旅支度


「ここ、どこかしら?」

 妻が、壁に掛けてあったカレンダーを外して持ってきた。

「ん? どれどれ。ギリシャのミコノス島だって。下に小さく書いてあるよ」

「どこどこ? あら、そこね。小さ過ぎて見えなかったわ」やあねえ、もう老眼かしらと頬を膨らます妻。

「なに言ってるんだ。まだ五十にもなってないじゃないか。それで、ここがどうしたっていうの?」

 苦笑いするボクに、行ってみたいわ!と、妻は目を輝かした。

「ギリシャなら、このバックの海はエーゲ海ね!エーゲ海に浮かぶ青と白のコントラストの島!素敵だわ!行ってみたいわ!ねえ、パパ、どのくらい貯金すれば、家族で行けるかしら?」

「ちなみに、ママのご希望滞在日数はいかほどだい?」

「そうねえ・・せっかく行くんだから、一日二日なんて慌ただしいことはしたくないわ。島時間を味わってのんびり過ごすことを考えるなら一週間くらいが妥当じゃないかしら」

「家族四人で、往復の飛行機に乗ってる時間を差し引いてってことだね」

「もちろんよ!往復の飛行機代も勘定に入れなきゃいけないわね。だいたい、いくらくらいかしら?」

 ボクはスマホを駆使して、おおよその旅行代金を計算した。

 息子二人はまだ中学生なので、彼らの長期休みに合わせるとなると、まず飛行機代が高くなってくるだろう。更に、ホテルの種類。アパート風なのかホテル風なのか。それによって三十万から百万ほどの開きがある。

「シーズンだったら上限なんてあってないようなもんだよ。まず飛行機代は、最低でも片道一人三十万は見たほうがいいね。それと、ホテルだ。五つ星とかに拘らずにそこそこ立派なとこでってことなら、四人で百万くらいあれば充分じゃないかな。だから、だいたい三百五十万くらいかな」そう言ってスマホの電卓画面を掲げた。

「あら、案外そんな金額で行けちゃうのね」もっとするのかと思ってたわ、と妻。

「それだって、充分高いさ。少なくともこの家よりはね」

 ボクたち家族が住んでいる家は、ボクの両親から譲り受けたものだ。使いづらかったところをリフォームはしたが、知り合いの建築屋に頼んで安くしてもらったので、何百万もかかったわけではない。

「でも、あなたの愛車より安いわ」

 ボクは最近、念願だったトヨタのランドクルーザーを購入したばかりだった。目的はただ一つ。息子達と交流を深めるための男同士でのアウトドアスポーツやキャンプだ。高額な買い物だったので、もちろん妻の反対に合ったが粘り強く交渉を重ねた結果、勝ち取ることできた。だから、だろうか・・

 新車に夢中だったボクは、妻のこの突飛な提案に、最初は全く乗り気ではなかった。

「ミコノス貯金!始めましょ!」

 妻は、本気だったらしい。

 真っ青な空の下に並ぶ青く塗られた窓や扉が鮮やかな白い町並や、歌に出てくるようなブーゲンビリアが咲きこぼれる白い石畳の裏道を家族でのんびり散歩する夢を、実現させようとしていたようなのだ。



 

 ネクタイを締めた後に、寝室の姿見に全身を写してざっとチェックした。

 普段は、そんなことしない。自分で確認しなくても、おかしなところがあれば、妻が目敏く指摘してくれるからだ。ネクタイ曲がっているわよ、襟が立ってる、汚れがついてるわ、などとボクの代わりに鏡になってくれる。

「パパ、用意できたよ」

 扉から顔を覗かせたのは、着慣れた制服姿の長男と、真新しい制服姿の次男。

 どちらも同じ高校の制服だ。最後の高校生活の年を迎えた長男と、今年から高校生活をスタートさせた次男。

 ボクたち夫婦の自慢の息子達だった。

「他に、持って行く物は、いいの?」長男が手にした紙袋を持ち上げた。

「昨晩、揃えた物だけで、たぶん大丈夫だと思うけどなぁ。他になにか、あるかい?」

「ううん。手紙、書いたから」長男の言葉に、次男も、こっくりと頷く。

「そっか。もし、なにか思いついたら、教えてな」明日の昼までなら追加できるみたいだから、と言い足すボクの言葉を、まんじりともせずに聞いていた息子二人は、静かに頷いた。

