家族の形
御伽話ぬゑ
遺影
冷たい親父の手を握った途端、どこからともなく声が漏れて、視界が揺らいだ。
幼かった頃に繋いだあの手が、野球で活躍したことを褒めてくれた頭を撫でてくれたあの手が、受験の時に頑張ってこいと言って背中を叩いてくれたあの手が、仕事で失敗してしまった時に黙って背中を擦ってくれていたあの手が、永遠に体温を失ってしまった現実。それがどっと押し寄せてきて、実感した。
親父は死んだ。
どこかに逝ってしまった。
目の前のこの手は、二度と温もりが戻ることはなく、動くことも、ない。
見る分には、平気だった。
あぁ親父、死んだんだなぁと思っただけで。だけど、触ったら、違った。
今までの親父との思い出が一遍に溢れてきて、涙が止まらなかった。
悲しくて。おれ、ほんとうはスゲー悲しくて悲しくてしょうがなかったんだなぁと、気付いた。
ふと横を見ると、兄貴も静かに号泣している。
眼鏡に涙が飛び散っているのだ。
マジかよ。あの冷血漢が?
俄には信じられない光景だった。
インテリ眼鏡の七三分け。浅黒く焼けてひょろひょろした長身に、おつむだけが取り柄の嫌味な兄貴だ。
そんな兄貴は、昔気質の親父を唾棄してた。
親父と一番喧嘩してたのは、多分兄貴。
親父は兄貴に、結婚して家を継いでもらいたかったんだ。それなのに、東京の大学に受かった兄貴は、後ろ足で砂でも引っ掛けるみたいにして家を出ていった。それから、卒業も就職もブラジルへの転勤も結婚も全て事後報告。
報告を受けた時の、親父の頬を緩めたり、肩を落としたり、涙ぐんだりしていた様も知らないで。つくづく自分勝手なことだ。親父が入院した時にだって一度も見舞いにこなかったくせに。危篤の知らせを受けても、駆けつけてこなかったくせに。全部おれに任せっぱなしだったくせに。形だけの喪主のくせに。それなのに、
それなのに・・なに、ちゃっかり泣いてんだよ。
ふざけんなよ・・ふざけんな!
無性に腹が立った。
腹が立って腹が立って、今すぐにでも兄貴を殴りつけなきゃ気が済まないくらいの怒りを感じた。だが、今はダメだ。親父の霊前だ。兄貴を、なにより目にかけて、気にしていた親父の面前じゃマズい。
おれは拳を固く握って耐えた。その間も兄貴は、途切れることなく涙を流し続けていて。しらじらしい。
「よかったあーまにあったあー」
棺に納める段になって、ゴスロリの恰好をした中年女が突如現れた。
一応、黒一色で統一されてはいるが、ゴスロリはゴスロリ。女は金髪頭を振り乱し、半泣きになって親父に取りついた。
「パパぁー!なんだってこんな急に、いっちゃったのよおーあたし、かなしいー」
動揺を隠しきれないおれが視線を上げると、穢らわしいものでも見るようにぎょっと皺を寄せた兄貴と目があった。
お前も知らないのかと、アイコンタクトで確認し合う。かつて兄弟として体得した意思疎通方法は、どうやらまだ健在らしかった。つまりは、お互いにこの女の存在を把握していないようなのだ。
いったい、誰だよこのオバさん・・
中年女は、わざと臭いほどの悲しみを表現して、嘆いている。
さっき、親父をパパって呼んでなかったか? 親父の恋人・・なのか?
いやいやいや。ないないない。有り得ないだろ。お袋一筋だった親父に限って。こんな歳で・・いや、まさかな・・
じゃあなんだ? サクラ? 中国とかでよく聞く泣き女ってヤツか?
