三日目
第10話 いたずら
「ふぁー、よく寝たー」
私は伸びをした後寝室の電気をつける。
「あれ?神谷?」
横のベットに視線を送るとそこには神谷はいない。次第に嫌な予感がして心臓が圧迫されるような感覚に襲われる。
「ど、どこにいるの」
私はどたどた足音をたてながらリビングに向かう。廊下がとても長く感じる。
「い、いた。よかった!」
ソファーで横になっている神谷を見て心の底から安心する。そしてゆっくり近づいて手首に触れる。
「つ、冷たいな」
私はそう呟いて寝室に戻ると布団を取ってきて神谷にかける。
「何でこんなところで寝てるのよ、同じタイミングでベットに入った――」
リビングを見渡しながらそう呟いていると一つのキャンバスが視界に映る。それはリビングの中央に置かれていて存在感を強く感じるが視界に入っていなかった。
「……すご」
正面に立って見てみると視線と思考を奪われてその場に縛られる。今まで美術館に連れていかれて様々な絵を見せられてきたがこんな感覚に襲われたことはなかった。心が震えて胸が熱くなっていくのが分かる。
「この堕天使は私だ」
神谷という希望に縋っている私だ。私が見ている景色がそのまま絵の中にある。
「本当に凄いな神谷は、これを描くまでにどれだけの努力をしてきたんだろ?それとも努力だとは思ってないのかな」
私はそう言ってキャンバスの縁をなぞる。
「……私には何もないのに」
改めて私は空っぽな人間だということを自覚する。
「やめやめ、こんな事考えても意味ないでしょ」
沈んだ気持ちを晴らすように顔を叩くと椅子に座るがすることがなくソワソワしてしまう。
「神谷と会う前は何してたんだっけ?」
私はノートを開いて出来る事を探すと以前よりチェックが増えていることが分かる。そして一人で出来るものはチェックで埋められていることにも気づく。
「あ、そうだ」
いいことを思いついた私は水性のペンを持って神谷の所に行く。
「起きないのが悪いんだよ」
私はそう言って慎重に神谷の顔に落書きをしていく大きなまつ毛の目を額を含めた三つを書いてほっぺに渦を書く。そして眉毛をびっくりするほど太く書いて鼻の輪郭をなぞっていく。
「こ、これはひどい」
私はそう言いつつペンを走らせていく。次は唇の輪郭を太くなぞっていく。そして丸ひげを生やしたら完成だ。
「……起きろー」
私は小さくそう言いながら神谷の頬をつつく。
「起きてー、かまってー」
私は耳元まで近づくとそう囁いてみる。
「……何やってんだろ私」
急に恥ずかしくなった私は思わず呟く。
おとなしく待とう。そう思った時だった、神谷と目が合ったのは。
「へ?」
私が間抜けな声を出すと神谷は顔を背けるように反対に寝返りをうつ。
「い、いつから起きてたの?」
私が慌てながらそう聞くが返事は帰ってこない。それが意味することは私の奇行を見ていたということになる。
「忘れてお願い。精神がおかしかったの」
「……うん、これからは夜更かしせずに早く起きてかまうよ」
「っ!?」
うん。だけ言ってくれればいいのに神谷の余計な一言で私の体温は急激に上昇する。
「そ、そうだよ。私より夜更かししちゃダメだよ」
私は振り絞るようにそう言うとリビングから撤退して寝室のベットに飛び込んで足をバタバタさせる。
「うぅ、あっあ、あーーー」
橘が枕にうめき声をあげている時、神谷はソファー上で落書きまみれの顔を押さえていた。
「びっくりした。夢かと思った」
唇の輪郭に落書きされている時からぼんやりと意識があったが夢だと思っていた。しかし頬をつつかれる感覚と耳元で囁かれる感覚が妙にリアルで現実だと理解した。
「かわいかったな」
息のかかる感覚の残る耳を押さえながらそう呟いた。
「準備は出来た?」
「うん、出来たよ」
僕は楽しみ半分と憂鬱な気持ち半分で返事する。
「それじゃあ海へ出発ー」
そう言って僕達は自転車に乗って走り出す。今朝の気まずい気持ちは消えて話しながらゆっくりと向かう。
「あ、そうそう。神谷の絵凄かったよ!」
「あ、ありがとう」
「渦中の宿望ってタイトルもピッタリだったし」
自分でもびっくりするほど嬉しかった。久しぶりの感覚だった、絵を評価されることはあれど純粋に褒められたのなんていつぶりだろうか?