 普段から、どちらかと言えば、おとなしいというかクールなほうではある息子達は、ここ数日、輪をかけて必要最低限な言葉しか口に出そうとはしない。無理もない。いつかはそうなることであっても、それをいくら理解したところで、悲しみに襲われない道理はないのだ。息子達は、冷静を装った水面下で、必死に喪失感や悲しみと向き合おうとしている。

 ボクは、二人を抱き寄せながら、よし、ママに会いに行こう、と背中を軽く叩いた。


 妻は、乳癌だった。

 一度目は早期に発見できたために一命を取り留めることができたが、実はその時にリンパ節に転移していたらしい癌細胞が全体に広がっていた二度目は、もう、手の施しようがなかった。それでも、妻は、苦しい抗がん剤での延命治療を希望したのだ。


 少しでも長くこの世にとどまって、愛する家族と同じ時間を共有したい。


 それが妻の最後の願いだった。

 亡くなる数日前、治療の合間を見計らって訪問すると、妻は、げっそりと痩せ細った顔を窓に向けてウトウトしていた。最近、こうして夢うつつの状態になっていることが多い。意識はあるらしく、話しかけると答えるのだが、彼女の生命力が染み出していっているようで辛かった。

 確実に死に向かっているのだ。

「・・ねえ、パパ」

 妻の溜め息にも似たかそけき声は、彼女の手を握って祈るように額に当てていたボクの耳に鮮明に響く。

「ドレッサーの 開き戸に・・貯金箱が あるの。葬儀代に して」

「なに言ってんだ!頼むから、そんなこと・・言わないでくれよ!ママは、死なない。死なないよ!」

 ボクが怒鳴るようにそう反論すると、妻は乾ききった口角を少し上げて寂しそうに笑った。

「そうね・・死なない。でも お願いよ」

 彼女と連れ添って、二十年。

 幾多の荒波を共に乗り越えてきた。破れ鍋綴じ蓋。最高のパートナーだと思っている。

 それなのに、どうしてこんな志半ばの中途半端なところで、彼女と別れなければいけないのか。彼女を永遠に失わなければいけないのか。息子達はまだ学生だ。せめて、彼らが成人してからでも遅くないのではないのか。妻はどんなにか心残りだろう。

 PTA役員として精力的に活動していた妻。自治会のボランティアまでかって出て、老若男女関係なく人付き合いがうまかった妻。明るく、快活で姉御肌だったので、友人知人から引っ張りだこだった妻。なによりも家族との時間を愛していた妻。彼女が、いったい、なにをしたというのか。弱気を助け、分け隔てなく親切だった彼女が、いったいなんの因果でこんな苦しい目に合わなければいけないのか。

 慨嘆に堪えない日々を送った。

 無事に朝を迎える度、彼女の命がまだあることに安堵しながら夜になることを恐れ、夜になれば、彼女の命がひっそりと尽きてしまうかもしれないという不安に脅かされながら、電話の音に怯える。

 妻の言動一つ一つ全てが、遺言のようで、見逃すまい聞き漏らすまいとして、目を凝らし耳を澄ます毎日。それは、息子達も同じだった。ウトウトしている母親の手を握り、今にも泣き出しそうな顔をして、発狂しそうな己をじっと抑えている。折しも、数日後に次男の高校受験が迫っていた。スポーツ推薦で進学した兄と同じ高校に推薦でいけるだろうと次男の担任からお墨付きこそもらっていたが、そもそも推薦枠が少なく倍率が高くなっているため、油断ならない。彼は毎日塾に通い、塾のない日は長男からも勉強を見てもらい、遅くまでがんばっていた。母親が生きている間に、安心させる嬉しい報告をしたいのだという気迫が感じられた。