だが、葬儀のオプションにそんな記載は一切なかった。
おれたちの脳裏に、憶測が次々と飛来しては、正解を求めて徘徊する。
女に頭を抱かれて激しく揺すぶられている親父の顔は、心なしか先程の安らかな顔から迷惑そうな顔へと変わってきているように見える。親父の側に控えている納棺師の顔色も戸惑いの色から警戒色へと変色していく。
当たり前だ。肉親であるおれたちですら知らない女なのだ。
「あんた、いったい・・」と、おれが切り出したその時、女が顔を上げておれを見た。
一寸の滲みもないぶっといアイラインと艶のあるマスカラが、先程までの大泣きが演技だったことを語っている。
カラコンの色は安っぽい青。ギャルのつもりか? 時代遅れもいいとこだ。おれは女に負けないように睨み返した。
女の開いた毛穴が目に入る。随分と厚塗りをしてるんだな。口紅で固めた唇も乾き気味で皺が多い。
「・・あんた、誰だよ?」
女は口を開けて、驚いた顔をした。まるでハニワだ。
「うっそー!聞いてなかったんですかあー? あたし、パパのヘルパーだったんですー週に三日くらい行って、一緒にお出かけしたりいーご飯作って食べたりいーテレビ見たりいーしてましたー・・でもー知らなかったとかあー信じらんなーい。パパ、あんなに息子さんたちのこと自慢してたのにいー・・あ、つまり、連絡も取ってなかったってことですかあー? うわー最悪ー・・パパ、マジでかわいそー」かわいそーかわいそーと連呼しながら、親父の頭を再び抱く女。
おれたちは、ぐうの音も出なかった。その通りだった。
ブラジルに住んでいる兄貴は疎か東京にいるおれですら、親父が入院したのを知ってからの帰郷だ。
入院前の親父がどんな風に暮らしていたかなんて、恐らくこの女以外、誰も知らない。
女は、まるで鬼の首を取ったかのように、ドヤ顔で話し始めた。
「パパとはーかれこれ十年くらいの付き合いになるかなあーあたしが初めてヘルパーに入った家だったからあーパパは自立歩行が難しかったじゃないですかあー・・え? 知らない? うっそ!そんなことも知らなかったんですかあー? あたしがヘルパーで入った時から、もう手を引いてもらわないと歩けない状態でしたけどねーでも、なにかに掴まって立っていることはできたからー排泄とか下系のお世話は楽でしたけどねえー」言いながら女は、おれたちを品定めでもするようにして交互に眺め回した。それは、あんたたち、家族のくせにそんなことも知らなかったんだあーという侮蔑が含まれたチクチクしたものだった。どうでもいいが、パパとか間際らしい名称で呼ぶんじゃねーよ。
「ほらあ、パパって十なん年か前に脳卒中やってるじゃないですかあ? え? それも知らない? ええええー!うっそおーそれが原因で一人で歩けなくなったのにー知らないとか、信じらんない!そんなんで、ほんとに家族ですかあー? それで、あたしがよく手を引いて、外出してたんですよねえーー両手引けば電車にも乗れたんで、つまり自分だと足が前に出なくて、上がらなかったからあー」
親父、そうだったのか。全然、連絡してこないから知らなかったよ、親父。
いや、違う。違うな。
親父が入院する前に、おれの携帯に何度か留守電が入っていたんだ。用件は言ってなくて、電話しろとだけ吹き込まれていた。
おれは、恐らく兄貴も仕事が忙しい言い訳を自分自身にしながら、一回も折り返さなかった。
そのまま十年くらいがさっと過ぎた頃に再び留守電が入っていた。病院からだ。
親父が倒れて入院したから、手続きや説明のために一度来院して欲しいという内容だった。とうとう来たのかと、おれは真っ青になって駆けつけた。それから数週間で今に至る。
目の前の女はつまり、入院するまでの十数年間、親父の世話をしていたってことなのだろう。それにしても、やたらと態度がデカい。
兄貴がずり落ちた眼鏡を押上げながら、それはそれはと冷静な声を出した。
「長年にわたって父の世話をしてくださって、ありがとうございました。父もさぞかし報われることでしょう」
女はいきなり大声をあげながら、親父の冷たい体に突っ伏した。
兄貴の言葉なんか聞いちゃいない。
「あたしはあーもっとパパと、過ごしたかったわよおおおおおー!」
おおおおおおーと慟哭を上げる。もう手が付けられない。
おれたちは唖然と見守ることしかできなかった。
なんだ、これ・・なんだ、この光景。
アレ? これって誰の葬式だったけ?