「あの絵に免じて夜更かししたことは許してあげよう」
「ごめんて」
「あと寝たふりは禁止で」
「落書きされちゃうからね」
水性とは言っても落とすのは大変だった。
「そ、そう、落書きするからね」
相当暇だったのか恥ずかしそうに何度も忠告してくる橘はとても愛らしく見える。
「海までどれくらいかかるの?」
「うーん、三十分ぐらい?」
「……頑張ろ」
自転車で三十分だと距離で七キロぐらいだろう。
「私も世界が終わってから海には行ったことがないから楽しみだよ」
「行かなかったの?」
「うん、なんか怖かったからさ」
確かに一人きりで海という果てのない壮大の代名詞のようなものを見るのはキツイものがある。
それに僕が想像するような青い海ではないことも薄々察しているだろう。
「ねえ、神谷はどれぐらい絵を描いてきたの?」
「えっとね、本気でやり始めたのは七歳からかな」
そこら辺の年齢は曖昧だがデッサンや遠近法を本格的に練習し始めたのはそこら辺の時期だった気がする。
「七歳ってことは十年以上絵を描いてるんだ」
「そうなるね」
僕がそう返事をすると橘はなんだか暗い顔になる。
「一日どれくらい描いてたの?」
「うーん、学校行ってない時間はほぼ描いてるからな」
具体的な数字を答えるとなると少し迷う。
「1週間で45時間くらいかな?」
「平均すると一日六時間越えか。凄いなぁー」
橘は独り言のようにそう口にする。
「私も一日六時間勉強やバレエをやってたか怪しいな」
橘は下を向きながら小さくそう口にする。いつもとは違う暗い雰囲気に目を奪われる。
「ご、ごめんね。卑屈になっちゃって」
「大丈夫、誰にでも卑屈になることがある――」
「か、神谷!前!前!」
橘がそう叫ぶのと同時に僕は前を見ると大きい岩がすぐ近くにある。
「うわ!」
僕は避けることが出来ずに岩と衝突すると衝撃で身体が前に突っ込んで急所を痛める。
「ちょ、ちょっと!大丈夫?」
僕はその声に応じることが出来ずに悶絶する。
「うっうっ、あぁー」
「あぁ、ご愁傷様です」
橘はいたたまれないといった様子でそう言うと手を合わせる。
「よそ見するからだよ」
誰のせいだ。と言い返したいが悶絶してなくても言えなかっただろう。
「……どれくらい痛いの?」
「この世を恨むくらいかな」
「そ、そっか」
これは女性には絶対に分からない痛みだろう。
「神谷はさ、卑屈になったり自分が嫌になったことはある?」
「そんなの数え切れないほどあるよ」
「そ、そうなの?」
「例えば模写なら対象を上手く描けずにグチグチ言ったり、思った通りに描けず叫んだりしたことなんて数え切れないし」
「でも、それは自分の不甲斐なさや成長の為のことでしょ?」
橘はそう言って表情に影を落とす。
「私はそんな気持ちを抱いたことはない。私には本気になれるものがない」
「そうなの?バレエとかやってたんじゃないの?」
「うん。ピアノとべレエをやってたけど親にやらされてただけだしさ」
「二つはどれぐらいやってたの?」
「えっと……十年ぐらいかな」
僕の絵と同じかそれ以上の時間だ。
「あはは、今考えてみると十年も無駄な時間を――」
「無駄なんかじゃないよ」
僕は否定する。積み上げてきた時間は決して無駄なんかじゃない。
「僕は橘がバレエをしたりピアノを弾いているところを見たわけではないけど上手だと思う。それは自分の苦手に向き合ってきたからだと思う」
「そ、それはそうかもだけど……」
「それなら僕と何も変わらない」
「で、でも私はピアノもバレエも好きじゃないし」
「僕も何度も絵が嫌いになったよ」
僕がそう言うと橘は驚いたような顔を向ける。
「僕より絵が上手い伊吹ってやつに嫉妬して心が折れて絵を描かなくなっての繰り返しだったよ」
「そ、それは好きだから嫌いになっちゃうんでしょ?」
それはそうだが好きかどうかは関係ないと思う。
「橘は嫉妬したり悔しい想いはしたことはない?」
「それは……」
心当たりがあったのか橘は言葉を止める。僕はその姿を見て一つ決める。
「明日もう一回学校に行こう。そしたら橘のピアノとバレエを見せてよ!」
「え、でも」
「これは決定事項だから」
「……ふふ、強引だね」
橘はそう言うといつも通りの笑顔に戻って自転車に乗る。
「今度は安全運転で頼むよ」
「うん」
僕はそう返事して自転車に乗るとしっかりと前を見て走り出した。
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