「ママ、ぼく、がんばってくるから、待ってて」

 受験前日、力強く握った次男の温かい手に、妻は微笑むと渾身の力を振り絞ってゆっくりと頷いた。

 次男は見事に合格を摑み取った。それを妻に報告すると、涙を流して喜んだ。


「あぁ みんなで いきたかったなぁ・・」


 それが、妻の最後の言葉になった。

 妻は、次男の合格から数週間後、安心したように息を引き取った。

 去永四十三歳。

 梅の蕾が綻び始めた、まだ肌寒い早春の晩だ。

 ボクたちが引き止める祈りも虚しく、妻は、たった一人で、静かに旅立っていった。

 恐怖と苦痛に立ち向かい、最後まで弱音を吐かずに闘い抜いた妻の死に顔は、とても美しかった。



 納棺の儀には、家族意外にも早くから集まってくれた多くの親戚が立ち会った。

 妻側の親戚が多かったことと、通夜の時間より早く集まっていたこともあって、約三十人に見守られながらの納棺は、奇妙なよそよそしい空気の中、進んだ。

 最前列に陣取っていたボクたち家族は、お気に入りのワンピースを身につけて、まるで見せ物のように布団に横たわる妻から視線を外すことができなかった。安らかな顔をした妻の冷たい手足を、入院していた時のように拭き清めるのは大丈夫だった。

「足袋、脚絆、手っ甲の順に旅のお仕度をつけさせていただきます。よろしければ、ご家族様には、お紐結びのお手伝いをお願いいたします」

 納棺師にそう案内されたボクと息子達は、妻の側に座る。

 旅支度、かあ・・・・息子達と一緒に、左右の足袋の紐をキュッと結んだ瞬間、視界がさっとぼやけた。

『やっぱり、飛行機で一泊するなら、楽な靴がいいわよね』と、いつか履く予定であったろう靴を熱心に吟味していた妻の姿が浮かんだのだ。その靴を履いて、彼女は、ミコノス島の隅々まで歩いて探検する気でいた。万歩計を手放さなかった妻は歩くことが大好きだった。きっと彼女は、ミコノス島の滞在で、太陽が昇る前から起床して、朝の海に行くのだろう。昼間は町中を散歩をして、夕方には沈む夕陽を眺めながらビーチを歩く。そして、夜になったら満天の星空の下を歩くのだ。新婚旅行でグアムに行った時に、そうしていたように。

 ボクは何度も目を拭って、すっかり肉が落ちて、骨と皮だけになってしまった痛々しい妻の脛を包んだ脚絆の紐を結ぶ。

『紫外線を甘く見ちゃダメよ。足にもしっかり日焼け止めを塗らないとね』

 息子達の運動会や、部活の試合の時、キャンプやアウトドアのイベント、バーベキューの時にも、妻は紫外線を徹底的に避けていた。今の日焼けが何年後かの肌に出てくるのよ、と言って、自分だけじゃ飽き足らず、ボクにまで渡してくるものだから、笑ってしまう。男には必要ないよと返すと、男性は気楽でいいわねぇと、更に上塗りしていた。

『虫除けも必要かしらね。ギリシャにも蚊は、いるわよね』

 ボクの気が回らない細かいことに気がつくのも、妻だった。幼い息子たちの血は一滴足りとも吸わせまいと、ありとあらゆる虫除けグッズを買いそろえていた徹底振りだ。妻らしい一面だ。

 そんな彼女のドレッサーの引き戸を、昨晩、開けたのである。

 椿油や乳液に囲まれて、小ぶりな貯金箱が、鎮座していたのを発見した。

 表面には妻の丸っこい字で『ミコノス貯金!』と書かれた紙が貼られている。中には、百円からお札までの合計二十万ほどが入っていた。たった一人で地道にコツコツ貯めた、妻の夢だった。