親父の脇で控えている納棺師みたいに引き攣った笑みを浮かべながら見守れたほうがまだマシだ。
氷点下から警戒に変わった眼差しを女に向ける兄貴がぼそっと呟いた。
「・・どっちが身内か、わかんねーな」
知り合いが既に他界している親父の葬式は、告別すら不要だろうと思った。
ところが、宗旨がある家であれば、その筋の坊さんに経を上げてもらったほう親父も安心して旅立つことができるだと嘘かほんとかわからないことを葬儀屋に言われたので、おれは言われるままにお願いしますと言ってしまったのだ。
葬儀の打ち合わせなんかしたことがない。お袋が死んだ時には親父が喪主としてテキパキと仕切っていたから。
初心者丸出しのおれの判断の結果が、この回送者が殆どいない侘しい告別だ。
納棺を早朝に設定したので、昼過ぎには終わる予定だった。
会葬者は数人の介護関係者と、近所でまだ生き残っている数名のジジババ。それに、兄貴とおれ、に、先程の女。
女は引き続き、レースの塊みたいなハンカチで顔を覆って耳障りな泣き声を上げている。
おれは、読経の間中、兄貴が口にした身内という言葉を考えていた。
兄貴はおれの横でスマホを弄っている。
そんな様子を一瞥しながら、もし、肉親の死に面して悲しみの度合いを計ることができて、その度合いが高いものほど肉親と言うのなら、きっと、あんたが一番身内から遠いよな、と不謹慎にもスマホ弄りを止めない兄貴の横顔に無言で語りかけた。
一定の波長で眠気を誘う坊主の声。
がくっと寝落ちしてしまったおれも大概、他人事だ。
火葬場に移動する段になって、例の女がいなくなっていることに気付く。
「兄貴、あの女・・」
「ああ、やっと失せたか」迷惑だったなと微動だにせず切り捨てる。
焼き上がった親父の骨は、ほとんど残っていなかった。
辛うじて頭蓋骨だけが断片的に残っているくらいだ。
兄貴は苦虫を噛み潰したような顔でそれを眺めている。
二人でぎくしゃく協力しながら親父の骨を箸で摘み上げていく。ところが、うまくいかない。お互いに勝手な動きをするからだ。どっちかがどっちかに合わせようなんて微塵も思っていない。
ただでさえ脆い親父の骨は何度も何度も落とされて、どんどん砕けて粉々になっていく。
兄貴が小さく舌打ちをした。
「帚かなんかで集めて、ちり取りで取りゃいいだろ」
兄貴の言った言葉で、ほんと、人生なんてあっけないなとしみじみ思った。
最後は灰・・それを、散らばった粉みたいに帚で集めて、ちり取りで掬って、ゴミ袋、じゃない。骨壺に。
終戦直後に産まれた親父は若い頃から、散々苦労したのだと聞く。
波瀾万丈を当て嵌めるに相応しいほど、日本を再建させるために駆け回った立派な人生なのだと、よくお袋が話していた。
それなのに、残ったものなんて、こんな脆い骨がちょびっとだ。
それ以外、なにも残らなかった。
おれたち兄弟は・・まぁ、親父がこの世に残せた存在と言えるのかもしれないな。子孫ってやつ。けど、血が繋がってるってだけで、このザマだ。こんな共同作業にも難航するくらいにお互いにどうでもいい。ほんとに兄貴とは息が合わない。
死んだお袋が見たら嘆くかな。いつも、たった二人しかいない兄弟なんだから、仲良くしなさいって言ってたから。
集められた白い灰のような粉を見て、鼻の奥がつーんと痛くなった。
親父の人生って、いったいなんだったんだろう?
