オレらの血税だろ? なんか、そんなもんに使われていると思うと腹立つな」
それまで会議室のテーブルの端っこで、黙って折り紙で鶴を作っていたブロッコリーのような頭をした若い介護士が、あたしあの人苦手だった・・とぼそっと吐き捨てた。
「なに話しかけても無視するくせに・・こっちが間違えたりミスったりした時だけ、まるで鬼の首を取ったみたいな顔をして大きな声で指摘して責めてきて・・正直、嫌いだった」
「くっそわかる!一体何様のつもり? って感じだよね!障害者ってだけで、健常者にそんな横柄な態度取っていい道理にはならないっつのー保護されて金もらってる分際で、こちとら、必死になって働いてんだっつーの!冗談じゃねーしって、ほんと腹立つこと多かった!あんた何様よって!」若い介護士が吠える。
「はははは。だな。けど、それってやっぱ、性格や人柄なんじゃないのか? うちの所長みたいな人だっているじゃん。同じ障害者でも、お互い様だからって健常者に気を使うことができる人だって、ちゃんといるわけだよ。それって障害とか健常とか以前に人として当たり前のことなんだけど」
ノックの音が鳴り響いて三人は口を閉じた。見ると、会議室の扉を困った顔をした事務所長が叩いている。
「ご家族が来てるから、こちらにお通ししてもいいかしらね。お茶を、出してあげてね」
三人は慌てて、片付けたりお茶を入れにいったりと散らばった。
「お姉ちゃんが、お世話になって。迷惑かけとったみたいで、申し訳ないことです」と、車イスの老母共々、深々と頭を下げる次女。
事務所長が、笑顔で首を横に振りながら気にしないでくださいよ、と優しく声をかける。
「こちらは、それが仕事ですのでね。それに、人間誰でも裏表がありますし、ましてや完全にプライベートですから、年がら年中機嫌良くなんて無理な話です。仕方のないことですから」
「はあ。じゃが・・」車イスの老婆は、枯れ木のように細い手を祈るように組んだ。
「それより、はるばる遠方から、さぞかしお疲れでしょう。もうすぐ搬送されていらっしゃるとのことですので、それまで、どうぞ、ゆっくりしていてくださいね。本日はどこかにお泊まりに?」そんなことを話しているうちに、棺に入った故人が搬送されてきた。
死後硬直が少ないのか、いつもとあまり変わらない姿で納まっている。
「あの、これ、着せちゃりてえんじゃけど・・」老母が震える手で紙袋を差し出している。受け取って中を見ると、手編みのベストとスカーフが入っていた。どちらも目に鮮やかなオレンジ色である。
歓声が上がった。
「ご本人が大好きな色ですね!とってもステキだわ!」ドワーフ女性が明るい声を出した。
「じゃあ、さっそく着せてあげましょう。棺に入ったままでも大丈夫?」と所長が聞くと、ベストですから問題ないと思いますと若い介護士達が答えて取りかかる。そして、あっという間に着せた。が、よく見るとベストが裏表逆なのに気付いた。慌てて直そうとする介護士たちを老母が止めた。
「そのままで、ええ。あっちの世界は、あべこべだそうじゃ」
「あべこべ? ああ、逆さごとのことを、おっしゃっているんですね」と事務所長が思い至った。
逆さごとってなんですか? どういうことですか? と職員から疑問が上がった。
「私もどうしてなのかは知らないんだけど、あの世は、この世と逆らしいよ。天地も昼夜も逆なんだって。だから着物も逆に着るし、靴下も左右逆に履く。縦結びや北枕もそれだって聞いたことある。だから、私もそのままでいいんじゃないかなと思います」
職員は老母と所長の意見を採用して、ベストはそのままに、故人の首にスカーフを巻いた。ところが、スカーフを結ぶ段になって、誰からともなく縦結びのほうがいいんじゃないの? という意見が出た。
「縦結びって、どうやってやるの?」若い介護士は思案顔だ。
「なんか、縦になればいいのよ。ほら、いつも、この人が苛々しながらやってたアレよ」と、故人がかつて、思い通りに結べないヘルパーに腹を立てて、スカーフだのマフラーだのを引っ手繰って自分でぐちゃぐちゃに結んでいた様子を思い浮かべて再現してみた。そっくりだった。右麻痺だったため、確かに縦結びだ。
「あべこべ世界なら、麻痺があっても自分でできそうだね」と誰かが言うと、確かにねーと笑いが起こった。
「まったく・・ちゃんと成仏してよね!」と、涙ぐんだ若い介護士が故人の肩を叩いた。
「ほんと。間違っても文句言いに出てこないでよね」東京なんか嫌いよ!って、とドワーフ女性が笑いながら分厚い靴下に覆われた子どものように小さな足を擦った。冷え性だったので、よく擦ってあげたのだ。
「あの世では、障害とかお金とか関係なくなるでしょうから、無駄遣いもできませんね」残念でした、とブロッコリー頭の介護士が呟いて故人の髪をそっと撫で付ける。髪をヘナで染めてあげるのは彼女の役目だったのだ。
「お疲れ様でした。あの世で旦那さんに会えるといいですね。今度は、自分勝手に捨てちゃいけませんよ」と、事務所長が伸び上がって故人の手に触れた。故人の手には、数年前に亡くなった夫の遺骨が入った小さな包みがしっかりと握られていた。
結局、残された夫は、東京に出ていった妻の帰りを待ちながら死んでしまったらしいのだ。
次女は、無言で姉の顔をじっと凝視しているだけだった。姉妹として育ってきたというのに、こんな時になっても惻陰の情すら催さない自分は、この介護事業所の職員の人達より遥かに姉に対してなにも思っていなかったのだと気付いた。無理もない。一緒に遊ぶこともなかったのだ。
母は、もっと複雑な顔をしていた。
老母は、車イスから一瞬伸び上がって故人の顔を覗き込んだだけで、一同に頭を下げた。
「娘のために、こがいにしていただいて、ありがとうございます。この子は、幸せ者じゃの」
東京からの帰り道、小さな骨壺を膝に抱いた母は、窓の外にふと目をやった。
新幹線から見える景色は、ぐんぐん後ろに飛んでいくのだが、ずっと見ていると、進んでいるのか戻っているのかわからなくなってくるのだ。
長女は自分が、進んでいるのか戻っているのか、ちゃんとわかっていたのだろうかと疑問が浮かんだ。
あまりに強い意志を原動力に、欲に任せて勢いよく駆け抜けていったもんだから、もしかしたら進んでいるのだと錯覚していたのかもしれない。それとも、どこに進んだらいいのか、ほんとは、よくわからなかったのかもしれない。そんなことを思った。あべこべだ。長女の人生そのものが、ひょっとしたらあべこべだったのかもしれない。母は骨壺を持つ手に力を入れた。でも、もうしゃーなー。一緒に家に帰ろう。
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