 あんなに楽しみにしていたギリシャ旅行に使う気で溜めた資金を、いったいどんな思いで・・

 どんな思いで、自分の葬式代にしろと言ったんだよ・・


 妻の無念さを思い、やるせない気持ちになった。

 最後に手っ甲の紐を、結ぶ。

 蒼白になった妻の手。細長い指の先に並んだ形のいい爪の色は、陰気な紫色になっている。

『人生に一度くらいバカンス焼けをしてみたいのよ。真っ黒に焼けた家族四人でミコノス島を歩くなんて、最高じゃないの。そうしたら、あたし、焼けた肌に似合う派手な色のマニキュアを塗るわ。派手過ぎて、普段じゃ絶対に塗れないような若々しい色をね』うふふふ、と茶目っ気たっぷりの妻の笑い声が聞こえてきそうだ。

 ああ、きっと小麦色に焼けた君の肌には、とびきり派手な色のマニキュアが似合うだろうね。君は、そうして、爪に負けないくらい派手な水着やドレスを着たりするんだろう。最高の笑みで。あれ・・でも妻は日に焼けるのを何より恐れていたはずだ。ミコノス限定で焼くってことなのか。それとも不可抗力的に焼けたってことなのか。どうでもいい矛盾が浮かぶが、思えば妻はいつもそんなだった気がする。その時の気分で話すものだから、矛盾はけっこうあった。でも、天真爛漫さでカバーしていたのである。そして、ボクはそんな妻を愛していた。妻の生前の姿を思い描けば、描く程、悲しみはいや増していく。

『パパ!記念写真撮りましょう!この記念すべき家族旅行の記録を、ずっと残すの!たくさん!たーくさん撮りましょうよ!』

 妻の楽しげな声が聞こえてくるようだ。でも、聞こえてくるはずがない。聞こえてくるはずがないんだ・・

 妻は、こんなにやせ衰えてしまった。もう元気な頃の彼女ではない。そして、

 生きていた時の彼女でも、なくなってしまった。


「ママ・・どこ行っちゃうんだよ」


 手っ甲に覆われた冷たい彼女の手が、ゆっくりと濡れていく。


 どうして、ボクたちを置いてっちゃうんだよ。


 ボクも息子達も君が必要なんだ。そんなことわかってるだろ?

 君がいなきゃダメなんだ。

 それなのに、


 どうして、一人だけどっかにいっちゃうんだよ。


 きっと、待ち切れなかったんだよね。ごめん。ごめんよ。

 君の葬儀代は、ボクが弾き出したミコノス旅行の金額より大きい。

 だから、あの時、思い立った数年前に、行ってしまえばよかったんだ。そうすれば、数年後に君がこうして癌に殺されても、きっと思い残すことは少なくて済んだのだと思う。

 君の最後の言葉『みんなで、いきたかったなぁ・・』の、いきたかったは、生きたかっただと思ってたけど、行きたかったなんだろう? 君が言いたかったのは、家族でミコノス島に行きたかったってこと、なんだよね。


 ママ・・ごめんね。


 旅行資金なんて、金銭面なんて本当は大した問題じゃなかったんだ。

 大切なことは、限りある時間だった。

 その時間をいかに充実して過ごせるかだったんだ。


 金は、思い出を形作るための、手段でしかなかった。

 ボクは、間違っていたよ。

 今は無理だとか、金がないって言ってたって、こうして同じような金額で葬式をするんだ。

 どうせ同じ金額なら、葬式よりもミコノス旅行に使ったほうが、遥かに豊かで幸せな人生の時間を過せたはず、だったんだ。

 それなのに、


 どうしてボクは、

 ママの希望を叶えるために、すぐに行動しなかったのか。


 出せないはずはなかったんだ。

 あの時にだって、もしこうして葬式をしなきゃいけなかったと考えれば、無理して出せない額ではなかった。どうして、


 そう考えられなかったのか。


 ボクたち家族の時間は、これから先も、ずっと続いていくのだと、どうして微塵の疑いすらなく思えたのだろう。

 いや、当たり前過ぎて、思うことすらしなかったのだ。

 曇り一つなく穏やかな平和な日常が壊れる未来なんて、想像する必要なんてなかったから・・

 だけど、愛する妻を失って、初めて、理解した。

 ボクは、ボクたちが享受していた日常は、うすはりのように繊細な一瞬一瞬の、積み重ねだったんだ。

 それが些細なきっかけで割れることなんて考えずに、欠けるなんて想像もせずに。なんの根拠もなく、どれだけ傲慢だったのか。

 妻が行きたがっていた数年前にミコノス島に行っていれば、そうすれば、また違った結末を迎えることだってできたかも、しれないのに。どうしてボクは。


 どうしてボクは・・!