「おまえ、この後どうすんだ?」
骨壺を抱きしめて感慨に耽る間もなく、兄貴がキビキビ聞いてきた。
「どっかで飯食ってから、帰るけど」
「実家にか?」
「ああ。遺品整理が残ってる」
それもそうだな、と兄貴は少し考え込んでいるようだった。というか、頼むとかなんとか言えねーのかよと、おれは心の中で、少し悪態をつく。遺品整理はきっと大変なんだ。金もかかる。その費用のことも切り出さなきゃいけない。ケチな兄貴はまた渋い顔をするんだろう。
「・・なら、おれも、そうするか」
兄貴の意外な言葉に、おれは静かに動揺し始める。
確かに遺品整理の費用の話をしたいとは思っていた。が、長時間、兄貴と一緒にいたおれは、若干疲弊していたのも本音だ。
子どもの頃以来だったが、高圧的で皮肉と嫌なことばかりを口にする兄貴は、ずっと一緒にいられるような相手じゃない。
『低学歴の人間が夢みてんじゃねーよ。大学にすら行かない人間はミジンコ以下だ』
『おまえがなれる職業なんてドブさらいくらいだ。世の中舐めるな』
『いくら真面目に努力しても、バカはバカでしかない』
『くだらない夢なんて見てる暇があったら、身銭を稼げ。おまえに出来ることなんて、それくらいだ』
『おまえは何様でもない。ただの低学歴のクズだ』名言集のオンパレードだ。
幼気なおれが、思春期の多感なおれが、兄貴に言われた言葉によってどれだけ心を抉られたか。それはもう、スプーンで散々食われまくられたレディボーデンだ。
兄貴のせいで植え付けられたトラウマだってある。忌々しいことには今でも時々患わされて、一向に消える気配がない。
だから、正直言って、兄貴と一緒にいる時間は苦痛だった。
当て擦られたらたまったもんじゃない。
見積もりと領収証を切ってもらって後日、請求すればいいかなと妥協し始めるくらいには、充分疲れていた。
「けど、兄貴は明日、帰国するんだろ?」空港に近い所にホテルでも取った方がいいんじゃ、と渋る。
「だからさ。実家に帰れるのは、これで最後だ」
兄貴らしくない言い分だった。
変わり果てた親父の姿を見て、なにか思うところがあったのかもしれない。
だが、おれは、たった一晩だけにしろ、兄貴と二人っきりで過ごすなんかご免だった。
なんとか前言撤回してもらいたいおれは、グズグズと渋った。そこで、兄貴からまたしても意外な提案がなされた。
「今日はおれが、飯を奢ってやる」だから食いたいもの言えよ、とドヤ顔の兄貴。
おれの浅ましい腹がなった。
ランチタイムは終わっていたがディナータイムにも少し早い中途半端な時間帯のため、なかなか食事にありつけず、やっと牛丼を搔き込んだおれたちは、腹を擦りながら電車に乗った。
駅の近くにある実家までは、電車で行ったほうが近い。
平日の夕方にも拘らず、乗車客が多い車内でお互いに少し離れて吊り革に掴まる。
兄貴が前で抱える紙袋には、骨壺。おれが提げている紙袋には遺影写真が入っていた。
少し暑かったので、ネクタイを緩めたかったが、どこからどう見ても葬式の帰りなので、果たして緩めていいものかどうか迷ったので止めた。
兄貴は真っ直ぐに前を向いて瞬きすらしない。等身大の人形のようだ。
電車が停車して、乗客が降りて新たな乗客が乗ってきた。
先頭を切って後ろ向きに乗り込んできたのは、女だ。
カントリー風のフリルとレースがたっぷりついたブラウスとスカートを身につけている。どぎつい化粧をしているが、中年にあることは間違いなさそうだ。
女が手を引いているのは、背の高い老人。
スウェットトップスにジャージ姿の老人は、嫌がって踏ん張る子どものように腰を後ろに引いた姿勢で両手を引っ張られて乗り込んできた。老人の足が上がらないらしいのは、見て取れた。
迷子札とICカードのようなものを首から下げてオドオドと従う老人の手を、女は容赦なく引っ張って引き入れる。
親切なサラリーマンが老人に席を譲った。
老人はペコペコとお辞儀をして席に座らされる。女はやれやれとばかりにスマホを弄り始めた。娘なのか、介護者なのか、その恰好からは判別できないが、先刻のゴスロリババアのことがある。
アイツが親父の介護をする時にも、あの恰好を通していたとしたら、充分あり得ることだ。と、言うか、あーいう恰好で介護するのが今の、主流なのか? それとも、中年女限定で流行ってでもいるのか?
理解不能だった。
ふと横を見ると、兄貴も二人に釘付けになっていた。
その気持ちは痛い程わかる。
親父もあんなだったのかなと、なんならあの老人が親父に見えてこなくもないのだ。
親父も、あのゴスロリババアにあんなふうに乱暴に手を引かれて、あんな感じに摺り足でやっとこさ歩いて、あんな見ているだけで悲しくなってくるような哀れな様子だったのかもしれないもんな。でも、
おれたちがいたところで、なにができただろう?
あんな状態の親父に対して、ゴスロリ女がやっていたように、介護?
そんなこと、できるわけない。
そもそも、お互いに家庭があるんだ。現実的に考えて無理だった。
だから、どんな扱いをされていようと仕方ないんだ。
仕方ない・・
結局おれたちは、降車駅に着くまで、その二人から目を離すことができなかった。
秋の日はつるべ落とし。
実家の玄関に辿り着いた頃には、すっかり暗くなっていた。
おれが郵便受けの天井に貼付けておいた鍵を剥がすのを眺めていた兄貴が、まだそんな原始的なことやってんのかと口を切った。
「盗まれるような価値のあるものなんて、この家にねーしな」むかしっから、と吐き捨てる。
「それにしたって、通帳の類いとかあるだろう」不用心にもほどがあると、兄貴は尚も食いついてくる。
「とっくに食い潰してら。借金がなかっただけマシだと思えよ」
これには、さすがの兄貴も黙った。
当たり前だ。
おれたち二人は、家を出てからの親父の生活に一切ノータッチだった。
お袋は、おれたちが小学生の時に死んだ。癌だった。
工場に勤めていた親父は、男手一つでおれたちを育て上げた。
今振り返ってみても、親父はだいぶ偉かったと思う。勤め先の誰か若い女と再婚でもして、家事とおれたちのことをやってもらえば楽だったろうに、決してその道を選ぶことはしなかった。
兄貴曰く『わざわざ抱え込んで大事にするほどの苦労じゃないのに、親父はバカだ。いい迷惑だ』となる。
電球の下に曝された汚い玄関。
お袋が置いたまんま下駄箱の上で配置を保つガラス細工と造花は、埃を分厚く被って元の形がわからない。
ヘルパーが来ていたのにも拘らず掃除がされていない。
あの女は、いったいなにをしていたんだと腹が立つ。
使い込まれた簡易スロープと、折り畳まれた車イスだけがやけに生々しい色彩を放っている。
扉の脇には、マジックペンで『ガスの元栓!電気!カギ!』と大きく書いたカレンダーの裏紙がある。くせのある親父の字だとわかる。まだ、歩けていた時に、自分で忘れないために書いて張ったのだろう。
相変わらず開きの悪い下駄箱の中には、おれたちが昔履いていたボロボロのスニーカーや薄汚れたローファーが、親父の擦り切れた作業靴に混じって並んでいた。
手摺がつけられた廊下も埃が溜まり、台所は饐えた臭いがする。下水の臭いが上がってきているのと、冷蔵庫の中身が腐っているらしかった。
「ゴミ溜めだな」
兄貴は鼻を押さえて息を止めながら、家中の窓を全開にしてまわった。
おれは、親父の遺影写真を食卓の上に置くと、冷蔵庫横に発見した旧式の掃除機で、とりあえずの寝床として和室に掃除機がけをしようとした。
ところが、ランプが点灯してすぐに止まってしまうのだ。よく見ると、掃除機の上部が半開きになったまま透明なビニールテープで止められている。だからかぁと思ってビニールテープを剥がした途端、大食い大会で優勝した人間の内蔵みたいにパンパンになったゴミパックが飛び出してきた。