 後悔しても後悔してもし足りなかった。後から後から自責の念が込み上げてくるのだ。それが、嗚咽となって、喉元に迫り上がってくる。ボクは、夫失格だ。もう、取り返しがつかない。彼女が癌になった時点で、時は遅かったんだ。過ぎ去った時間は二度と戻ってはこない。どんなに願っても戻ってくることはないのだ。妻が生きていた時間は過去になり、そして、ボクたち残された家族の前には妻のいない時間が冷たく横たわっている。想像するだに恐ろしい。ボクたち男三人だけで、これからどうせよと言うのか。

 ママがいなきゃ・・ママがいなきゃ、ボクたちは・・

『もう!しっかりしてちょうだい!』

 いつもへっぴり腰のボクの背中を叩いて叱咤激励してくれていた頼もしい妻は、二度と、その瞼を開けることはない。

 妻の手を固く握りしめたまま慚愧の念に駆られるボクに誘われるように息子二人が、忍び泣きを始めた。

 奇妙な沈黙に支配され、収束のつかなくなる空間。構うもんか。だって、これが最後なんだ。


「・・ひとりで、どこ 行っちゃうんだよぉ」



 式場に設置された祭壇は、妻が好きだった萌黄色の花々で埋め尽くされ、まるで春の野山にいるように明るい。

 その中央、まるで神への供物か生贄のような位置に、棺に入った妻が安置される。

 ボクたち三人は、妻の棺からどうしても離れられずにいた。

 こうして彼女の顔を見れるのは、明日の昼まで。これが本当に最後なのだと思うと片時も離れたくなかった。

 叶うことなら、この忌まわしい棺桶から妻を出して、ずっと寄り添いたいくらいなのだ。けれど、そんなことをしたところで、僕らの喪失感や悲しみは癒されることはなく、いや増していくかもしれず、妻だって喜ばないかもしれない。

『ホラもう!しっかりして!』と、ボクは怒られてしまうかもしれない。でも、それでもいいんだ。

 棺に納まった妻の顔は、安らかではあったが、どこか寂しそうにも見える。

 妻の手元には、昨晩、それぞれがしたためた三通の手紙。

「ママ、読んでくれるかな・・」

 長男が震える声で呟いた。

 次男は顔をくしゃっと窄めて泣くのを堪えている。そんな息子達を愛おしく感じた。

 声質、癖、性格、奥二重の目、手の形。二人の息子は、亡き妻を少しずつ引き継いでいる。彼女は息子たちの中に生きているのだ。ボクは息子たちの背を撫でた。

「読まないわけないだろ。君たちは、ママの宝物なんだ」

 うんうんと頷きながら目を擦る二人の息子たちと共に、妻の最後の顔を脳裏に焼き付けようとした。

 ボクは、もう二度と、同じ後悔を繰り返すことがないように、妻に誓う。

 これから息子たちと一緒に、いちから積み重ねていくだろう時間は、薄い氷のように脆くかけがえのないものであること、けれど、妻の愛情という光を反射してキラキラと美しく輝くであろうことを、生活の多忙さに揉まれようとも決して忘れることのないように。

「行こうな。ミコノス」

 息子二人が、当惑そうな表情をボクに向ける。彼らも一番行きたがっていたのが母親だと知っている。

「ママを、連れて行ってあげよう。ママに、見せてあげよう」な、と二人の肩を叩いた。

 目を見開いた二人は、笑って頷くと号泣し始めた。二人の頭を撫でながら、ボクは天窓から妻に語りかける。


 ママ 君は、今どこにいるんだい?

 一緒に、ミコノス島に行くよ!

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