怒りを通り越して、ここまで来るとさすがに呆れる。
おれは、それをゴミ箱に持っていくと、ゴミ箱も溢れかえっている。
七十ℓのゴミ袋を見つけて、そこに次々とゴミを叩き落としていく。
小さめのビニール袋を見つけたので、ゴミパックの代わりに装着すると掃除機が騙されて動き出した。やれやれ・・
掃除機をかけただけなのに、カーペットの色までが蘇って見える。
黒カビだらけのエアコンを見上げながら、今が秋でよかったと溜め息をつく。エアコンもストーブもつけなくて済む。
二人分の寝れるスペースの掃除機をかけ終わったおれは、布団はどうしたもんかと、次の課題を考えながら和室へ向かう。
客用の布団が和室にしまってあった、はずだ。
途中で、二階から降りてきた兄貴と鉢合わせた。
「風呂なんて入れたもんじゃない。便所なんてもっとだ。ビジネスホテルに泊まったほうがいいかもな」
「居間で寝れるよ。おれ、掃除機かけたから。布団運ぶの手伝えよ」
「寝れるような布団なんてあんのかよ」ダニだらけで寝れたもんじゃないだろう、と兄貴はぶちぶちと文句を垂れて一向に動こうとしない。
さっさと家を出ていった兄貴は知らない。
親父が客用の布団にだけは、いつも神経を使って防虫していたことを。
和室の押し入れを開けると、上段の桐すのこが敷かれた上に風呂敷に包まれた布団が二組鎮座していた。
居間に運んで風呂敷を開けると、防虫シートで覆われて樟脳がこれでもかと挟み込まれた滲み一つない布団が現れた。
反射的に食卓の上の親父の写真に目を向ける。その写真は、親父がおれたちの運動会に来た時のもので、満面の笑みで写っている唯一のものだった。その笑顔が言っていたことを思い出す。
『この客用布団は、この家の中でいっちばん上等の布団なんだ』
そんな親父の考えが、おれには理解できなかった。だから聞いた。年に数回来るか来ないかの客のために、どうしたってそんな上等の布団が必要なんだと。おれたちで使ったほうがいいんじゃないかと。
おれの言葉を静かに聞いていた親父は、こう答えた。
『稀にしかない特別な時にしか使わないものだから、上等のものじゃなくちゃいかんのだ』
意味がわからなかった。
だが、親父がこうして大切に保管しておいたお陰で、おれたちはここで一晩を過ごすことができる。
兄貴もさすがに、もうなにも言わなかった。
ビールを飲んだおれたちは、電気を消して早々に布団に潜り込んだ。
濃厚過ぎる一日だった。
目が暗さに慣れてくると、月光が部屋に差し込んでいることに気付いた。
そういえば、今夜は中秋の名月ではなかったか。
おれは、体の位置を変えて窓を見上げる。
エアブラシで吹き付けたような薄い雲が描かれた夜空に真珠色をした満月が浮かんでいた。
月面の半分は痣のようなクレーターがいくつも広がっている。おれには、それがいつも、親父の顔の滲みに重なって見えるのだ。
「親父の顔のシミだ・・」
隣で煙草を吸っていた兄貴が、ぽつりと呟いた。
顔の右半分にいつもあった親父のシミは、補正された遺影写真からは取り除かれており、納棺時には化粧で隠されてしまったのだ。棺の中に納まっている親父は、白くて鼻毛すらなくてまるで蝋人形みたいだった。
あれ・・ほんとに親父なのかな?
兄貴も同じことを感じていたのかは不明だし、知りたくもないが、そんなくだらないことで兄弟の実感をするなんて、バカげていた。
コイツは嫌味な兄貴なんだ。
おれの一番大っ嫌いな兄貴なんだぞ。
おれは、兄貴の言葉でじわっと胸に染みたなにかを必死に打ち消そうとして瞼をきつく閉じた。
いくら血が繋がってるからって言ったって、そんなの関係ない。兄貴と綴り合わせられる感情なんてないんだ。
開け放した窓から、虫の声が戸惑うようにして入り込んできた。
ふかふかの布団は懐かしい樟脳の匂いがして、それが、おれをノスタルジーな気分にさせる。
おかしいじゃないか。おれは実家に、いるのにな。
それは、兄貴も同じなのか、珍しくなにも言わずに、深い溜め息をついている。
横を向くと、テレビの横にある仏壇の中から、お袋が色褪せた笑みを送ってきていた。元は、和室にあった仏壇を、親父が一人暮らしになった時に移動させてきたようなのだ。
お袋の、仲良うしなさいよと窘める声が聞こえてきそうだ。
そういえば、二人の位牌はどうするのかも話していない。相続上では兄貴が引き取るのが筋だが、ブラジル的にはどうなのだろう。おれは引き取れなくはないが、妻がいい顔をしないだろう。
どうして次男のあなたがやらなきゃいけないの?!長男であるお兄さんがやるべきことでしょ?!
今回の葬儀にしても遺品整理にしても、頼み込んでやっと許可が出たのだ。
妻の了解を得ることは、会社に休暇申請を出すよりも大事なのだ。思わず溜め息が漏れた。
気を取り直して、改めて居間を見回す。
ガキの頃から変わっていない家具とその配置。
壁には、カレンダーとおれたちがもらった賞状や絵が色褪せながらも変わらず貼られている。
壁紙の凹みは、兄貴と喧嘩した時におれが殴ったものだ。
兄貴が誕生日ケーキにさすローソクを誤って落としたカーペットの焦げ痕。
座椅子にかけっぱで、そのまま座椅子カバーみたいになった親父の薄汚い作業着が、まだある。
テレビの上で首を振っていたお土産でもらった親子の赤べこが動かなくなってどのくらい経ったのだろう。
居間だけじゃない。台所にも風呂場にも二階の寝室にも子供部屋にもおれたち家族の思い出が詰まったこの家。
どれひとつとっても、思い出があるものであり、ゴミなんて一個もないはずなのに、明日には、ゴミとして処分しなければいけない。
遺影写真の中で笑う親父が、情けない子どもたちを見守っている。
親父の口癖『なーんも気にするこっちゃない』が聞こえてきたらいいのにと願うが、聞こえてくるわけがなかった。
電車で焼き付いた光景が蘇る。
親父もあんなふうに、あんな惨めな動物みたいな扱いを受けていたのかと思うと、鳩尾が痛くなった。
様子を見にもこなかった分際で、無責任だったくせに、異を唱えるとか憤慨する資格なんてないのはわかってる。
悪いのは、あの女じゃない。
それを受け入れないと生きていけない環境に親父を追い込んだ、親不孝なおれたちなんだ。
その上で、更なる所業を重ねようとしている。
親父・・ごめん・・
親父だけじゃなく、親父がずっと守って維持してきたもの全部、この家ごと、
おれたち・・捨てるんだ
・・ごめん
おれは布団に顔を埋めた。水道の蛇口を全開にしているように涙が次々と溢れてきた。あっというまに布団が濡れていく。
親父の躯を前にしたときでも、ここまで悲しくはなかった。
しばらくすると、鼻を啜る微かな音が聞こえてきた。
月光色の長方形が静かに忍び寄ってきて、おれたち二人をすっぽりと包囲する。
やっぱり、兄弟かよ・・
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